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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
藤田優人
ナビスコファイナルで魅せた一世一代の美技の影で
選手生命を縮めかねない重傷に襲われていた激烈な痛みと恐怖を乗り越えた強靭な精神力はいかにして身となったのかそのルーツは歩んできた数々の名門チームにある
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
その日、藤田優人は親友の林陵平(現モンテディオ山形)に電話をかけた。
藤田は翌シーズンの自身の身の振り方について悩んでいた。まず、J1で優勝争いをしているクラブ、レイソルからのオファーを比較的早い段階で受けた。そのオファー自体には非常に魅力を感じていたが、在籍中の横浜FCではレギュラーとして確固たる地位を築いている。最終的に、そのシーズンは横浜FCで34試合に出場。出場停止を除けば全試合に出場しているとあって、レギュラーポジションの保障という意味では、このまま横浜FCに留まる方がいい。さらにレイソルに続き、他のクラブからも声を掛けられ、選択肢は3つになった。レイソルか、残留か、または別のクラブか。いずれの道を選ぶかで揺れていたのである。
個人的には再びJ1で挑戦したい気持ちは強かったものの、その前年のように「調子が良く、練習で好プレーを見せても、試合に出場するチャンスをもらえない」という環境だけは避けたかった。J1のクラブでも出場のチャンスがないというのならば、レイソルからのオファーを見送ることも考えなければならない。迷った挙句、藤田は明治大学と東京ヴェルディ時代のチームメイトで、当時レイソルでプレーする林に電話をかけ、レイソルのチーム事情を探った。
「ポジション争いをして、調子が良ければ試合に出られる。悪かったら外される。そういうチームだよ」
林からもらった答えは非常にシンプルだった。そしてこの答えが、藤田の迷いを払拭させる。
「陵平から、レイソルは『良ければ出られる』と聞きました。またJ1に挑戦するのなら、そういうチームでやりたいと思っていたんで、最終的にレイソルへの移籍を決断したのはそれですね」
レイソルに移籍した場合、競合するポジションには酒井宏樹(現ハノーファー96)がいる。U-22日本代表にも名を連ねる新進気鋭の右サイドバックである。移籍を相談した人の中には「今、日本で一番乗っている若手。そいつとポジション争いをするなんて無謀だぞ。レイソルへの移籍はやめておけ」という忠告を受けることも珍しくはなかった。
だが、闘争心と強いメンタリティーを持つ藤田にとって、酒井とのポジション争いは、気後れするどころか「臨むところ」であった。レベルの高い選手と競争すれば、自分もさらに成長できる。小見幸隆強化部ダイレクター(当時)から、「うちには酒井がいる。もしかしたら我慢の時期が続くかもしれないが...」と念を押された時も、藤田は強気の姿勢でこう答えた。
「大丈夫です。問題ありません」
2012年1月、こうして藤田は晴れてレイソルの一員となった。
強い気持ちで酒井とのポジション争いに挑む一方、謙虚な姿勢と、年下ながらも酒井に対するリスペクトの念は忘れなかった。だからこそ、酒井も当時「藤田さんはボランチもできるので気が利くプレーをする。僕も勉強になる」と言い、お互いに刺激を与え合いながら良い競争を行うことができたのである。
「わずか半年ですけど、酒井とポジション争いができたというのは、自分のサッカー人生の中でも財産になっていますね」
大分県大分市にある明野地区は、永井秀樹、三浦淳宏を輩出したサッカーの盛んな地域である。1985年の全国中学サッカー大会では、永井擁する明野中学が優勝を成し遂げた。
地元の中学による快挙達成の翌1986年、九州屈指のサッカーどころで藤田は生を授かった。サッカーが盛んな地域だけに、明野には幼児でもサッカーに慣れ親しむ環境があった。藤田がサッカーを始めたのも幼稚園に通っていた4歳の時だ。
「いくつかの幼稚園が集まってできたサッカークラブがあったんですけど、兄貴の友達から『お前も入れよ』と言われたんです。それが始めたキッカケです」
ボールを蹴る楽しさに目覚めた藤田は、小学校に上がると、大分トリニータのスクールを経て、2年生の時から明治北SSCに入団をした。そこで指導を受けたのが大分では知らぬ者がいないというほど有名なジュニア世代の指導者、新庄道臣監督である。
「大分出身の選手は、9割近くのJリーガーが新庄先生の教え子です。永井さん、アツさん(三浦淳宏)、自分、清武兄弟もそうですね」
それだけのサッカークラブだ。当然、全国大会でも常連だった。藤田の世代も全日本少年サッカー大会ではベスト4まで勝ち進んだ。準々決勝でレイソルジュニアをPKの末に下し、掴み取った全国の3位。どの時代でもそうだが、後にプロまで上り詰める選手というのは、小学校の頃からすでに別格の存在感を見せる。藤田の、15年前の自分自身の評価は次の通り。
「その頃が一番うまかったと思います(笑)。ボールを取られる気もしなかったですし。自分で言うのもなんですけど、小学校の時は自分のことを"スーパー"だと思っていました(笑)」
小学校卒業後に入団したカティオーラFCも、恩師である新庄氏が立ち上げたクラブチーム。明治北SSCで育った子どもたちは、中学ではそのまま加入するのが自然の流れだったという。有望な選手がそのまま繰り上がったカティオーラFCも変わらぬ強さを維持していた。Jクラブのジュニアユースが席巻する全国大会では、街クラブながら引けを取らない互角の勝負を繰り広げ、ベスト8に勝ち上がった。
「時代が違うんで今ほどではないにしろ、カティオーラはしっかりとしたサッカーをしていたと思います。センターラインにしっかりした選手を置いて、前線には成長期を迎えた足の速いストライカーがいました。3つ下には(清武)弘嗣(現ニュルンベルク)もいて。弘嗣は小学校の時点で違いましたね。抜けてました」
小・中と全国大会を経験し、上位にまで食い込んだ。それはそれで稀有な経験であったが、藤田自身には「優勝できなかった」という悔しい思いの方が強かった。九州には多くのJクラブ、サッカー強豪校があり、様々な選択肢がある中で、藤田は「全国で優勝したい」と自分の気持ちを重んじ、中学卒業後の進路を決めた。
藤田が小学5、6年の時に東福岡高校が、中学2、3年の時には国見高校が、それぞれ高校選手権を連覇しており、全国優勝を果たすためには、そのどちらかの高校に進むという決断に至る。
「新庄先生にも相談して、小嶺(忠敏)先生のいる国見に行くことにしました」
同郷の先輩・永井、三浦は、明野で新庄監督の指導を受けた後、国見へ入学して全国制覇を果たしている。藤田も、その先輩に続くべく、日本有数のサッカー強豪校の門戸を叩いた。
「国見で一番何をしたかと言われれば、走ったことですね。走りながら眠りそうになったこともありました(笑)。疲れ過ぎて」
藤田が入学した当時の国見は、全国でも1、2を争うほどの強豪校だった。当然、それだけ練習量も多く、特に走り込みの量は尋常ではなかった。
藤田は、「最も印象深い」という1日について話す。それは夏休みのことだ。国見は隣の市の高校へ赴き、1日で5試合の練習試合をこなしていた。
「県内の学校と試合をする時には、こちらが勝手に決めて、0-3からスタートするんです。だから4点取らなければ勝ちとは認められないんですけど、3点しか取れなかったんです。隣の市から『走って学校まで帰れ』と言われ(苦笑)、5時間半、走り続けてやっと帰ったんですけど、途中に山があって、冷たい風が吹くんです。その時に眠りそうになりました」
そして学校に戻った後も、また練習を行い、ダッシュやミニゲームを終え、練習が終了したのは朝方の4時。そして今度は朝6時から朝練が始まるというのだから、国見の選手が「日本一の練習量をこなしてきた」と自負するのも納得できる。選手たちは「こんなに練習したのに、負けたら全てが無駄になる」という思いを持って試合に臨んだからこそ、様々な大会で優勝を勝ち取ることができたのだろう。
「私服は1着も持っていなかったです。オフが1日もないから私服は必要ないんです。いつもジャージでした」
サッカー漬けの生活をしていた甲斐もあり、藤田は高校1年時にインターハイと高校選手権でともに準優勝。高校2年時にはインターハイ、選手権の2冠。3年生でもインターハイ優勝、選手権3位という輝かしい成績を収めた。何より、国見で過ごした3年間によって、誰にも負けない運動量と、精神的なタフさを身に付けることができた
国見の生徒は大学へ進学し、そこでサッカーを続ける傾向が強い。藤田の直属の先輩である平山相太(現FC東京)は筑波大、兵藤慎剛(現横浜FM)は早稲田大、同級生の渡邉千真(現FC東京)も早稲田大へ進んだ。そして、藤田は明治大へ進学する。明治大のサッカーの特徴や藤田のプレースタイルを考えた小嶺監督から「お前は明治に行け」と勧められたからだ。
セレクションの日、ここで出会ったのが林陵平だった。
「オレは午後から実技だけだったんですけど、陵平は午前中から来て、小論文もあったみたいです。その時の陵平は、まだチャラかったですね。『お前、ちゃんとしろよ』という感じでした(笑)」
同年代には林に加え、長友佑都(現インテル)、橋本晃司(現水戸ホーリーホック)と、後にプロとなる選手を揃えた明治大は、藤田の代が加入して以降、黄金時代を築いていく。2004年まで関東の2部にいたチームが、その後1部へ昇格。2006年には後期リーグを無敗で終え、総合成績では3位となった。そして翌2007年、43年ぶりに関東大学リーグ優勝を果たす。
「周りの人は明治の練習が『キツイ』と言っていましたけど、国見出身のオレからすれば全然楽に感じました(笑)。陵平は苦しんでいましたね」
藤田は林、長友とは特に仲が良かった。大学生ながらストイックにサッカーへ打ち込む2人にも引っ張られ、藤田も2人から大きな刺激を受けながら練習に取り組んでいた。切磋琢磨し、休みの日は3人でオフを満喫するなど、オンとオフの切り替えもできていた。そうやって互いに高め合いながらやってきたため、それぞれが実力を伸ばし、チーム力向上にもつながった。
2007年天皇杯でのJクラブとの対戦において、明治大は全国にその名を知らしめることになる。
藤田がプロを具体的に意識し始めるのは、大学2年生の時だ。東京ヴェルディと明治大が練習試合を行い、そこでコーチを務めていた柱谷哲二(現水戸ホーリーホック監督)の目に留まり、何度か練習参加を繰り返していくうちにプロへの願望が強まっていった。
2007年度の天皇杯で、東京都予選を勝ち抜いた明治大はJFLやJクラブと対戦していくのだが、藤田は学生としてプロに胸を借りるというよりは、「このレベルの相手と対戦しても普通にプレーできなければダメだ」と高い意識を持って試合に臨んでいた。
明治大は旋風を巻き起こした。ソニー仙台を3-2と下し、続く京都サンガ戦も1-0と勝利を飾った。最大の衝撃は4回戦の清水エスパルス戦だろう。ベストの布陣を組んだ清水に対し、林陵平と、彼の周囲を衛星のように動き回るレイソルU-18出身の1年生FW山本紘之、この2トップが清水の守備を撹乱させた。
藤田もまた、岡崎慎司(現1.FSVマインツ05)をマンツーマンでマークするという重責を担った。林の2ゴールなどで2度のリードを奪った試合は、延長戦でも決着がつかず。3-3の末PK戦へ縺れ込み、最初のキッカーを務めた藤田は見事にPKを成功させている。だが明治大はここで力尽きた。J1チームの壁を超えることはできなかった。
それでも敵将の長谷川健太監督(現ガンバ大阪監督)をして「完全な負けゲームだった」と言わしめるほどのパフォーマンスを明治イレブンは披露し、この天皇杯の快進撃によって、藤田自身がプロでやっていく大きな手応えを掴んだ。
2009年、藤田はプロサッカー選手としての道を歩み始める。選んだクラブは東京Vだ。高校・大学と中盤を務めていたように、当初はボランチとして東京Vに加入した。サイドバックへの転向はプロ加入後のこと。1年目の春先である。
「開幕前の練習試合で服部(年宏)さんの調子が悪くて、オレが代わりに出たんですが、そこでしっくりハマって。それからサイドバックで出るようになったんです」
大学時代にも"即席サイドバック"としてのプレー経験はあったが、本格的なプレーはこの年が初めてだった。その中で藤田はレギュラーポジションを確保し46試合に出場。欠場は累積による出場停止のみ。ルーキーとして上出来の成績を残しただけでなく、この数年後には右サイドバックとして出場したナビスコカップ決勝で、優勝を手繰り寄せる殊勲のアシストを記録したことを考えれば、このコンバートは大成功と言うべきだろう。
1年目の活躍が認められた藤田は、翌2010年には横浜FMへ移籍する。満を持して乗り込んだJ1の舞台。春季キャンプで好調をアピールし、開幕戦ではスタメン出場を果たした。
開幕戦の相手はFC東京。マッチアップしたのは明治大時代の盟友・長友佑都だ。
「オレが右サイドバックで、あいつが左サイドバックで出場して。面白かったですね。1試合ずっと楽しかったです。お互いに意識しながらやり合っていました(笑)」
0-1の黒星スタートも、個人的には好プレーを見せたという自負があった。新天地でやっていく手応えは十分だった。
ところが幸先の良いスタートも、大物選手の復帰に伴い、置かれている状況が一変してしまう。
「海外でプレーしていた俊さん(中村俊輔)が開幕2戦目からマリノスに復帰することになりました。それで俊さんのプレーを分かっている選手で固めるということになって、オレは外れたんですが、最初の湘南戦を3-0で勝ってから、出番がなくなってしまったんです」
出場機会に恵まれず、結局このシーズンの出場はわずか5試合に終わる。「サッカー人生でこんなに出られなかったのは初めて」という苦しい時期を味わった。調子が悪く不甲斐ないプレーをしていたり、競合するポジションに突出した選手がいるのならば納得はできるが、調子が良く、練習で好プレーを見せても一向にチャンスは訪れない。そこには「自分ではどうしようもできない」という手詰まり感があった。
「環境を変えるしかない」
この状況を打破するため、藤田は移籍を決断した。
「キシさん(岸野靖之)から声を掛けてもらいました。キシさんは毎年のようにオファーをくれていたんです。大学の時、ヴェルディからマリノスに行く時。それに続く3回目のオファーでした。『プライドもあって、いろいろな考えがあるだろうけど、いいから来い』と言っていただきました」
自分を必要としてくれる岸野監督の熱い言葉に打たれた藤田は、横浜FCへ移籍した。2009年のプロ加入以降はサイドバックに主戦場を移したが、藤田に絶大なる信頼を置いていた岸野監督は藤田をボランチとしても起用した。
「プロ生活で一番充実していた1年だったと思いますね。34試合に出場して、ボランチでも試合に出られたので」
J2第8節サガン鳥栖戦では念願のプロ入り初ゴールも記録するなど、開幕から試合に出続けていた藤田は水を得た魚のように快活なプレーを見せていた。そして、この活躍があったからこそ、レイソルからオファーを受けるに至るのである。
初秋と比較的早い時期で受けたオファーだったため、移籍か残留かを熟考する時間は十分にあった。親友の林に話を聞けば、レイソルでは「良ければ試合に出られる」。周囲からは酒井がいるにもかかわらず、レイソルに移籍するのは「無謀だ」と咎められたこともあったが、行くからには酒井の"バックアッパー"で終わるつもりなど毛頭なかった。強い気持ちを持ち、自分自身の成長を期して、レイソルへの移籍を決断した。
藤田はレイソルに来た時の最初の印象をこう語っている。「勝負に対するこだわりが違うと思いました」
ただ、温度差やギャップを感じるどころか、逆に自分本来のメンタリティーとの同調があった。国見、明治大という勝ち慣れたチームでプレーしてきた藤田にとっては、日頃から貪欲に勝利を追い求める"Vitoria"の精神が根付くレイソルの環境が自分に合っていると感じられた。
「上の年代の選手の意識が特に高いですよね。ドゥーさん(近藤)、タニさん(大谷)、スゲさん(菅野)、クリさん(栗澤)......みんな意識が高いし、上の年代の選手の意識が高いと若い選手も手を抜けない。他のクラブでは練習は力を抜いて、試合だけ全力でやればいいという選手もいたんですけど、レイソルはそういう空気ではないですよね」
加入後、酒井とのポジション争いは簡単ではなく、ベンチを温める時期が続いた。それでも新進気鋭の日本代表サイドバックと切磋琢磨し、徐々にではあるが出場機会を増やしていく。そして酒井のハノーファー移籍後には右サイドバックの定位置を掴み取った。だが、自らに高いハードルを課してレイソルへの移籍を決断したことを考えれば「ただ試合に出るだけ」の状況では満足できるはずもなかった。
「正直、酒井が抜けた後の穴を埋められたとは思っていないですね。チームから求められることはできなかったんで」
そう話す口調と表情からも、移籍初年度のパフォーマンスが不本意であったことが窺い知れる。
2012年11月17日。J1第32節、雨中の日産スタジアムでの激闘、古巣対戦となった横浜FM戦について言及する。
「あの試合が最低限のパフォーマンスですね。アシストしたというのもありますが、あの試合は守備が良かったと思います。押し込まれても体を張ることができていましたし」
ようやく納得のいくパフォーマンスができたのも束の間、天皇杯準決勝以降は再びサブとなり、2013年の元日に自身のプロキャリアで初となるタイトル獲得を喜んだ反面、悔しさも残った。しかも新シーズンは、右サイドバックのポジションには韓国代表のキム・チャンスが加入するという。
選手によっては、ここで新たな移籍先を探してもおかしくはないだろう。しかし、2012年の納得のできない自分自身のパフォーマンス、天皇杯終盤でのメンバー落ち、キム・チャンスの加入、これらは移籍の選択肢を選ぶどころか、藤田が持つ不屈のメンタリティーに火を放つ。
そして、この逆境を跳ね除けていく。
2013年は、開幕直後こそスタメン出場を果たせなかったが、第3節のベガルタ仙台戦で藤田はスタメンに返り咲いた。その後、第10節横浜FM戦までスタメン出場を続けるも、5月に入ると今度はキム・チャンスがポジションを奪い返した。しかしリーグ中断期間が明けると、またしても藤田がスタメンに名を連ねるという、両者による激しいポジション争いが繰り広げられていた。
『藤田優人 藤田優人 俺たちの藤田優人』
サポーターからは応援歌が作られ、藤田が躍動する度に日立台にその歌声が大きく響き渡った。
応援歌にまつわる面白いエピソードがある。2歳になった藤田の息子は、日立台に通い詰めているとあって、すでにレイソルの様々な応援歌を覚え、サッカーの動きをしてはよく口ずさんでいる。ただ、彼がもっとも頻繁に歌うのは、父親のチャントではない。
「なぜか工藤の歌ばかり歌うんですよ。同じ"マサト"だからなのかもしれないですけど(笑)」
「これといって趣味がない」と話す藤田だが、強いて挙げるとするなら、現在ハマっていることは育児だ。オフになれば必ず家族とともに出掛け、日々の練習や試合で疲労した身体も、「子どもの相手をするのが良いリカバーになるんです」と笑顔を見せる。
「息子には、なにかスポーツをやってほしいと思います。できれば野球をやってもらって、自分が高校サッカーで優勝したから、息子には甲子園で優勝してもらいたいんですよね。でも息子がサッカーをやりたいと言うのなら、やらせますけど、陵平に預けると子どものうちから筋トレをやらされちゃうので、それは絶対にしません」
冗談を交えながら、今思い描く夢を語る。
家庭では"優しいパパ"である藤田も、ピッチ上では一転、スイッチが入ったかのように闘志を燃え上がらせる。
特にナビスコカップ決勝前日は印象深い。練習後に口にした「自分が一番試合に飢えている」との言葉には熱が籠り、闘志を抑えきれぬといった様子だった。
キム・チャンスとポジション争いを繰り広げてきたが、盛夏を過ぎた頃から藤田の出場機会は減少していき、ナビスコカップ決勝直前に行われた第30節浦和レッズ戦ではメンバー外になっていた。それまでの蓄積された悔しさを決勝の舞台で晴らすという意気込み、そして切磋琢磨してきたキム・チャンスが直前の怪我で決勝戦に出られない、その思いも背負っていたのだから、闘志が身体から溢れ出すのは当然である。
決勝のピッチに立った藤田は、序盤に槙野智章の突破をスライディングで食い止めたプレーにも象徴されるようにエンジン全開だった。国見、明治大で大舞台を経験してきただけに"場慣れ"を感じさせた。
だが前半14分、アクシデントに見舞われる。敵陣でボールをキープした際に、後方から宇賀神友弥のチャージを受け、右膝を痛めてしまうのだ。応急処置をしてピッチに戻ったが、この時点で前半終了時に交代することが告げられた。相当な激痛を伴っており、一旦ピッチに戻ったとはいえ、プレー続行不能と自分自身が判断すれば前半のうちに退くこともできた。しかし痛みを堪え、残りの約30分間、プレーを続けた。
決勝点を生み出したクロスは、そんな状況で生まれた。
「スカウティングの結果から、監督に『ファーサイドにスペースができる。そこへ低い弾道のクロスを入れろ』と言われていたんです」
後に、藤田はあのクロスが生まれた背景をそう明かしている。膝の怪我によって、カーブを掛けたクロスを蹴ることができない状態であったのも事実だが「最後の力を振り絞って蹴った」と魂を込めた最高のクロスが、工藤のヘディングでのゴールを生み出した。
負傷を押して45分間を戦い抜き、前半で退いた。したがって歓喜の瞬間はベンチにいたが、天皇杯の時と心境は違っていた。殊勲のアシストという大仕事をしたことで、かつてないほどの充実感があった。
そして後日、診断結果が出る。右膝前十字靱帯損傷、全治約8ヵ月。藤田のサッカー人生において、初めての大怪我だった。それでも彼の強いメンタルは折れることがない。診断結果を伝えられた時こそ、「頭が真っ白になった」と本音を漏らすが、手術を終え、退院して日立台に戻ってきた頃には、すでに気持ちは切り替わっていた。
「今やることは一つしかありません。逆に新しい自分になれるように、またパワーアップして日立台のピッチに戻れるように、復帰まで半年以上あって長いですけど、1日1日を無駄にせずやっていくだけです」
怪我から約3ヵ月が過ぎた現在は、筋力トレーニングも取り入れ、春過ぎからはランニングの開始を予定している。ここまでの経過は順調だ。復帰の時期を問うと「早くてワールドカップが終わって、リーグ中断期間が明けた頃ですかね」と首を傾げながら語る。ただし、これだけは確実に言える。不屈のメンタリティーを持つ藤田のこと、彼の言葉にもある通り必ずパワーアップをして、復帰の暁には再び日立台を沸かせるプレーを見せてくれるに違いない。
「戻った時に『やっぱりコイツだな』と存在感を示すことができるようにしたい。万全に治して、筋トレをして、ゴリゴリになって帰ってきます(笑)」
TODAY'S MENU: 「ホタテ、キャベツ、かぼちゃのクリームパスタ」(セットサラダ&ドリンク付き)
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