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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
太田徹郎
土浦から常磐線で、毎日のように日立台へ通ったアカデミーで努力を続け、レイソルへの愛着が自ずと深まる恋い焦がれてきたトップチームでのプレーは一旦叶わぬとも諦めることなく山形での5年間の成長が実り、ついに恩師から声がかかった味方を助け、自分も活きる。チームプレーに徹するその生き様とは
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
2013年1月1日。
プロ5年目のシーズンが終わり、オフ真っ只中、太田徹郎は山形から実家に帰省していた。家族と新年を迎え、午後にはテレビでレイソルとガンバ大阪の天皇杯決勝を観戦した。自分を育ててくれたクラブが勝ち取った37年ぶりの優勝を目の当たりにして、太田は素直に喜びを感じていた。
翌日、太田は家族とともにディズニーランドで余暇を満喫していた。スペースマウンテンを降りたとき、太田の携帯電話が鳴り響いた。代理人からだった。それは「新年の挨拶」などというあらたまった連絡ではなく、太田にとって、とてつもないビッグニュースが伝えられる。レイソルから獲得のオファーが正式に届いたのだ。
2012年の暮れに、「吉田達磨ダイレクター(現監督)が気にかけている」という話は代理人を通じて聞いていたものの、それは単に教え子として現在の状況を気にしてくれているものだと思っていた。したがって、移籍話が具体化したのは、この瞬間が初めてだった。
レイソルは小学生から高校生まで、8年間を過ごした愛着のあるクラブだけに、断る理由は見当たらなかった。太田は即答で移籍を決断した。
「母と兄も一緒にいたんですけど、『よかったね』と言ってくれました」
さらに、レイソルのアカデミー時代にコーチとして指導をしてくれた石川健太郎氏にも連絡を入れ、レイソルに復帰する旨を恩師に伝えた。
冬休み中のディズニーランド。どのアトラクションも普段以上に混雑していた。しかし、レイソル移籍の喜びで気持ちが高ぶっていた太田は「2時間並ぶのも全然苦ではなかったですね(笑)」と、そのときの心境を語った。忘れられない1日となった。
ところ数日後、別の感情も生まれる。もちろんレイソルへの移籍は嬉しいことであるが、新聞報道で他の新加入メンバーの名前が報じられる度に、物怖じや尻込みをしていたという。
2013年の太田と同期の新加入選手を挙げると、横浜F・マリノスから狩野健太、谷口博之(現サガン鳥栖)、釜山アイパークから韓国代表の右SBキム・チャンス、そして最後には欧州でも活躍した経験を持つクレオが広州恒大から加わった。錚々たる顔ぶれだ。
「みんな名前のある人ばかりだったので大丈夫かな...という感じでした。びびりましたね(苦笑)」
1月下旬のチーム始動時、工藤壮人とともにスタジアムのアップルームに姿を現した太田は物静かで、とても控え目に映った。新しいチームに加わる緊張感、例えて言うならば、新年度を迎えて職場や学校が変わったときの雰囲気、あの慣れない環境に身を置いた"よそよそしさ"に近い気持ちを太田は持っていたのだと思うが、先述したとおり同期新加入のメンバーと実際に顔を合わせ、多少気後れした面もあったのではないだろうか。
ただ、その状況下で太田が発した言葉は実に印象深く、同時に彼の強い覚悟を感じさせた。
「僕だけがJ2からの加入ですけど、このクラブのために戦うという気持ちは誰にも負けないと思います」
"このクラブのために戦う"。これはレイソルアカデミーで育ち、間違いなくこのクラブに対して特別な感情を持つ太田だからこそ出てきたフレーズだ。この数日前に、吉田ダイレクターから新戦力獲得の理由を聞いた際、太田について「ここに特別な感情を持った選手」と言っていた言葉が即座に思い出された。
加入後、しばらくは我慢の時期も続いた。それでも太田は自分が発した言葉が真実であると、ピッチ上の誰よりも機転がきいたプレーを披露することで証明していく。
太田徹郎がサッカーを始めた経緯については、本人の話によれば2つの説がある。
「お兄ちゃんがサッカーをやっていたから始めたという説と、同じ幼稚園にめちゃくちゃサッカーが上手い子がいて、その子に影響されたという説があるんです。ちゃんとしたきっかけがどっちなのか覚えていないんですよ(笑)」
いずれにせよ、幼稚園の頃からボールを蹴り始めた太田は、小学生になったと同時に小学校のサッカー部に入ったほか、地区のトレセンチームにも加入し、小学校低学年にして3つのチームを掛け持ちする多忙な日々を過ごしていた。
「その1つのトレセンには結構上手い奴が多くて、そこでサッカーが面白さを知った感じです」
その後、太田家は茨城県土浦市に転居。転校前の小学校サッカー部では、3つのチームを掛け持ちしていたとあって、チームの中心選手だった太田。その自信もあったのか、小学4年生になった時に鹿島アントラーズジュニアと、柏レイソルU-12のセレクションを受ける。だが、あえなく両方とも落選。ただ、1度の落選にもめげることなく、太田は翌年にもJクラブのセレクションに再チャレンジした。この時はレイソル一本に絞り、見事セレクションを通過。1年越しでレイソルU-12への加入が決まる。
「受かるわけないと思っていたんで、みんな上手くてびびりました。同年代から見れば僕は後から入ったので、先に入った人はみんな上手いし、気が引けちゃう感じでやっていましたね」
当時、太田の年代の指導を受け持っていたのは石川健太郎コーチだった。この先、U-18の高校1年まで指導を受ける石川は、太田にとって"恩師"の1人となる。
「(1年前のセレクションで)僕を落としたのは石川さんだと、石川さん本人にもずっと言っていますからね(笑)」
そんな冗談を飛ばせるのも、石川への信頼感の裏返しだろう。その証拠に、太田はモンテディオからレイソルへの移籍が決まった時、真っ先に電話をかけて報告したのは、他でもない石川だった。
太田は、そんな恩師の厳しい一面を語る。
「合宿ではご飯を残すと『残さずに全部食べなさい』と食事会場に残されたり、忘れ物をすると叱られたりしました。一番きつかったのは試合に負けると、コーナーフラッグのところに全員が立たされて、向こう側にいる石川さんに聞こえるように、大声で負けた原因を言っていくんですけど、なかなか声が届かなくて、何度もやり直しになりました(苦笑)」
そんな恩師との出会いだけではなく、レイソルU-12では現在ともに戦うチームメイトとの邂逅もあった。
「輪湖(直樹)は僕よりも1年早くレイソルに入っていました。同じ常磐線沿いだったので、練習や試合には僕が電車の時刻表を調べて一生に通うようになって、そこからいまだに輪湖との上下関係は続いています(笑)。あれから15年の付き合いですから、長いですよね。15年付き合っていても、いまだに謎の多い奴です、輪湖は」
お互いのポジション柄、輪湖が左SBを務め、太田が中盤に左に入った試合では同サイドでコンビも組んだ。輪湖のアグレッシブな攻め上がりを生かすために、機転を利かし、味方に気持ち良くプレーしてもらおうと務めていた太田について、輪湖にも当時の話を聞いてみた。
「小学生時代のテツはあのままですよ。プレーでは落ち着いていて、足元の技術がしっかりしていて、今よりもボレーシュートがうまくて、今よりもっと色黒で...(笑)。変わらないです。小学生にしては珍しいタイプというか、他の人はドリブルをしたり、自分のプレーを見せたがるのに、落ち着いて周りを生かすようなタイプ。僕らの学年は『俺が俺が』という選手が多かった中で、それをつなぎ合わせてくれるのがテツでした。僕らからすれば本当に助かっていました。今もそうですよね、派手なことはしないけど、絶対に必要な選手です」
輪湖も高い評価を与える周囲を生かす気の利くプレー。その持ち味を自分の強みとして、太田はレイソルのアカデミーで確固たる地位を築いていく。
U-15時代も、引き続き石川監督の指導を受けた太田。輪湖が「絶対に必要な選手」と評したように、太田が石川監督から絶大な信頼を置かれ、チームの中心選手という立ち位置にあったことを裏付ける事実がある。
「信じてもらえないかもしれないですけど、実は背番号は10だったんです」
太田は、少々ばつが悪そうに語るが、アカデミーでは主に監督が選手の背番号を決めていた中で、背番号10を貰うことは監督からの信頼の何よりの表れだ。
同年代の輪湖や堀田秀平(現ソンクラー・ユナイテッドFC)だけでなく、1つ年下は工藤壮人、武富孝介、酒井宏樹(現ハノーファー96)、比嘉厚平(現モンテディオ山形)ら、後に"柏レイソルアカデミーのゴールデンエイジ"と称される代だ。そんなタレントを擁するチームにあって、太田は主力中の主力という立場にいた。
高校生になり、U-18に昇格しても太田の存在は重宝された。どの選手とも連携を深められ、周囲の持ち味を引き出せる選手として、高校1年にしてU-18のレギュラークラスとも呼べる存在にまで上り詰める。
「僕が高1の時の3年なんて、すごい人ばかりだったんです。キリ君(桐畑和繁)、船山(貴之/現川崎フロンターレ)君、ヤナギ君(柳澤隼/現MIOびわこ滋賀)...。その中でよく出ていたと思いますよ。2つ上の人たちにビビりながらプレーしていた記憶があります」
ただ、ここから先が太田と他の選手と大きく異なるところである。普通ならば高校1年ではサブやBチームが多くても、自分たちの代になれば成長とともにレギュラーの座を掴み取る。また、高校1年から出続けている選手は、高校2年でも3年になっても主力の座は揺るぎない。
しかし太田は逆だった。徐々にスタメンで試合に出る機会が減り、自分たちの代ではサブになっていた。ただ、全く試合に起用されないということもなく、ほとんどの場合で途中から流れを変えるスーパーサブとして試合に出場する。
「高校1年が一番試合に出ていました。3年が一番試合に出なかったですね(苦笑)。純粋に1つ下の選手はみんな上手かったし、学年に関係なく競っている感じでした。でもプロは目指していたから、試合に出た時は頑張ろうと、そういう気持ちでした」
現在のアカデミーほど、U-18の選手が頻繁にトップチームの練習に参加する時代ではなかったが、太田は輪湖や堀田とともに春季キャンプ、中断期間中のキャンプ、またはサテライトの試合や練習試合でトップチームに加わる機会も多かった。そこで感じたのはプロでやれる自信や手応えよりも「プロの世界の厳しさ」だという。
当時のレイソルを率いていた石崎信弘監督(現モンテディオ山形監督)は、キャンプではほとんどの日程で2部練習を組み、非常にハードな練習メニューを課す監督である。太田はその厳しい練習についていくのがやっとで、「プロになるためにはもっと努力しなければいけない」と自分の力不足を痛感した。
結局、太田はトップチームには上がれなかったが、その後の自分の進路を考えた時に、大学へ進学してサッカーを続けることよりも、他のJクラブでプロになる方を選択する。
アカデミーのコーチ陣と話し合い、浮かび上がった練習参加先は2つのクラブ。ヴァンフォーレ甲府とモンテディオ山形だった。
「練習参加した時には、あまりよくできなかったんですけど、奇跡的に山形が拾ってくれました」
太田は"奇跡"の記憶を克明に語っていく。
モンテディオ山形の練習参加は3日間の予定だった。ところが帰宅するはずだった3日目は悪天候に見舞われ、新幹線が止まってしまう。そこで帰れなくなった太田に、モンテディオのクラブ関係者が「帰れないなら、明日も練習に参加してから帰れば?」と勧めてくれたのだ。
この予定外4日目の練習参加が太田の運命を変えた。それまでの3日間はこれといったプレーができなかったが、4日目は絶好調で自分でも納得のいくプレーができた。4日目の練習終了時にクラブから「来月、もう一度練習参加に来てほしい」と伝えられたのだが、太田は「多分、あの日があったから、次があったと思うんですよね」と笑みを浮かべる。そして、再度練習に参加した1ヶ月後の練習参加の際に、来季からの加入内定を言い渡された。
「2日目の練習が終わって、ホテルでゆっくりしていた時に電話をもらいました。そこで『来年から契約する』と言われて、嬉しくて部屋の中で小躍りをしていました(笑)」
念願のプロサッカー選手への扉をこじ開けた太田は、残り少なくなったレイソルU-18でのプレーに全力を尽くし、Jユースカップのタイトルを置き土産に山形へ渡るのみとなった。
予選リーグを無敗で勝ち抜き、本選でも浦和レッズユース、東京ヴェルディユースという難敵との対戦を1点差で勝ち上がったレイソルU-18は、準決勝でガンバ大阪ユースと対戦した。
神戸ユニバー記念競技場で行われた雨中の激闘は1?1の拮抗した展開になったが、終盤に輪湖直樹と畑田真輝(現ガイナーレ鳥取)のゴールでガンバを振り切り、決勝進出を果たす。太田はスタメン出場こそなかったものの、途中から流れを変えるスーパーサブとして決勝進出に大きく貢献した。
2007年12月24日、Jユースカップ決勝戦。レイソルはいつものパスワークが見られず。FC東京U-18に2点を先行される苦しい展開となった。太田は流れを変える切り札として後半途中から山崎正登(現YSCC横浜)に代わって投入される。太田の投入からわずか5分後に工藤壮人が追撃のゴールを決め、その後もレイソルが猛攻を仕掛けていく。だが反撃及ばず、レイソルは1?2で敗れた。
「ジュニア時代から一緒に戦ってきた仲間を勝って送り出せなかった」
そう言って涙を流す工藤に、太田は「来年こそタイトルを獲れよ」と伝えて、レイソルU-18でのキャリアを終えた。
2008年、太田はモンテディオでプロサッカー選手としての道を歩み始めた。しかし、小学生の頃からレイソルで育ってきた太田にとっては、そこは別世界と言ってもよかった。
「ただでさえ人見知りなので、最初はまったくチームに入れないでいました。同期が2人いて、そいつらが仲良くしてくれて助かりましたけど・・・」
1、2年目は、わずか3試合の出場しかなかったのは、チームに溶け込めなかったことだけが理由ではなく、単純にプロの壁があったからだという。レイソルのアカデミーで育ったとあって、基本技術のレベルに関しては見劣りしなかったが、フィジカル面・メンタル面における戸惑いも多く、モンテディオのサッカーとの融合に時間がかかってしまった。
それでも3年目からは徐々に出場時間を伸ばしていく。太田の基本技術レベルの高さ、複数のポジションをこなせるユーティリティー性が小林伸二監督に重宝され、中盤のサイドのみならず、トップ下、ボランチ、トップなど、様々なポジションでの起用を与えられた。そんな太田がレギュラーに定着したのは、プロ入り4年目の2011年だった。
2011年のJ1にて、太田は26試合出場3得点という個人成績を残す。第17節のアウェイ・サンフレッチェ広島戦でプロ入り初ゴールも記録。ゴール数は2014年のレイソルでシーズン自己最多を更新したが、試合出場に関してはこの2011年の26試合が現在のキャリアハイとなっている。
モンテディオ時代に「忘れられない試合」と位置づけるのが、J1第29節、日立台で行われたレイソルとの"古巣対決"だった。
「試合前に、地元の記者から『日立台では拍手か、ブーイングか、どちらで迎えられる方がいいですか?』と聞かれていて、新聞の記事にも『ブーイングされたら嬉しいですね』と載ってしまったんですけど、どちらもなくて(笑)。それを試合後にモンテディオの選手たちからメッチャいじられたんです。『お前、何言ってんの?レイソルでプロになってないじゃん』って、みんなから言われました(苦笑)」
もちろん"忘れられない試合"の理由は、それだけではない。ジュニア時代から育った愛着のある場所であり、相手には恩師やかつてのチームメイトがいた。特にU-18時代に指導を受けた吉田達磨強化部長(現監督)をはじめ、アカデミーのスタッフが試合を見ていると思うと、普段の試合を以上の緊張感を持って日立台のピッチに立った。
「いろんな人が見ていると思っていたから、『良いプレーをしなくちゃ』とめちゃくちゃ緊張しました。それに、すごく暑い日だったんですよね。前半40分ぐらいで足がつってしまったんです。緊張もあったと思うんですけど...」
残留を争うモンテディオとしても勝たなければならない試合だったが、ジョルジ・ワグネルが決めたPKの1点を守り切ったレイソルに0-1で敗れてしまう。
そして、後がなくなった状況下でJ1第31節のヴィッセル神戸戦を迎える。この試合、太田にはフリーでシュートを放つ決定機が訪れた。だがシュートは惜しくもバーを叩きゴールならず。その場面で自分が決めていれば、結果は変わったかもしれない。この試合でヴィッセルに0-2で敗れたモンテディオのJ2降格が決まった。
その悔しさを糧に、翌年太田はさらなる奮起を誓った。ところが、翌2012年に待ち受けていたものは出場機会が巡ってこない苦しい日々だった。
「紅白戦に出られない時もあり、プロ5年目で味わった苦しい1年、"耐えていた1年"でした」
器用な太田を重宝し、チームの起点になり得る存在として様々なポジションで起用してくれた小林伸二監督が2011年限りで退任し、2012年からは新体制へ移行、奥野僚右監督が就任した。監督が替わればサッカーのスタイルも、監督から求められることも変わってくる。そういう環境の中で、前年のリーグ・カップを合わせた公式戦29試合出場から、2012年は15試合と出場機会が半減してしまう。
レイソルからのオファーが届いたのは、そのシーズンのオフだった。
「J2で試合に出続けていたなら分かりますけど、そういう(試合に出ていない)状況だったのに声が掛かるなんて、自分が一番驚きました(苦笑)。いつかはレイソルでプレーがしたいと思っていたので、すごく意外なタイミングでオファーが来たと思いました」
ジュニアからユース時代を過ごしたクラブからのオファー。声を掛けてくれたのが師である吉田ダイレクター(当時)である。しかもモンテディオでは直前のシーズンは出場機会を失っており、環境を変えるにはこれ以上ないタイミングだった。
レイソルでも我慢の時期が続くかもしれないと、吉田ダイレクターからは言葉を掛けられた。それでも、自分が育った愛着のあるクラブのためならばどんな状況にも耐えられるという自信があった。
2013年、太田は6年ぶりにレイソルイエローのシャツに袖を通した。
太田は、アカデミー出身では別のクラブでプロサッカー選手になり、レイソルへの復帰を果たした最初の選手となった。現在はレイソルのアカデミーで育った多くの者が様々なクラブでプレーしているが、おそらく彼らは「いつかはレイソルに戻ってプレーがしたい」という太田が実現させた夢を抱いている。太田がレイソルで活躍することは、間違いなくそんな彼らの励みにもなるだろう。
「そういうキャラじゃないですけど(苦笑)、なにかしらの刺激を受けてくれたら嬉しいですね」
そう話す太田が、この先に思い描いているのはサッカーへの"恩返し"だ。これまでたくさんの指導者に出会い、サッカーを通じて様々なことを学んだ。それが土台にあるからこそ、太田はここまでのプロキャリアの8年間を頑張ってこられた。
「自分がサッカーをやめても、今までコーチに教わってきたことを子どもたちに教えて還元したいと思っています。ただ、将来はサッカーから離れたことをしてみたいとも思っているんです。そういう違うことをやりながらも、幼稚園や小学校低学年の子どもたちにサッカーを教えていきたいですね」
止めて蹴るの基本動作、両足キック、あるいは持ち前の起点になるプレーや機転の利いたプレーに優れた太田には、子どもたちの良いお手本になれる予感はある。だが、それを伝えると太田は首を傾げてこう言った。
「どうですかね...。自分に自信がないので、中学生ぐらいを教えて、逆に意見されたら『そうかもね』と、コロッと意見を変えちゃうと思うんです(苦笑)。だから戦術を教えるというよりは、幼稚園や小学校低学年の子たちと楽しくプレーをして、サッカーの楽しさを伝えられたらいいですね」
その一方で、太田の考える「サッカーから離れたこと」とは一体何か。
まだこれといった明確なビジョンが見えていないのが現状だが、今の"プロサッカー選手"という職業の利、例えば午前練習の日は午後からは自分の時間ができる特性を生かし、何か将来の役に立つことを始めたいとも考えているようだ。
「俺、ユーキャンをやってみようと思っていて、携帯で何があるのか見ていたんですけど、逆にたくさんありすぎて何をやっていいか分からなくなっちゃったんです(笑)。だからユーキャンは置いておいて、今年のオフにスペインに行ったから、スペイン語の勉強をしようかと思っています。始めようといっても、そこからなかなか始められないのが現実なんですけどね(笑)」
まだ26歳。これからキャリアのピークを迎えようという現役選手にとって、まだ"サッカー選手のその後"は描きにくいものであり、漠然とした未来像しか持ちえていないのは当然であろう。
太田の念頭にあるのは、当然のことながら現在のレイソルでのプレーだ。移籍1年目、なかなか出番の訪れない状況にも腐らず、練習に打ち込み、シーズン終盤に出場機会を手にしてこられたのも、「レイソルのために」という思いがあったからに他ならない。
優勝に立ち会えた2013年のヤマザキナビスコカップ決勝は、太田のサッカー人生の中でも最良の瞬間だった。また、初めてACLにも出場し、全くサッカー文化の異なる海外のチームとの対戦には楽しさすら覚えた。そんなレイソル復帰後の足取りを改めて振り返る太田は「レイソルに戻ってきて、本当に充実していますね」と素直に喜んだ。
もちろん現在の立ち位置や自分自身のプレーには満足していることはないが、それを表に出さず、淡々とプレーをして、チームが窮地に陥った時に重宝される存在、それが太田の太田たる由縁である。
「スタメンで出られるようになるのは前提ですけど、もしスタメンじゃなくても出た時にはしっかり結果を残せるように常に準備をしておこうとやっているので、これからもしたたかにチャンスを狙っていきます」
彼らしく控えめに個人的な目標を語りながらも、チームとしてはやはり「優勝したい」との言葉を憚ることなく口にした。
職人ばりのプレーでチームの起点を作り、仲間のピンチには機転の利いたプレーでサポートをする。レイソルが5つ目の星を手にするためには、チームに調和をもたらせる太田は絶対に必要な存在である。
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