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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
鈴木大輔
北陸でキャリアを積んできた日本屈指のセンターバック。
ユース年代から日本代表の常連で、ロンドン五輪でベスト4に。新潟でも不動の地位を築きながらもさらなる成長を求めて、
激しい競争が待つ柏を新天地に選んだ。柏での2年目を迎えて、あくなき向上心は留まることを知らない。
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
石川直樹(現ベガルタ仙台)、酒井宏樹(現ハノーファー96)と受け継がれてきたレイソルの背番号4。その番号は現在、鈴木大輔が背負っている。
奇遇にも、鈴木はレイソル加入前からこの歴代の背番号4とは親密な関係にあった。前任の4番、酒井とは同世代としてロンドン五輪に出場。鈴木、酒井、そこに大津祐樹(現VVVフェンロ)を加えた3人はロンドン五輪の前年、U-22日本代表が予選を戦っている頃から意気投合し、チーム内でも特に仲が良かったという。ピッチを離れても、オフになれば3人で集まり、食事にも頻繁に出掛けていた間柄だった。
「3人で、しょうもない話ばかりしていました(笑)。ロンドン五輪の間も、3人でずっとトランプばかりしていましたし、あいつらは海外組だったので海外の選手のノリとか、海外のチームのことを聞いたりしていました。五輪代表は一体感のあるチームでしたが、その3人は特に濃かったです」
そして酒井の前任の4番、石川はアルビレックス新潟時代のチームメイトだ。鈴木が新潟でレギュラーの座を射止めたのが2011年ならば、石川の加入もまた2011年。2012年には鈴木と石川はコンビを組み、新潟の守備を支えた。
「2012年は"奇跡の残留"の年です。イシ君と僕のセンターバックでした。自慢したいのは、僕とイシ君が組んだ時はマリノスに次ぐ失点数だったんですよ。ただ、得点が取れなかったんです」
確かに、新潟はリーグ最少失点の横浜F・マリノスの33に次ぎ、優勝したサンフレッチェ広島と並んで失点34。これはリーグ2位の数字だった。鈴木の言葉通り得点が欠乏したことでシーズンを通じて苦しい状況に陥り、最終節のコンサドーレ札幌で勝利を収めて劇的な形で残留を決めた。
「イシ君は良い人ですよね。今でも連絡を取り合っています。残留を決めて、試合が終わった後に、イシ君と2人でずっと話していました。移籍するのか、新潟に残るか」
とはいえ、鈴木がレイソルからのオファーを知ったのは残留を決めた後のことである。シーズン中は新潟での戦いに集中するため、自分自身にまつわる移籍関連の情報は全てシャットアウトしていた。シーズンの全日程を終えた時に代理人によって、レイソルからオファーがある旨を伝えられ、そこで初めて自分の身の振り方について頭を悩ませた。
「ちょうど五輪も終わったタイミングでしたし、ステップアップしたいとは思っていたんです。新潟では絶対的な地位を確立しつつあって、周りから何も言われない立場でした。自分の調子が悪くても試合に出られてしまう。でもその状況にはまだ早い。だったら、ギリギリのポジション争いをできるチームに行った方が、苦労はするだろうけどステップアップになると思ったし、今まで僕はそういう環境で自信を掴んできました。ちょうどそういう考えでいた時にレイソルから話を貰いました」
レイソルには近藤直也と増嶋竜也という不動のセンターバックコンビに、直後の天皇杯決勝で殊勲のヘッドを決めてヒーローになる渡部博文、さらに那須大亮の浦和レッズ移籍話が具体化しておらず、鈴木がオファーを受けた時点では、高い実力を持つ4人のセンターバックとのポジション争いを強いられるという状況だった。
普通ならば気後れしてしまう熾烈な状況だが、それこそが鈴木の望んだ環境だった。ポジションが確約された立場から、新たなチームでギリギリの争いをすることで自らの成長を期する。
2013年、鈴木はレイソルへの移籍を決断する。そして彼に与えられた番号は、奇しくも五輪代表と新潟、2つのチームでともに戦った盟友が背負った背番号4だった。
石川県出身"というイメージの強い鈴木大輔だが、「転勤族だったんです」と自身の幼少時代を振り返る通り、石川に移り住む以前は東京で生まれ、鹿児島から新潟、そして茨城県の牛久で幼少期を過ごした。サッカーと出会うのは、牛久で幼稚園に通っていた頃の話だ。
「1つ上に兄貴がいるんですけど、兄貴がサッカーを始めて、兄貴に付いていって自然に始めていました。気付いたらサッカーをやっていた感じです」
小学校に上がってすぐに石川県金沢市へ引っ越した。鈴木は『仲良しスポーツ少年団』に入団し、明らかに周囲の子どもたちとは異なる存在感を発揮していった。
「恥ずかしい話、子どもの時は自分よりも上手い選手はいないと思っていました(笑)。自分でゴリゴリ行くようなFWでしたね」
石川県のトレセンに入るほど実力を付けていき、石川県内指折りのストライカーとして、"四天王"とまで呼ばれる選手になる。ところが中学に上がり、地元のクラブチーム、テイヘンズFCジュニアユースへ入団後、突如としてその鼻をへし折られてしまうのだ。センターバックへのコンバートを言い渡されるのである。
「抵抗しかなかったです(苦笑)。あんなにブイブイ言わせていた奴が、センターバックの人数が足りなくてコンバートさせられたんです。『なんでだよ』と思いながらやっていました」
ただ、鈴木のセンターバックコンバートには明確な理由があった。まず、親の身長が高く、将来的に鈴木自身が長身になる可能性があったこと。さらにその少年が周囲の子どもたちを寄せ付けない優れた身体能力を持っているのならば、絶対的な守備の要となりえる可能性を秘めた素材としてDFへコンバートしたテイヘンズのコーチの気持ちも分からなくはない。しかし、コーチのそういった意図を知る由もなく、当時の鈴木は不満を漏らしながらセンターバックをこなしていた。
1年後、しばらくDFを務めていた鈴木にアタッカーでプレーするチャンスが訪れる。だが、それは念願のFWに戻るというよりも、FWへの未練を断ち切らせ、DFに専念させる決断を与えたに過ぎなかった。
「中2になった時にサイドハーフやFWをやらせてもらったんですけど、もう前ではプレーできなくなっていたんですよ。『ダメだ、後ろの選手になっちゃってる』と思いました。それに、徐々にセンターバックの楽しさも覚え始めていたんで、そこでやっとFWへの諦めがつきました」
それでも、子どもの頃にアタッカーを務めていた経験は「今に生きている」と話す。ネルシーニョ監督も太鼓判を押す鈴木の足元の技術、そして時折試合の中で見せるボールの運び方などは、培ったものがなければプロのステージという高いレベルでは到底発揮できないだろう。
完全にDFとして生きることを決めた鈴木は、今度はセンターバックで石川県のトレセンに選ばれていく。
トレセンでは近隣の強豪高校と練習試合を行うことも珍しくはなく、ある日県下のサッカー名門校・星稜高校と石川県トレセンが対戦した際に、中学3年の鈴木はひと際異彩を放つ星稜の背番号10に度肝を抜かれた。
「星稜に本田圭佑がいたんです。何回も練習試合をしていたし、星稜の練習も見られる環境だったので、それから星稜に進学すること以外は考えられなくなってしまいました」
星稜に行きたい。その気持ちがどんどん膨れ上がっていった。するとまさしく相思相愛、星稜側からも鈴木の元に推薦入学を希望する旨が届いた。しかし石川県のトレセンメンバーは石川県立工業高へ進む傾向にあり、星稜は主に県外からの越境入学者が進むという印象が強かった。実際に鈴木のチームメイトたちの多くは石川県立工への進学を希望していた。
当時の鈴木は石川県トレセンではサブのセンターバックに過ぎず、小学生時代までは「四天王」の名で圧倒的なプレーを見せていたため、一部の者たちからは「アイツは中学に入ってから力が落ちた」という蔑む見方もされていたという。そういった反発心も手伝い、トレセンのチームメイトとは別の道を歩むことを決める。
「俺は、どうしても全国大会に出たかった。全国に出るなら星稜に行くべきだと思いました」
全国大会を渇望する気持ち、そして何より自らの成長を期す鈴木は、全国から有力選手の集まる星稜で勝負したいという気持ちが沸き上がっていた。
2004年、本田擁する星稜はサッカー部創部以来史上初、高校選手権ベスト4まで勝ち上がった。鈴木は星稜の全国大会での躍進を目の当たりにし、本田と入れ替わるように星稜の門戸を叩いた。
星稜入学直前、鈴木には転機となる出来事が訪れた。1990年生まれ、当時の15歳以下の選手たちによるJFAエリートプログラムに呼ばれるのである。
「俺は早生まれなんで、1つ下の代に呼んでもらえたんです。レイソルからは比嘉(厚平/現モンテディオ山形)が来ていました。本当に"早生まれ"という理由だけで呼んでもらえたんですけどね」
有望な選手であることを意味する"JFAエリートプログラム経験者"という肩書きは、星稜入学後に想像以上の効果を発揮した。セレクションを通過してきたツワモノ揃い、しかも越境入学によるJクラブ出身が集う中、鈴木は入学早々からAチームに引き上げられ、メンバー入りを果たした。
1年生だったせいもあり本人も「まだ線が細かった」と言うが、左サイドバックのレギュラーの座を射止め、星稜という全国有数の強豪校で1年生にして常時試合に出続け、高校2年以降はセンターバックを務めていく。
「鈴木大輔」の名が、一躍全国に轟いたのは2006年度の高校選手権だ。星稜はベスト8敗退も、鈴木は大会優秀選手に選ばれ、日本高校選抜のメンバーとして欧州遠征を経験した。さらにその選手権を見ていたアルビレックス新潟のスカウトの目にも留まり、2月には新潟のグアムキャンプに参加。特別指定選手となった。
「みんながスーツで集合している時、1人だけ学ランで来ていて、その時は地獄だと思いましたね(笑)。でも長いグアムキャンプに参加したことで変わりましね。そこから自信を持ってプレーできるようになって、U-17日本代表にも入りました」
実際に、鈴木はその前年のU-16アジア選手権を戦うU-16日本代表には招集されていなかった。それが新潟のグアムキャンプでプロの高いレベルに触れたことで成長が促されたのだろう、2007年7月の新潟国際ユース大会でU-17日本代表に招集され、8月に韓国で開催されたFIFAU-17ワールドカップの日本代表メンバーにもばれた。日本はグループステージで敗退したが、鈴木はハイチ戦、フランス戦の2試合で先発フル出場を果たした。
「ハイチは、そんなに強い国ではなかったんですけど、普通に競りにいったボールを胸トラされて、そのままボレーを打たれたんです。それは今でも覚えていますね。身体能力がエグイなと。高校サッカーではフィジカルで負けることがなかったんで、世界ではそれが衝撃的でした」
新潟の特別指定選手で、U-17日本代表でワールドカップを経験した鈴木は、当然星稜では絶対的な守備陣の柱だった。2007年、星稜は佐賀インターハイで決勝戦に進出した。
しかし鈴木は出場停止で決勝のピッチに立てず、守備陣の大黒柱を欠く星稜は市立船橋に4失点を喫した。1回戦から準決勝までわずか2失点という堅守を考えると、もし鈴木が出場停止でなかったならば、決勝戦のスコアは変わっていた可能性はある。1-4で敗れた星稜、全国初制覇はならなかった。
「決勝が終わって、夜の7時にバスで佐賀から石川へ帰りました。12、13時間移動して、着いたのは朝7時か8時ぐらいだったかな。そうしたら、学校に練習試合の相手が来ているんですよ。そのままアップして試合をしましたけど、バス移動してインターハイ決勝の翌日に練習試合をやるなんて......(苦笑)」
他にも2カ月間、毎日山までランニングを行った話など、鈴木が「きつかった」と口にするエピソードは数多い。ただ、そんな星稜の苦しい経験のおかげで心身ともにタフになり、メンタルが相当鍛えられたという。
JFAエリートプログラム、新潟のグアムキャンプ参加、U-17ワールドカップ出場など、高校時代の鈴木は良いタイミングで高いレベルのサッカーに触れ、その都度自分自身の革新を呼び起こし、ステップアップにつなげてきた。
「今までを振り返ると、節目節目で自信になる大会に出られていますね」
当時、他のJクラブからも声は掛かっていたが、星稜卒業後の進路は高校3年時に特別指定を受けていた新潟への加入しか考えていなかった。
2008年、鈴木はいよいよプロの世界へ飛び込む。
新潟へ加入した鈴木を待っていたものは、高い高いプロの壁だった。プロ1、2年目の出場はリーグ・カップを通じて、2008年天皇杯2回戦、奈良クラブ戦の1試合のみ。この試合も、サブを多く起用した若手中心のメンバー構成による出場であり、実力的に出場機会を掴み取ったとは言い難かった。
「きつかったですけど、俺が監督でも俺のことは使わないと思います。周りの人たちと比べても実力がないのが分かっていましたし、全てにおいて『全然足りないな』という印象でした。だから使われてないことには納得していたんです。自分が成長しなければ仕方がないと思っていました」
また、新潟には鈴木と同じく試合に絡めない選手がもう1人いた。彼こそが川又堅碁だ。同い年で同期、鈴木が高校生の時に新潟の特別指定選手になれば、川又もまた高校時代に愛媛FCの特別指定を受けるなど、プロに至るまでの境遇も似ていた。試合に絡めない頃は、全体練習が終われば2人で居残り練習に明け暮れ、オフでも一緒に過ごすことが多かった。
シーズンを通じてほとんどの試合でメンバー外となったが、互いに「絶対に上に行こうぜ」と声を掛け合い、2人は切磋琢磨した。当時、鈴木と川又が交わした「2人で日本代表でプレーする」という約束を、この数年後に実現させることになるのだが、親友であり、時にライバルでもある川又は、鈴木にとって「自分の成長において絶対に欠かせない存在」だと話している。
「紅白戦をやると、俺と川又はサブ組に入るんです。川又は紅白戦でゴールを決めても、公式戦で決めたのと同じぐらいに喜びますから。それで俺が、主力の外国人選手を削って怒られる(苦笑)。そんなことを続けていましたね」
Jリーグでのデビューはプロ3年目、J1第9節のヴィッセル神戸戦だった。この年は、結果的には5試合の出場に留まったとはいえ、多くの試合でベンチに入り、試合終盤に3バックに布陣を変更して逃げ切りを図る際には守備固め要員として鈴木の存在は重宝された。1点リードの緊張感漂う、ギリギリの試合展開での起用は、鈴木のメンタルを格段に鍛え上げた。
さらに、2010年は中国・広州でアジア競技大会が行われた年でもある。鈴木は高校時代にはU-17日本代表にも選出されるなど、常に代表スタッフの目に留まる選手であり、2007年のU-17ワールドカップ以降も、年代別の代表合宿には何度も招集されていたとあって、アジア大会に挑むU-21日本代表にも名を連ねた。
「3年目が終わる頃には、4年目は絶対に試合に出られるという自信がありました。実力的には他の選手には負けていない。『俺を使え』と思っていました」
鈴木はアジア大会で、その自信が過信や自惚れではなく、実力に裏づいたものであることを証明する。主力のCBとして守備陣を牽引し、初戦では地元・中国を相手にゴールを挙げ、勝利に大きく貢献した。「自分たちが弱いことを認めてやっていた」と自虐的に語るも、その言葉とは対照的に日本は快進撃を続け、史上初の男女アベック優勝を成し遂げて、金メダルを持ち帰った。
プロ3年目で掴んだ自信は、アジア大会という国際舞台での活躍を経て、より深まり、鈴木の成長を大きく加速させた。
そして、鈴木が「もう1つ大きかった」と語るのが、コーチ時代から居残り練習にも付き合い、サテライトの試合でも面倒を見てくれたなど、事あるごとに目を掛けてくれた黒崎久志氏の存在だった。2010年、黒崎氏がコーチから監督に昇格し、まずは守備固め要員として、試合終盤の緊張感漂う場面で起用することで鈴木を鍛え上げると、翌2011年からは満を持してレギュラーのCBに抜擢したのだ。
2010年にクラブ記録となる11試合連続無敗記録を作ったチームから、数名の主力選手が引き抜かれてしまったことも影響し、2011年は残留争いに巻き込まれてしまったが、自分自身を大きく成長させてくれた黒崎氏に対し、鈴木は心から感謝の言葉を述べる。
「俺からすると黒崎さんは恩師です。本当に感謝しています」
「ロンドン五輪は、俺のサッカー人生の中では、結構なターニングポイントでした。レイソルに来られたのもそうだし、自分の評価が上がった大会でした。あの大会で俺のことを知った人も多かったと思います」
2012年、鈴木はU-23日本代表の一員としてロンドン五輪に挑んだ。その五輪の中でも、鈴木が「一番大きかった一戦」と挙げるのが初戦のスペイン戦だった。優勝候補のスペインを相手に、前半34分の大津のゴールで勝利を収めた日本は、全世界にサプライズを与えた。
「一気に自信がついたし、勢いもついた。何が一番良かったって、期待されていなかったことが一番良かった(笑)」
U-23日本代表は結束の強いチームだったが、初戦で優勝候補を撃破したことによって、そのまとまりがより強固になった。第2戦でモロッコを下し、早くも決勝トーナメント進出決めた。戦前は期待されていなかったチームに、一躍メダルの期待が懸かった。準々決勝でメキシコに敗れ、決勝進出はならなかったが、まだ銅メダルの可能性は残った。勝てば1968年のメキシコ五輪以来の快挙である。日本は、韓国と3位の座を懸けて激突した。
「3位決定戦は、それまでの感覚とは違う試合でした。グラウンドも良くないし、韓国はロングボールを蹴り込んでくる。最後の最後で自分たちの力不足だなと感じましたね。技術じゃなくて、単純に力不足。スタミナ、球際とかですよね。ベスト4まで勝ち上がって『よくやった』という気持ちよりも、『悔しい』しか残らなかった。帰国して、他の競技の選手への反応を見ると、メダルを取るのと取らないのは全然違う。だから予選で負けても、あそこで負けても一緒なんだなと感じました」
もちろん、多くのサッカー関係者やファンから44年ぶりのベスト4を労う言葉、称賛する声を受けもしたが、鈴木は一人のアスリートとして「結果がすべて」ということを痛感した。
そして、鈴木が五輪で感じた結果を残すことへの大事さ、すなわち"勝利のメンタリティー"の必要性は、レイソルへの移籍を決断する理由の1つにもなった。貪欲に勝利を追い求めるネルシーニョ監督の下、昇格初年度のJ1優勝と、その翌年の天皇杯優勝を成し遂げたチームに加わり、近藤、増嶋、渡部とポジション争いを繰り広げることで自らの成長を期した。
「もともと出来上がっているチームに加わるんだから簡単ではない」と移籍1年目の立場を理解していた。「ロンドン五輪ベスト4」の肩書きもあって、メディアからは"鳴り物入り"の移籍と扱われたが、鈴木の自分評は「自新潟では何も成し遂げていない選手」である。
だからこそ、開幕序盤でスタメン落ちを味わっても気持ちの整理ができていた。
「メンバーから外れても、『こんなもんだろうな』とは思っていました。コンディションも良かったし、練習では自分の特徴も出せていた。試合数も多かったから、次に出た時に結果を残せばいい。そういう気持ちでやっていました。新潟でも出られない時期が長かったですし、そういうメンタルのコントロールはできるようになったと思います」
「ようやく持ち味を発揮できた試合」と振り返るのが、第16節の鹿島アントラーズ戦だ。前節の湘南ベルマーレ戦に続き、2試合連続でスタメン出場を果たすと、3バックの一角を務め鹿島の攻撃を食い止めた。チームも前節に続く逆転勝利を挙げ、鈴木もこの直後、日本代表に初選出されるに至る。
「A代表は年代別の代表とは全然違いました。いろんな年代の人たちがいて、国内組だったけど、そのポジションのスペシャリストが集まる。年代別だと、みんな年齢が近い分"仲良しチーム"という部分もある中で、A代表はもっと厳しい集団になれる。もうちょっと重たい雰囲気がありました」
2013年7月25日、東アジアカップのオーストラリア戦で、念願のA代表の初キャップを記録した。自己革新のために果たしたレイソルへの移籍は、間違いなく鈴木の成長を促していた。
ACLを戦う過密日程を初めて味わい、アジアのチームとのサッカーの違いや、海外から帰国して、Jリーグのチームと対戦するリズムの変化を肌で感じた。そしてそのタイトな日程の中での調整方法を身体で学び、「間違いなく今後のサッカー人生に生きてくる」と振り返るように、代表初招集、ナビスコカップ優勝、ACLベスト4など、移籍1年目にして多くのことを経験した。
しかし、自分自身のパフォーマンス自体には一切満足はしていない。
「あそこまで怪我が多かったのは......。なにせナビスコの決勝に出られなかったのは自分としても悔しいですし、『来週までに治るかな』と言っていたら、『それどころじゃない、治るまでに2ヵ月かかるぞ』と言われました。タイトルを獲れたことはチームとしては嬉しいですけど、個人的には決勝戦を味わえなかった悔しさはありますね」
レイソル移籍1年目の昨年、ピリピリとした緊張感のある練習の雰囲気に加入当初は戸惑いを抱いたものの、その雰囲気にも慣れ、むしろ「これが勝つチームの雰囲気なんだな」と、ここ数年連続でタイトルを獲得してきたチームのメンタリティーに染まっていくことを感じているという。
鈴木は、その体格や身体能力を考えると、仮にサッカー選手になっていなかったとしても、別の競技で一定以上の成績を収める優秀なアスリートになっていただろう。初めてやるスポーツでも、すぐにコツを掴み、上達は早いタイプかと問うと、「自信はありますね」と笑顔で答える。新しくゴルフにチャレンジしようという気持ちも持っている。
したがってピッチ外でも非常にアクティブな面を持つ。バスケットボールが好きでNBAをよく観る。今年のシーズンオフにはNFLの観戦で現地を訪れた。
「その競技を観ることも好きなんですけど、他のスポーツはファンがどんな雰囲気なのか、それを観るのも好きなんです。NFLに行った時は、駐車場でファンがバーベキューをしていて、音楽をガンガン流して、みんな楽しんでスタジアムに入るんです。そのスタジアムの演出もハンパない。選手入場までの演出がすごくカッコ良くて。アメリカのそういうショー的なところを見ると、そりゃ休みの日にスポーツ観戦に行こうという気になるなと思いました」
プロサッカー選手としては、今年で7年目を迎えた。ただ、鈴木はまだ24歳である。年齢的には若手の域を脱し、中堅に差し掛かる。プロサッカー選手のキャリアは、これからもまだまだ続いていく。実際に鈴木は「漠然とですけど...40歳まで現役でプレーしたい」と口にし、その目標からすれば、あと16年はプロの世界でサッカーを続けていくことになる。
「その考えもだんだん変わってきて、あと5年ぐらいしたら、数年で引退する準備をしているのかなと思ってもいます(笑)。引退した後は、指導者にはならないと思いますね。教えるのがあまりうまくないんで(苦笑)。でもスポーツは好きだから、何かしらスポーツに携わる仕事はしたいと思います。そういうことを考えると、俺は今やっているサッカーがダメになっちゃいそうだから、あまり考えないようにしています(笑)。だから漠然と40歳までやりたいな、というぐらいですね」
先の話は"漠然"としか描けないが、一方で当面の目標ははっきりしている。
「Jリーグで優勝したい。これは漠然とした目標ではないです。リーグのタイトルを獲って、その中心に自分がいたい」
そしてもちろん、日本代表への思いも強い。残念ながら、今年のワールドカップの代表選出からは漏れたが、4年後の2018年のロシア大会は日本代表の中核としてワールドカップの出場を虎視眈々と狙っている。工藤、酒井、大津、川又といった、一緒に戦ってきた同世代の仲間とともに、「ワールドカップのピッチに立てたら最高です」と話す。それは決して夢ではなく、現実的な目標として思い描いている。
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