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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
伊東純也
右サイドを駆け抜ける背番号14。移籍2年目にして、レイソル攻撃陣に不可欠な存在となり、今では"代表待望論"も取り沙汰される。快速自慢の"Speedster"は飄々としながらも、爆発的なスピードで観衆を魅了する。
その姿はまさに"Speedstar"だ。
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
対峙した相手は、誰もが彼の鋭敏なスピードに驚愕する。
「こんなに速いとは思わなかった」
「異次元の速さだった」
「うちにも速い選手はいるけど、あいつは別格」
試合後、マッチアップした選手たちから、そんな言葉が飛び出すのは珍しいことではない。
しかしその一方で、当の本人は飄々とした態度で「たまたまです」「ラッキーでした」と局面を振り返る。
2016年4月24日、J1-1stステージ第8節の鹿島アントラーズ戦。山本脩斗を鮮やかなダブルタッチで抜き去り、観る者全てに衝撃を与えたあのファインゴールも「まぐれっちゃあ、まぐれです」と笑顔を見せるだけで、気にも留めない様子だった。
そもそも、自分は爆発的に速い選手だと思っていない。チャントには「やたらと速い」というフレーズがあるが、それについても「なんでなんすかね。実はそんなに速くないんですけどね」と返答はあくまでも淡白だ。
ただ、それこそが彼の強みなのだろう。
スピードに秀でた選手は、得てしてその武器に偏る傾向があり、したがって技術面や駆け引きに課題を残す者も少なくはないなか、「自分はずば抜けて速いわけではない」と過信をしない性格が、"技術・ドリブルの緩急・相手との駆け引き"の必要性を強め、自らのプレーを磨く要因となる。
それでいて自信がないのかといえば、決してそうではない。むしろその逆。過信はしていないが言葉の節々には常に自信を覗かせる。伊東純也という男は、無意識のうちにその絶妙なバランスを保っているのである。
1970年代、オランダ代表の"トータルフットボール"が全世界のサッカーシーンに衝撃を与えた。その中心にいた選手こそ、アヤックスやバルセロナで活躍したヨハン・クライフ。そのクライフに憧れて、レイソルでは背番号14を選んだ。イエローのユニフォームを身に纏い、サイドを疾走する様は"韋駄天"や"俊英"という言葉では物足りなさを感じるほどのインパクトがある。
スポーツにおいて、快速を武器とする選手に用いられる「スピードスター」というフレーズ。伊東もその例に漏れることなく、ことあるごとに「スピードスター」と形容される。
この「スピードスター」は本来"speedster"と綴られ、英和辞典によれば『高速で運転する人、スピード違反者』との訳が記載されている。したがって日本で表記される"speed star"は誤植から生まれた造語が、そのまま定着した言葉だと伝えられている。
マッチアップする相手からすれば、伊東は明らかに「スピード違反者」である。ただ、レイソルのサポーターから見れば右サイドを切り裂く「華のあるプレーヤー」だ。日本代表のヴァヒド・ハリルホジッチ監督も気になる選手として伊東の名を挙げるように、サッカー界では間違いなく存在を注視される一人。"speed star"という言葉に「スピードを武器にするスター選手」との意が込められているのならば、伊東を形容するのにこれほど適している言葉はないのかもしれない。
プロサッカー選手の多くが10代の頃から注目を集め、クラブユースや高校サッカーで活躍した経歴を持ち、年代別日本代表に選出された者も多いなか、レイソルが誇るスピードスターはそれらの選手とは一線を画す道のりを歩んできた。
その異色とも呼べるキャリアを振り返っていく。
1993年3月9日生まれ。神奈川県横須賀市で生まれ育った伊東は、外で遊ぶことが大好きな活発な少年だった。
小学1年生のときに、「周りがみんなやっていたから」という理由で地元のクラブ・鴨居SCへ入団してサッカーを始めた。OBには7学年上で、2013年にはレイソルに所属していた谷口博之(現:サガン鳥栖)がいた。地元の先輩である谷口は、のちに横浜F・マリノスジュニアユース追浜へ加入することになるが、伊東はJリーグの育成組織とは縁がなかった。
「小6のとき、F・マリノスのジュニアユースのセレクションを受けて、最終選考まで行きましたけど普通に落ちましたね。それで横須賀シーガルズジュニアユースに入ったんです。地元では、F・マリノスのセレクションに残れなかったけど、ここでがんばろうという人がよく集まっていました。だから練習試合では、たまにF・マリノスに勝つこともありました」
プレナスなでしこリーグ2部の『ニッパツ横浜FCシーガルズ』は、横須賀シーガルズのレディーストップチームに当たる。伊東はその男子チームの育成組織で中学の3年間を過ごした。県内の大会では、常にF・マリノスジュニアユースの高い壁が立ちはだかり、一度も全国大会の扉が開かれることはなかった。
とはいえ、現在のJ1リーグでここまで活躍している実力を考えれば、中学時代から素材はピカイチだったに違いない。神奈川県内には高校サッカー強豪校やJクラブのユースチームが複数あり、ステップアップを期して中学卒業後の進路は、いくつもの選択肢が考えられた。その中で伊東が進学先に選んだのは逗葉高校。理由は「家から近いから」。
「クラブチームのユースは考えていなかったし、高校だと桐光学園、桐蔭学園とか、強いチームがあるんですけど、家から通いたかったし、しかも逗葉は公立高校ですし。俺が中3のとき、逗葉が県予選決勝まで行ったんです。だから『強いじゃん』と思ったんですけど、それが当時一番調子良かった成績で、自分たちは県のベスト8が最高でした」
早生まれの伊東は、子どものころには周囲との体格差があり、フィジカルで劣るゆえスピード勝負ができなかった。それが高校生にもなれば体格差は埋まる。ならば高校時代には、圧倒的なスピードを誇るアタッカーとして、いよいよ頭角を現していくのではないか。だが、それをきっぱり否定した。
「スピードも生かしていましたけど、高校のときはスピードより、パスを受けてドリブルをして、スルーパスを出すことをやっていました。『スピードだけ』と思われるのは嫌じゃないですか。それに、そこまでずば抜けて速くなかったし」
卒業アルバムには「プロサッカー選手になる」と将来の夢を書き記したが、現実味があるとは捉えていなかった。もちろん、のちにプロにまで上り詰める選手だ、当然のごとく国体に出場する神奈川選抜の話は持ち上がった。ただ、早生まれのため、伊東は自分の年代ではなく1学年下の代での選出となったことで、「知り合いがいない」との理由から国体選抜を辞退した。
伊東のキャリアの中で、分岐点となったのは紛れもなく大学時代である。
「桐光と試合をすると、桐光の選手を視察しに大学のスカウトが大勢来るんです。桐光との試合は1−6で負けたんですけど、1点は自分がドリブルで3、4人を抜いて決めました。それで大学からは結構声がかかりましたけど、実家から通えることもあって神奈川大学を選びました」
大学1年次は途中出場が多かったものの、2年になれば完全にレギュラーに定着した。中央大学との試合ではマッチアップした今井智基のフィジカルの強さに圧倒され、「メロくん(今井)は最強だと思った」と振り返るが、リーグを通じてコンスタントに活躍した伊東は、この年に初めて関東大学選抜に選ばれたのだ。
「大学はやっぱりレベルが高いと思いましたけど、そんなにびっくりはしなかった。『俺、普通の高校出身だけどできるじゃん』と思いました。そんなに差を感じたこともないですね」
大学での主戦場は現在の右サイドではなく、左サイドとFW。左からドリブルでカットインし、右足シュートで得点を量産した伊東は、大学3年の関東大学リーグ2部で17得点を記録。得点王に輝いた。
大学の選抜チームにはJリーグ入りを有力視された実力者が集う。1学年上には慶應義塾大学の武藤嘉紀(現:1.FSVマインツ05)、1学年下には明治大学の室屋成(現:FC東京)、彼らと同じユニフォームを着てプレーすることで、伊東のプロ行きの意識は格段に高まり、高校の卒業アルバムに書いた漠然とした夢が、次第に現実のものへと変化していった。2012年、2013年と、2年連続の関東大学選抜に続き、2014年の大学4年次には全日本大学選抜にまで名を連ねた。
ここまでサッカーにまつわるエピソードを綴ってきたが、ピッチを離れた伊東純也一個人に着目してみたい。
学生時代の勉学面について話が及ぶと、伊東は「勉強はある程度できました。俺、意外にテストとかできるタイプなんです」と答えた。プロサッカー選手を現実的に捉えたのは、先述のとおり大学2、3年だ。つまり大学入学当初は、卒業後は普通に社会へ出るという考えを持っていたことになる。「俺、要領がいいんです」と謙遜気味に言うものの、大学3年の全過程終了時点で卒業に必要な単位を全て取得していたのは立派な成績だ。
しかし驚くのはそれだけではない。実は、一般の単位と並行して教職も取得していたというのだから、むしろ学生時代の伊東は、サッカー同様に勉学にも相当力を入れていたと思われる。「要領がいい」と聞くと、テスト前だけ勉強をして良い点数を取ると誤解されてしまうが、伊東はサッカーに真面目に取り組みつつ、「練習で疲れたから」などの言い訳をせずに、時間をうまく使いながら勉強に励み、サッカーでも勉強面でも結果を残した。すなわち彼は、文武両道の学生生活を送っていた。
「教員免許は持ってないですけど、教職の単位は取ったので、あとは教育実習に行けばいいだけです。ゼミも教員ゼミだったから、そのゼミにいた人はほとんど教師になりました。でも、単純に話すのが苦手なので、教師は向いていないと思って教師になることはやめました。指導案とか難しかったので、俺には向いていないですね(苦笑)」
プロサッカー選手になった現在はインタビューを受ける機会が多いせいか、「勉強ができなくても、話せる方がいいですよ」と述べる。そこで「勉強すれば、テストでは普通に良い点が取れますからね」と涼しい顔をして答えるあたりに、伊東の飄々とした性格が表れていた。
全日本大学選抜で名を轟かせると、放ってかないのがJクラブのスカウト陣だ。最初にヴァンフォーレ甲府が、続いてモンテディオ山形が伊東に声をかけ、この2クラブの練習に参加した。時間をかけて加入先を探せば、まだ伊東に興味を示すクラブはあったかもしれないが、「一番最初に声をかけてくれたクラブに行こうと思っていた」と、かなり早い段階でヴァンフォーレへの加入を決めた。
プロサッカー選手になる者の多くが、練習参加時や1年目にはフィジカル、スピード面で"プロとの歴然とした差"を感じるものだ。しかし強心臓の伊東は、そこでもネガティブな感情を抱かなかった。むしろ「大卒は即戦力。逆に練習参加で自分の良さを見せられないとプロではやっていけない」と思い、プロ1年目の開幕戦から試合に出る気概に満ちていた。開幕戦デビューは叶わなかったが、2015年J1-1stステージ第2節の名古屋グランパス戦でプロのピッチに立った。「戦術上の理由」により、序盤戦はスタメンの機会を与えられず、初スタメンのチャンスをつかんだのは第9節の鹿島アントラーズ戦だった。さすがの伊東もプロ初スタメン、ましてや独特の雰囲気を持つカシマスタジアムでの試合には味わったことのない緊張感と興奮を感じたのではないだろうか。
「いや、全然。全く緊張しなかったです。それよりも『早くスタメンで使って欲しかった』と、ずっと思っていたぐらいです」
物怖じしない伊東の性格は結果となって表れた。プロ初スタメンで初ゴールを記録し、ヴァンフォーレに貴重な勝点3をもたらした。
プロ1年目はリーグ戦30試合に出場。アントラーズ、アルビレックス新潟、清水エスパルス、浦和レッズから奪った得点は、いずれも敵地。自称"アウェイ男"の本領発揮だった。
2015年11月15日、日立柏サッカー場。天皇杯ラウンド16でレイソルはヴァンフォーレと対戦した。この試合、2シャドーの一角で出場した伊東のスピードに、レイソルは再三苦しめられた。1−1のまま迎えた後半終了間際、伊東は鈴木大輔への鋭いプレスを仕掛け、ボールカットからレイソル守備の要を退場へと追い込んだ。数的不利に陥ったレイソルだったが、今井のオーバーラップからのチャンスメークとクリスティアーノの劇的決勝弾でヴァンフォーレを下し、辛くも準々決勝進出を決めた。
「1−1のとき、エドゥー(エドゥアルド/現:川崎フロンターレ)がずっと俺の後ろで『PKダネ、PKダネ』と言っていたんです。そうしたらクリスに点を取られて『やられた〜』と思いました」
この試合は伊東にとっても、レイソルにとっても大きなターニングポイントだった。この天皇杯の活躍を契機に、レイソルが伊東の獲得に動いたからだ。
ヴァンフォーレは加入1年目である。ましてや伊東は"将来のエース"として、クラブ・サポーターから寄せられる期待が大きかった。しかもレイソルの前線の選手の顔ぶれは多彩で、移籍すればポジション争いが熾烈になることは目に見えていた。
「チャンスがあれば少しでも上のチームに行こうと思ったのが移籍の理由です。最初は途中出場でもいいから、まずはスタメンをつかむところからやっていこう...という感じです」
天皇杯ラウンド16から1週間後の11月22日には、U-22日本代表候補のトレーニングキャンプに召集された。「緊張した」や「モチベーション高く臨めた」といった類のものが初代表の主な感想だろう。ところが伊東の初代表の印象は「知っている奴がいなかった」の一言である。翌年1月にはリオデジャネイロオリンピック出場を懸けたアジア最終予選でもある『AFC U-23選手権』が迫っていた。だが伊東は、このトレーニングキャンプの時点で「ずっと同じメンバーで戦っているから、メンバーに入るのは難しいだろうな」と自分の立ち位置を冷ややかに見つめていた。
代表合宿では、山中亮輔(現:横浜F・マリノス)、秋野央樹(現:湘南ベルマーレ)らレイソルの選手とチームメートにはなっていたものの、そのときには一言も言葉を交わしておらず、レイソル加入時の知人といえば、全日本大学選抜で一緒だった湯澤聖人(現:京都サンガFC)のみ。加入後、ロッカールームでは一人でいることが多く、増嶋竜也(現:ベガルタ仙台)から「お前、何も喋らないな!」と突っ込まれたという。
ようやくチームの輪に溶け込めたのは、指宿キャンプで同室になった大津祐樹が人懐っこく絡んできたことがきっかけだった。
さらにキャンプ中には、ミルトン・メンデス監督から「お前をサイドバック(SB)で使う。SBなら日本代表になれる」とコンバートを言い渡された。
突然のSB転身。それでも伊東はあくまでポジティブである。
「守備では、対人で負けない自信はあります。ラインアップとか、細かいことはやっていかないと無理だなと思いましたけど、SBは意外と合っていましたね(笑)」
確かに伊東は攻撃時のみならず、守備時の1対1も強い。中学、高校と、練習終了後の居残りでは1対1を攻守両面でやり込んできていた。その成果がプロになって発揮された。
下平隆宏監督就任後も、しばらく右SBでの起用が続いた。伊東が最初にアタッカーで起用されたのは、奇しくもヴァンフォーレ時代にプロ初スタメンを飾ったカシマスタジアムだった。そして伊東は、前年のプロ初ゴールを超えるインパクトを残す。鮮やかなダブルタッチと鋭いドリブルでマーカーの山本を抜き去り、レイソル移籍後初ゴールを決めると、後半にも中川寛斗のスルーパスに抜け出して武富孝介の追加点をアシスト。カシマスタジアムのピッチを鋭利に切り裂いた。
以来、レイソルの右サイドアタッカーに定着した。スピードに乗ったドリブル突破だけでなく、味方の得点をお膳立てできる好クロスも強みである。移籍1年目に残した7得点・7アシストの数字も「まあまあ。悪くはない」と伊東らしい自己評価を下した。
ここまで歩んできたサッカー人生の中では、強豪校への進学、クラブユースへの加入、選抜チーム入りなどにはさほど興味を示さなかったが、レイソルでプレーする今、伊東の"欲"は少しずつ掻き立てられている。ことあるごとに「負けたくない」と口にするように、基本的には相当な負けず嫌いである。タイトルを狙える順位に立ち、クラブ全体がACL出場及びその先の"アジア制覇"を視野に入れていることに触発されたのか、「タイトルを獲りたい」と優勝への欲求は高い。
現在24歳。この先、自分がどのような人生を歩んでいきたいかは「全く考えていない」と言うが、当面の目標を訊ねると強い決意を感じさせる言葉を述べる。
「優勝したい。ACLに出て、強いチームと戦いたい。あとは代表に入って活躍する。俺の年代は宇佐美(貴史/現:デュッセルドルフ)とか、よっち(武藤)とか、前線はたくさんいますけど、チームが勝っていれば注目されるので、勝っていれば代表もあるかなと思います。(中村)航輔もそれで選ばれましたし」
12月の東アジアカップは国内組中心のメンバーが予想されており、伊東が日の丸を背負う可能性は十分にある。こちらがそれを伝えると「いや、どうすかね」と首を傾げ、笑顔を見せた後にこう付け加えた。
「まずはレイソルで優勝したいです」
TODAY'S MENU:「天使の海老焼きなど」
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