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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
小池龍太
中学生で親元を離れた。福島では震災を経験し、プロキャリアをスタートさせたJFL時代にはアルバイトをしながらのプレーを強いられた。困難な状況から這い上がってきた男は今年、ついにJ1の舞台へたどり着いた。
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
2017年2月25日。
ベストアメニティスタジアム。レイソルが2点のリードで迎えた試合終了間際、小池龍太は鎌田次郎に代わってピッチへ投入された。わずか1分ほどの出場時間だったが、2014年のJFLに始まり、1年ごとにカテゴリーを上げてきた男が、ついにJ1にたどり着いた瞬間だった。
「ボールに1回触れたかな...という感じだったんですけど、移籍してすぐに開幕戦に出られるなんて、そんなに巡ってくるチャンスじゃないので、そこは大きかったですし、楽しかったですね」
現在21歳、この新進気鋭の右SBは、瞬く間にレイソルの主力の座を射止めることになる。1年ごとにカテゴリーを上げてきたここまでのキャリアを含め、大勢のサッカー選手と比べ、小池は一風変わった道程を歩んできた。
足の速さは、東京都の大会で8位になった経験を持つ祖父譲りだった。5歳年上の兄と、1歳年上の従兄・中島翔哉と同じく、小池も祖父のDNAを受け継ぎ、子どものころから快速自慢だった。
兄が松ヶ谷FCでサッカーを始めたタイミングで、そのクラブのキッズチームに加入したことが全ての始まり。幼稚園の年中のときだった。
「キッズのチームに翔哉と一緒に入りました。サッカーを習っていたというよりは遊んでいた感じでしたけど」
小学生時代はスピードを武器に、多くの得点に絡むストライカー。小学校高学年になると、より高いレベルを目指して横河武蔵野FCジュニアへ籍を移した。2006年の全日本少年サッカー大会東京都予選決勝では、東京ヴェルディジュニアとの激闘の末、0−1で敗れ全国行きを逃した。これが初の“従兄弟対決”となった。
翌年、横河武蔵野FCでプレーする小学6年生全員に一枚の紙が配られた。2006年に開校したばかりの『JFAアカデミー福島』のセレクションに関する通知だった。
『JFAアカデミー福島』とは、ティエリ・アンリを輩出したフランスのクレーヌフォンテーヌ国立研究所をモデルに日本サッカー協会が設立したサッカーの選手育成機関である。当時はまだ開校直後とあって馴染みは薄かったが、「将来はプロサッカー選手になる」という夢を描いていた小池は、プロ選手輩出を謳う『JFAアカデミー福島』に強く惹かれた。
「アカデミーの試験を受けて、横河では僕だけが受かりました。受かると思っていなかったんですが、こんな機会はないなと。最終試験まで残った人は施設の見学ができたんですけど、普通のクラブより環境が揃っているのは一目瞭然でしたし、楽しそうだなと思って決断したんです。アカデミーは“プロになる場所”だと教えられたので、自分は『プロになるんだろうな』という感覚しかなかったです」
選手は寮で生活し、地元の中学・高校に通いながら、放課後にJヴィレッジでS級ラインセンスを持つコーチから指導を受ける。1学年15人編成の少数精鋭で、全国からプロサッカー選手を志す者が、セレクションを通過してきたとあって、当然実力者揃いだった。
「最初、自分はオスグッド・シュラッター病があったので何ヶ月かプレーできませんでした。治った後は『練習に入るのが難しかった』という印象です。簡単な練習がなく、すごく頭を使う練習が多かったです」
JFAアカデミー福島ではレイソルU-15との対戦もあった。小池の学年とその上の学年が、それぞれレイソルと練習試合を行った際、上の学年の試合に出場していた中川寛斗と秋野央樹(現:湘南ベルマーレ)のプレーには強烈なインパクトを受けた。
「横河でもレイソルと試合をしたことがあったので、それで寛斗くんのことを覚えていました。『メッチャうまいなぁ』って。アカデミーでは、自分たちの代はなんとか1点差で勝ったと思うんですけど、1個上はボロ負け。『レイソルは強い』と思いました」
“その日”は突然に訪れた。
2011年3月11日、中学の卒業式当日。式が終了し、クラスメートと卒業DVDを見ているときに、大きな揺れに襲われたのである。それは小池が「命の危険を感じた」というほどの、とてつもなく大きな地震だった。
福島第一原発から20キロ圏内のJヴィレッジは「警戒区域」に指定された。選手たちは無期限の帰省となり、小池もその日を最後にJFAアカデミー福島の寮には帰っていない。
「何ヶ月後に集まれるかわからないし、そもそもこの大人数を受け入れてくれるクラブがあるのかどうか。最悪、違うクラブへ行くことも覚悟していました」
場所を静岡県御殿場市へ移し、活動が再開されたのは1ヶ月後。サッカーができる喜びを噛み締めながら、その一方で心苦しい感情も持ち合わせていた。
「まだ福島には、震災の影響で大勢の人たちが残されているというのに、自分たちは福島を離れて、サッカーをしていて良いのだろうか」
そんな複雑な感情は、おそらく小池一人だけではなく、チームメート・スタッフ全員に共通した気持ちだったのだろう。だからこそJFAアカデミー福島は“福島”にこだわった。活動拠点が御殿場に変わっても「福島」の名を残し、「サッカーに真摯に取り組むことが福島のためになる」ことを疑わずに活動を続けた。震災翌年の2012年には、プリンスリーグ東北1部で優勝し、参入戦を勝ち上がって、高円宮杯U-18プレミアリーグEASTへ昇格を果たした。
さらに2013年には、U-18年代の全国トップリーグであるプレミアリーグEASTで3位という好成績を収めた。
JFAアカデミー福島で、小池の大きな転機となったのはSBへのコンバートである。福島でもアタッカー、もしくはSHでプレーしていた小池は、当初そのコンバートを受け入れることができなかった。
「自分は攻撃的なポジションをやりたい」
その意思を伝えるために、原田貴志コーチ(現:ファジアーノ岡山U-15監督)のもとへ向かった。
「原田さんから『これからの時代はSBだ』と言われ、自分はそれですんなり納得して、その言葉があったからSBというポジションを好きになりました。本当に今はSBが重要視される時代になったので、原田さんの言ったとおりだなと思います」
しかし、子どもころからアタッカーで鳴らした小池にとって“守備”は未知の領域。「絞れ」、「リスク管理をしろ」、そう指示が出てもどう動いていいのかがわからず、言われたプレーができなかったときに失点をしたことで、身を以て守備の局面における動き方を学んでいった。また、原田コーチから「これを見て勉強しろ」と手渡されたのが、ダニエウ・アウヴェスのプレーを編集したDVDである。
「最初は『つまらないな』と思って見ていたんですけど、何度も見ていくうちにSBの駆け引きや上がるタイミングが面白いなと思い始めました」
プロへの道を切り開くのも、SBになったがゆえ。しかし、チームメートの金子翔太と安東輝が、それぞれ清水エスパルスと湘南ベルマーレへの加入内定を受けたのとは対照的に、小池はJクラブに練習参加はしたものの、受け入れ先は決まらなかった。
行き先の決まらない小池のために尽力してくれたのが、JFAアカデミー福島のスクールマスターを務めていた布啓一郎氏(現:ファジアーノ岡山コーチ)だった。布氏は自身のコネクションを存分に生かし、JFLや地域リーグのスタッフに連絡を取っては小池が練習参加できるように取り計らってくれたのだ。そして11月下旬。日本サッカー協会で、ともに育成年代の指導を担った上野展裕氏から、布氏のもとに連絡が入った。
「右SBを探している」
それはJリーグやJFLのクラブではなく、上野氏が率いる中国地方の地域リーグに所属するレノファ山口だった。
「練習参加したときはまだJFLにもいなかったクラブなので、レノファ山口と言われても『どこ?』という感じでした(苦笑)。でも行ってみたらすごく良いサッカーをするし、行って良かったです」
12月の理事会で、レノファのJFL入りが承認された。
しかしJリーグとは異なり、JFLはプロとアマチュアの混在したリーグである。プロ契約を締結している選手も、決して十分な収入が保証されているわけではない。小池にとっては過酷なシーズンの始まりでもあった。
「レノファの収入だけでは生活は無理でした。だから選手はみんなバイトをしていたんですけど...きつかったですね。生活がかかっているから、絶対にJリーグに昇格しなければいけないと必死でしたけど、対戦相手も苦しいのでみんなが必死でした。リーグ的にはJFLが一番難しかったです」
遠征は基本的にはバス移動。遠方のアウェーもバスのため、試合の2日前には山口を経ち、車内泊は当たり前という世界。普段の練習グラウンドは高台の上にあり、冬は凍結で練習場までたどり着けないこともあった。
2014年のJFLを年間4位で終え、平均入場者数も規定の2000人を超えたレノファは、11月のJリーグ理事会でJ3昇格が認められた。
Jリーグへの昇格は、すべての環境を一変させた。自治体がサポートにつき、活動場所も人工芝から天然芝のグラウンドへの移転が決まった。試合では観客数が倍増。そして何より収入がアップし、アルバイトをしなくても生活が回るようになった。迎えた初のJ3でレノファは『昇格即優勝、J2昇格』という快挙を成し遂げる。
「いけるんじゃないかという感覚は、キャンプでAC長野パルセイロとの練習試合でつかんでいました。パルセイロがJ3の中では強いということを聞いていたので、そこに勝って『これはいけるんじゃないか』という雰囲気はありましたね。相手に研究されて、最後の方は失速しましたけど、それでもやり方を変えずに貫いて、昇格できたのは良かったと思います」
パスをつなぎ、自分たちからアクションを起こす攻撃的なスタイルは、JFLやJ3では明らかに異質だった。2016年のJ2初年度もレノファは旋風を巻き起こし、第13節には昇格候補の一角であるセレッソ大阪戦を敵地で4−2と下した。この試合で小池は2得点を挙げ、J1級の実力を持つ対戦相手と対等以上に渡り合ったことは、小池自身が「J1でも十分通用する自信をつかんだターニングポイントになった試合」と位置付ける意味のある一戦となった。
“J1昇格”を目標に抱いていた中で、小池は現実的にその可能性がどれほどあるのかも考えていた。
「JFLからJ3も、J3からJ2も明確に見えていたんですが、J2からJ1は遠いというか、違うとは思っていました。レノファでJ1に上がりたい気持ちもありましたけど、まだ歴史も浅く、クラブライセンス的にも難しさはあったと思います。チームで上がるより、個人昇格の方が早いというのは感じていました」
2016年の夏、小池は人生の転換期を迎える。7月に入籍、その直後にはJ1クラブからのオファーが届いた。柏レイソルだった。
自分に興味を示してくれたレイソルがどのようなサッカーをするのか、興味を持った小池はTVで中継を観戦した。2ndステージ第5節のガンバ大阪戦。クリスティアーノのハットトリックを目の当たりにし、「J1にはヤバイ奴がいるな...」と思ったのが率直な感想だった。
「スタジアムの雰囲気が素晴らしかったですね。それにSBも攻撃参加するし、守備もしっかりしている。ポゼッションもできて、自分が行ったら確実に成長できるチームだなと思いました」
もちろん自分はレノファの選手で、シーズンは真っ只中である。即決で移籍を決断したわけではないが、レイソルからのオファーを前向きに捉え、比較的早い段階で決意を固めた。
「自分がどうありたいか。今、行くべきなのか、行かないほうがいいのか。そこで『行くべきだな』と思って、移籍して試合に出られなかったらどうしようというマイナスの感情ではなく、チャレンジしようという形で『行きます』と伝えました」
2016年11月20日、J2の全日程が終了。レイソルへの移籍が公式にリリースされたのは、そこから2日後の11月22日。全42試合に出場した小池は、シーズンの疲れを癒す間もなく、新天地へ移る準備を進めた。慌ただしい毎日を過ごしながら、柏へ引っ越してきたのは12月中旬だった。
クラブへ挨拶に行くと、スタッフから「オフの間、トレーニングジムを使っていい」との許可をもらった。早速自主トレをして汗を流そうとジムへ向かった。そこで顔を合わせたのが中谷進之介だった。同い年で、互いに共通の友人もいた。新シーズン始動前に、すっかり意気投合した小池は、中谷に柏の街を案内してもらい、選手行きつけの店などを紹介してもらった。
そんな経緯もあり、2017年の始動時には誰も知らない状況で新チームに入るのではなく、親睦を深めた形で迎えることができた。1年ごとにカテゴリーを上げてきたキャリアには話題性があり、目標であったJ1へ到達したことで、この先のさらなる目標をメディアから問われると、そこでは憚ることなく「リーグ優勝とACL出場」と答え、高い志を見せた。
「チームの目標が『ACL出場』で、自分の中で目指したことのないところだったので、そこに向けて自分がどう戦力になっていくに必死でした。どう試合に出ていこうか、どういうプレーをすれば試合に出られるのか。そこで自分なりに練習を見たり、練習に入ったり、やってみて、徐々にわかってきたのがキャンプでした」
練習試合のエスパルス戦は、ケガから復帰明けだったため、それを考慮されて4本目のみに出場。ここで初めて伊東純也と右サイドでコンビを組んだ。チームメートから「とてつもなく速い」と噂は聞き及んではいたが、実際に右サイドでコンビを組んでみると、伊東のスピードは想像以上だった。エスパルスのメンバーは、4本目とあってサブや練習生が多かった。だからこそ、小池は「伊東とのコンビネーションを深めるチャンス」と捉え、スピード任せの雑なプレーに終始するのではなく、伊東がどのタイミングでパスを欲しがるのか、自分はどのタイミングで出ていけばいいのかを測りながら練習試合をこなした。結果的にこのときの経験が、その後の公式戦での伊東との連携に生かされているという。
ルヴァンカップのエスパルス戦の活躍により、右SBの定位置をつかんだ小池はJ1第4節ベガルタ仙台戦から11試合連続スタメンを続けている。第11節のFC東京戦では、小学5年生以来、11年ぶりに中島翔哉との“従兄弟対決”を実現させた。
祖母は、この対決に感極まり、スタンドで観戦しながら涙を流したという。
齋藤学、柿谷曜一朗ら日本代表クラスとのマッチアップにも物怖じするどころか、彼らを完璧に封じ、試合後には「楽しかったです」と笑顔で局面を振り返る強心臓ぶりを見せている。念願だったJ1の舞台。だが、ここが彼にとって終着点ではない。
「1年ごとに上がるこのストーリーを続けていきたい」と語る小池は、来季はACLのステージを狙い、さらなるステップアップを見据えている。そして、その先の目標として口にするのが“日の丸”、すなわち日本代表だ。現にチームメートには中村航輔という日本代表のGKがいる。日本代表は以前からの目標ではあったが、身近に代表選手がいるという環境は、新たな刺激をもたらすとともに、日本代表が自分にも手の届く範囲にあることを感じさせた。思い描く「サッカー選手のその後の人生」も、日本代表に選出され、様々な経験をすることで「また違った選択肢が出てくるかもしれない」というのが小池の考えだ。
「将来は......何をやっているんでしょうね。考えているのは、ボールを蹴っている人と関わっていたいというのはあります。それがどこかのクラブに入って指導者をやるのか、それとも自分がフットサルクラブを立ち上げるのかわかりませんし、もしかしたら代表を経験することで解説者とか、また違ったサッカーの仕事にも興味を持つかもしれません。今は漠然と『サッカーに関わることがしたい』と思っているだけですね」
したがって、小池の明確な未来のビジョンは日本代表のみに絞られる。ただ、日本代表の中村をはじめ、メディアから「次世代の代表選手」として取り上げられる中谷と中山雄太とレイソルで最終ラインを組んでいるせいか、代表選出へは新たな欲が出てきた。それは、チームメートとともに日の丸を背負うことだ。
「2022年と2026年のワールドカップには出たいです。航輔、シン、雄太と一緒に出られたら、最高ですね」
レイソルで守備陣を形成する仲間とともに、いつか世界へ。小池龍太のサクセスストーリーは、まだ始まったばかりに過ぎない。
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