1995年からJリーグを歩んできたレイソルの歴史です
2001
急ぎすぎたチーム改革前年の年間総合勝点1位という数字が示す通り、「優勝」の二文字を目標に掲げて臨んだシーズンである。だが、大黒柱・洪明甫の故障による長期欠場と、黄善洪の不調も重なり優勝争いからは離脱していく。チームに刺激を与えるため、6月にスティーブ・ペリマンをヘッドコーチに招聘し、西野朗監督との二頭体制を敷いた。結局1stステージ終了後に西野監督を解任し、ペリマンの監督昇格を発表する。それでも成績好転には繋がらず、2ndステージを7位で終えた。さらにこの年限りで洪明甫もレイソルを去り、一つの時代が終焉を迎えた。
J1-1stステージ | 8勝0分7敗/29得点・23失点/6位 |
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J1-2ndステージ | 6勝3分6敗/29得点/23失点/7位 |
ヤマザキナビスコカップ | 決勝T:2勝1分1敗(2回戦敗退) |
天皇杯 | 3回戦敗退 |
リーグ戦チーム最多得点 | 黄善洪(10得点) |
1.10 | 韓国代表MF柳相鐵ら新加入選手を発表 |
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4.29 | 北嶋秀朗が自身初のハットトリックを8分間で達成 |
6.6 | 元清水監督のスティーブ・ペリマン氏のヘッドコーチ就任を発表 |
7.21 | 1stステージ終了。8勝7敗の6位 |
7.23 | 成績不振を理由に西野朗監督解任を発表 |
8.16 | 03年からの柏の葉へのホーム全面移転計画を発表 |
12.10 | 南雄太がフェアプレー個人賞受賞 |
2002
忍び寄る暗雲この年は日韓ワールドカップがあり、Jリーグは変則日程にて行われた。チームから明神智和、黄善洪、柳想鐵がW杯に出場した。だがこの3名のW杯による消耗は大きく、2人の韓国人選手はリーグ戦再開後、わずか2試合に出場しただけでチームを去ることになる。連敗を重ねるチームは残留争いに巻き込まれ、ペリマン監督は解任された。エジウソンの再加入、マルコ・アウレリオ新監督の就任も浮上のきっかけにはならず、終始不安定な戦いを続けた。最終節、宇野沢祐次とエジウソンのゴールでG大阪戦に勝利し、J1残留を決めた。
J1-1stステージ | 4勝0分11敗/20得点・31失点/14位 |
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J1-2ndステージ | 6勝3分6敗/18得点・17失点/9位 |
ヤマザキナビスコカップ | 予選L:Aグループ1勝4分1敗(2位) |
天皇杯 | 決勝T:1回戦敗退 3回戦敗退 |
リーグ戦チーム最多得点 | エジウソン(7得点) |
1.25 | 元ブラジル代表MFサンパイオらの加入を発表 |
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6.9 | W杯ロシア戦に明神智和が出場(レイソル所属選手として初のW杯出場) |
7.10 | エジウソンの再加入を発表 |
8.8 | ベリマン監督を解任 |
8.18 | マルコ・アウレリオ監督の就任を発表 |
9.7 | 柏の葉へのホームスタジアム全面移転延期を発表 |
11.30 | 最終節G大阪戦に勝利、J1残留を果たす |
2003
世代交代による刷新続投したマルコ・アウレリオ監督は若手選手を積極的に起用し、世代交代を進めて前年不振のチームからの脱却を図った。2年目の近藤直也、永田充、宇野沢祐次、ルーキーの谷澤達也、矢野貴章らはU-20日本代表に召集され、故障の矢野を除く4人はワールドユースに出場した。また、玉田圭司が大ブレイクし、11ゴールを挙げる活躍を見せる。しかし、若手が多いこともあってか、チームの不安定さは拭えず、1stステージは9位、2ndステージは11位と成績は伸びなかった。北嶋秀朗、大野敏隆というチームの顔が去ったシーズンでもあった。
J1-1stステージ | 6勝3分6敗/19得点・19失点/9位 |
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J1-2ndステージ | 3勝7分5敗/16得点・20失点/11位 |
ヤマザキナビスコカップ | 予選L:Bグループ0勝3分3敗(4位で予選敗退) |
天皇杯 | 4回戦敗退 |
リーグ戦チーム最多得点 | 玉田圭司(11得点) |
3.1 | 小野寺重之が代表取締役社長に就任 |
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4.1 | ホームゲームで「選手チャリティオークション」開始 |
6.12 | 大野敏隆の京都への期限付き移籍を発表 |
11.27 | ワールドユースのU-20日本代表メンバーに、永田充、近藤直也、谷澤達也、宇野沢祐次が選出される |
11.29 | 萩村滋則がレイソル通算500ゴールをあげる マルコ・アウレリオ監督の退任と、来季からの池谷友良スクールマスターの監督就任を発表 |
2004
初の年間最下位で入れ替え戦へ池谷友良を新監督に迎え、開幕2連勝と出足は快調だった。しかし、3節の新潟戦で大逆転負けを喫して以降、2度の4連敗を含む12試合勝ち星からは見放された。玉田圭司がアジアカップで日本の優勝に貢献し、2ndステージから早野宏史が監督に就任したが、1stステージから続く悪い流れは断ち切れなかった。年間順位で最下位となったが、翌年からJ1のチームが2チーム増えるという変則レギュレーションにも助けられ、入れ替え戦に回ることになる。ここで福岡に勝利。J1の意地を見せ、土壇場で踏み止まった。
J1-1stステージ | 3勝3分9敗/14得点・22失点/15位 |
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J1-2ndステージ | 2勝7分6敗/15得点・27失点/15位 |
J1・J2入れ替え戦 | 対アビスパ福岡 2戦2勝 |
ヤマザキナビスコカップ | 予選L:Dグループ1勝3分2敗(3位で予選敗退) |
天皇杯 | 4回戦敗退 |
リーグ戦チーム最多得点 | 玉田圭司(10得点) |
1.28 | 新体制記者発表。新スローガン「走魂宣言」発表 |
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1.31 | J昇格10周年を記念した「DECADE 柏レイソル10年史」発表 |
3.19 | 玉田圭司、永田充が2006W杯アジア予選対シンガポール戦の日本代表候補に選出 |
3.31 | 2006W杯アジア予選対シンガポール戦で、玉田が代表戦初出場 |
7.2 | 池谷友良監督の辞任、早野宏史氏の後任監督就任を発表 |
8.7 | アジアカップ2004、玉田のゴールなどで日本が優勝 |
11.28 | 年間最下位が決定、J2リーグ3位の福岡との入れ替え戦へ |
12.10 | 福岡との入れ替え戦2戦にいずれも勝利し、J1残留確定 |
2005
混沌と錯綜のシーズン前年の2ndステージから引き続き早野監督が指揮を執った。だが前年からの悪い流れはなおも続き、前半戦12試合中、無得点が6試合と極度の得点力不足に陥り下位に沈む。中盤戦以降、レイナウド、フランサという大物ブラジル人を獲得、さらにラモス瑠緯をコーチに招聘し巻き返しを図るも、27節の浦和戦で0-7という大敗を喫したのを機にチームは浮上の力を失った。16位となり前年に続く入れ替え戦へ。ホーム日立台で、甲府のバレーにダブルハットトリックを決められる悪夢の大敗。屈辱のJ2降格となった。
J1リーグ | 8勝11分15敗/39得点・54失点/16位 |
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J1・J2入れ替え戦 | 対ヴァンフォーレ甲府 2戦2敗 |
ヤマザキナビスコカップ | 予選L:Cグループ2勝2分2敗(2位で予選敗退) |
天皇杯 | 5回戦敗退 |
リーグ戦チーム最多得点 | クレーベル(8得点) |
1.24 | 鹿児島県さつま町でキャンプイン(~2.12) |
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3.1 | 崔成國の期限付き移籍加入発表 |
4.23 | 名古屋戦敗戦後に両チームサポーターが乱闘、当時Jリーグ史上最高額の制裁金1000万円を課せられる |
6.5 | 初のサポーターズカンファレンスを開催 |
8.28 | 薩川了洋がJリーグ通算300試合出場を達成、レイソル在籍選手で初 |
8.29 | (株)日立スポーツ(当時)初代社長を務めた佐藤東里氏が逝去 |
12.10 | ヴァンフォーレ甲府との入れ替え戦に2敗、J2降格が決定 |
12.21 | 早野宏史監督辞任を受けて、来季の新監督に石崎信弘氏の就任が決定 |
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