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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

茨田陽生

小学4年生からレイソルアカデミーで手厚く育てられた才能
工藤壮人、酒井宏樹ら1歳上の先輩の後押しを受け
また彼らの背中を追いながら、共にトップチームに上り詰めた
一本一本に言葉と思いを込めるこだわりのパスで日立台を熱く照らす「太陽」になる

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 20

Chapter01:偶然なのか運命なのか

 1991年5月30日。千葉県松戸市の茨田家に、4番目の男の子が生を授かった。その男の子は"太陽に生きる"と書いて「陽生(あきみ)」と名付けられた。
2年後の同じ日、Jリーグ参入を目前に控えた柏レイソルのマスコットキャラクターの名前が一般公募により決定し、「レイくん」が誕生した。さらに18歳の誕生日を迎えた2009年5月30日。2種登録の高校生にして、日立台のピッチでデビューを飾ることになる。"レイソル"は、スペイン語の太陽(SOL)と王(REY)を合わせた造語であるが、陽生という名前、マスコットと同じ誕生日、そしてデビューの日......。これは単なる偶然なのか。それとも運命だったのか。
 親の転勤で兵庫県尼崎市に越した後、再び千葉県に戻った。父親がFC浦安ブルーウィングスでボランティアコーチを務めていたこともあり、茨田家の4人兄弟全員が同クラブに入団する。FC浦安ブルーウィングスの活動が日曜日だけだったため、幼少期の茨田はジェフユナイテッド市原とFC東京のスクールにも通い、小学2年生の時になると父親の知人を通じてレイソルアカデミーのセレクションの存在を知った。
「僕が小2の時に工藤君たちと同じセレクションを受けてみたんですけど......1次で落ちました(苦笑)。それで翌年も受けに行って、今度は合格できたんです」
 本人の感想では、セレクションはあまり良い出来ではなかった。父親が録画した当時のビデオを見ると、子どもたちが団子状態でサッカーをする中、茨田はその団子の中には入らず、1人だけポツンと離れ、こぼれてきたボールをさばいてプレーしていたという。
「控え目な感じでプレーしていました。でも、子どもの頃には今にはないドリブルが冴えていました」

Chapter02:一歳上の工藤君たちと

 こうして小学4年生からレイソルに加入したわけだが、人見知りの性格ゆえ、当初は練習に行くのが憂鬱だった。地元の仲の良い友達とボールを蹴るのではなく、「今日も知らない人とサッカーをするのか...」と、そんな心境だった。
 ただ、本人は気付いていなかったが、コーチ陣の評価は非常に高く、茨田の潜在能力、サッカーセンスはすでに周囲の目を引きつけていた。5年生になると、工藤壮人、仙石廉(現ファジアーノ岡山)、比嘉厚平(現モンテディオ山形)らレイソルU-12の主力メンバーが県のトレセンに呼ばれた時などは、1つ上の学年のチームに呼ばれる機会が増えた。
「合同合宿では、工藤君たちの代と一緒になりました。工藤君が寝坊して"村井スペシャル"をかまされたのを覚えています(笑)」
 当時のU-12監督、村井一俊による"村井スペシャル"とは『特盛りご飯』のことである。おそらく成長期の小学生たちに「一杯食べて大きくなりなさい」という意図があったのだろう。特に寝坊した場合には、茶わんに山ほどご飯を盛られた。
「僕は"村井スペシャル"を食らったことはないので助かりました(笑)。普通盛りのご飯でも食べられないんで...。でも工藤君は、あの"村井スペシャル"を完食しましたから、すごいですよ!」
 さて、当のサッカーの成績はというと、茨田の代はあまり振るわなかったようだ。上の代が全国少年サッカー大会ベスト4、下の代が準優勝と全国の上位まで勝ち進んだの対し、茨田の代は千葉県大会のベスト16で敗れた。
 だが先述した通り、茨田の能力はU-12時代から早くも嘱望されていた。2004年、中学生となりU-15へ上がると、その類稀なセンスを徐々に発揮していくことになる。

Chapter03:ドリブラーからの転身

 中学1年になった茨田は、しばらくすると1つ上の学年の代に呼ばれ、工藤壮人らの年代であるU-14のチームの一員となる。この"飛び級"こそ、茨田のサッカー人生の中でも極めて大きな分岐点だった。
「小学生の頃まではドリブラーだったんですけど、1つ上の代に入ったら比嘉君やタケ君(武富孝介/現・湘南ベルマーレ)みたいにドリブルの上手い人がいて、『僕のドリブルは何なんだ?』と思うようになったんです。それからドリブルはしなくなりました(苦笑)」
 謙遜気味にドリブルの封印を語るが、おそらくは「ドリブルが通用しない」というよりも、新たな魅力に引き付けられたからこそ、そちらへ傾倒していったと言った方が適切かもしれない。それが、現在の茨田のプレースタイルの幹をなすパスだ。
当時コーチを務めていた吉田達磨(現強化部ダイレクター)の組む練習メニューに触れ、パスをつないでいく"ポゼッション"の面白さを知った茨田は、パサーとしての能力を飛躍的に向上させていく。
「達磨さんの練習はボールポゼッションを高めるものが多くて、やっているうちに『自分に合うな』という感じがしてきたんです」
 この頃からポジションも中盤ではなく、1列下がった最終ラインでの起用が増え始めた。仙石廉、山崎正登(現FC岐阜)、畑田真輝(現AC長野パルセイロ)と中盤にはタレントが多かったこと、そして最終ラインに怪我人が続出したことも理由にはあるだろうが、吉田ダイレクターがU-18の監督を務めていた頃に茨田のセンターバック起用の理由を聞いたことがある。その時には「戦術的な理由から」との返答を受けた。したがって、最後列の比較的プレッシャーの少ない位置で茨田のパスセンスを生かし、ゲームを構築するとの狙いもあったに違いない。
「初めてセンターバックをやった湘南戦は全然ダメだったんですけど、次のマリノス戦では何故かフィットしたんです。マリノスには齋藤学君、端戸仁君がいました。でもシマさん(島川俊郎/現ベガルタ仙台)とのコンビが良い感じでできていました」

Chapter04:メッセージを込めたパス

 当時を知る工藤は、小学生時代の茨田について「あまり目立った存在ではなかった」と振り返っている。だが、その後にこう言葉を繋げた。
「達磨さんに出会ったことはバラにとって本当に大きかったんだと思います。ジュニアユースになってからはバラの持ち味のパスというものが出せて、"メッセージ性"のあるパスをくれるようになったのもこの頃からです」
"メッセージ性"のあるパスは、茨田の特徴の1つである。例えば、受け手の右足に速いパスを送れば、それは「左から敵が来ているよ」という周囲の状況を味方に知らせる役目を果たす。パスに込めたそのメッセージを味方が感じ取り、状況に応じた準備ができれば、左から来た相手選手を体でブロックしながらキープすることも、相手が来る逆側にボールをコントロールすることもできる。
こうした点も吉田から指導を受けたことで身に付けたものではあるが、若干13、4歳の少年が、ピッチ上で実践するのは簡単な作業ではない。これはパサーとしての資質や、感覚的にサッカーを理解する能力の高い茨田の天賦の才があってこそ。そして、プロのステージで活躍する茨田の現在のプレースタイルの礎が、この時に確立され始めたわけである。
 U-15時代にも日本クラブユース選手権、高円宮杯といった全国大会では好成績を収められなかった。しかし、茨田と島川の形成するセンターバックコンビ、仙石と畑田のボランチ、比嘉のサイドアタッカー、前線でゴールを量産する工藤と、2、3年後に国内ユース年代のサッカーシーンに衝撃を与える「攻撃的なボールポゼッション」の骨格が出来上がりつつあった。

Chapter05:異色のサイドバック

 U-15日本代表に選出された茨田は、代表では左サイドバックで起用されている。宇佐美貴史(ガンバ大阪)、原口元気(浦和レッズ)、田口泰士(名古屋グランパス)らとともに出場したイタリアでの国際大会では優勝を飾った。
さらに高校生となり、レイソルU-18に昇格した後、最初に勝ち取ったポジションは右サイドバックだった。頻繁に上下動を繰り返すのではなく、ビルドアップに加わり、状況次第では前線に綺麗なクサビのパスを通す。本人曰く「センタリングを上げた記憶のない、異色のサイドバック」である。
 2007年のJユースカップでは常にスタメンで出場した。「試合に絡んでいたので、本当に悔しかった」と、茨田は決勝戦での敗戦に涙を流したが、それでも高校1年生にしては上出来のプレーを披露していた。
 2008年の春、レイソルU-18はスペインへ遠征し、MIC国際大会に出場した。U-15時代から築き上げてきたボールポゼッションは世界の同年代の強豪を凌駕し、U-18ブラジル代表、エスパニョールを下して決勝へ進出する。決勝の相手はU-18メキシコ代表。ここで茨田は、忘れ得ぬ苦い経験を味わう。
「ボランチへのパスをジョバニ・ドス・サントス(現メキシコ代表の10番)の弟(ジョナタン・ドス・サントス)に奪われて、ミドルを打たれて決められてしまい、0-1で負けてしまったんです。もっと勝ちにこだわらなければいけなかったと、後悔しています。マジ悔しかったんで......」
 茨田はそう言うと、当時の心境を思い出したのか肩を落とした。しかしU-18時代のその苦い経験が、今の茨田の糧となったのは明白だろう。
「ここは良いことをするんじゃなくて、簡単にプレーしていいとか、そういう区別はできるようになってきたと思います」と話す通り、試合の流れを読み、危ない場面ではパスをつながずに、シンプルにクリアしてリスクを回避する。今年の元日での国立競技場で見られた勝負に徹する茨田のそういったプレーは、あの時の経験が深層意識に刻まれているからではないだろうか。
「自分のサッカー人生の中では大事件でしたね。どのようにミスしたか、どういうふうに取られたか、鮮明に覚えていますからね(苦笑)」

Chapter06:黄金世代を追いかけて

 育成年代は何度もトライをして、失敗が許される年代。もちろんその時は非常に悔しい思いを味わっただろうが、最も重要なことはその経験をプロになった後にどう生かすかである。茨田は、今後もあの経験を忘れることはない。だからこそ、あの経験をプロの世界で生かしている。
このMIC国際大会ほど苦い経験ではないが、夏のスペイン遠征、ビジャレアル国際大会でも、茨田はレアル・マドリードのカウンターに後手を踏み、改めて自分の守備の軽さを思い知らされたという。ただ逆説的に言えば、レアル・マドリードがカウンターに出てきたということは、ポゼッションサッカーの本場スペインの地で、レイソルU-18がポゼッションでは本場を上回ったことを意味する。
「達磨さんからは、『自分たちのサッカーを貫く』と言われました。観客は、普段スペインサッカーを観ている人たちなので、レイソルのサッカーを観て沸いていましたね」
 アヤックス、リバプールを下し、レアル・マドリードには敗れたものの、3位決定戦でセルティックに競り勝った。攻撃的なボールポゼッションという自分たちのスタイルを貫きつつ、勝負にもこだわる。センターバックで出場した茨田にとっては学ぶべきものの多い2つのスペイン遠征だった。
 その後、"黄金世代"と呼ばれ、攻撃的なポゼッションサッカーをピッチ上で表現してきた工藤、酒井、仙石、比嘉、武富、山崎の6名がトップに昇格する。子どもの頃から1学年上に彼らとともにプレーしていた茨田は、「何か変な感じでした。僕も一緒に昇格するつもりでいた(笑)」といった"錯覚"に近い感覚を抱いたという。
ところが、その感覚もあながち間違いではなかった。昇格した6名の後を追うように、2009年5月、急遽2種登録選手として、トップチームへの帯同が決まったのである。

Chapter07:優勝争いのなかで

 2点のビハインドを背負った時、確かに日立台の空気が凍りついた。だが工藤が反撃の狼煙を上げ、その後、茨田が放った1本のパスが空気を一変させた。2011年J1第24節川崎戦、田中順也の強烈な同点弾をアシストしたピンポイントのロングパスは、間違いなく茨田の真骨頂だった。
「痺れましたね。ゴールが決まったら、順也君のところに行くんじゃなくて、みんな僕のところに来て『ナイスパス』と言ってくれました。ユースの時からああいう形は狙い続けていたんですけど、2年目になってやっとその形が来ました」
 0-2からの大逆転勝利を手にした翌週には、優勝争いのライバル、名古屋と対戦する。この試合でもスタメンで出場した茨田は、試合開始早々に、いきなりイエローカードを貰った。"優勝争い"という、それまで味わったことのないプレッシャーと緊張感の中でのプレーは、プロ2年目、弱冠20歳の若者がメンタルコントロールをできないほど気持ちを高ぶらせてしまう。
「『ヤバイ、あいつ行き過ぎだろ』ってみんなに思われました(苦笑)。それでジョルジに注意されたんですけど、その後にイエローでもおかしくないファウルをして、またジョルジに『落ち着け』と言われてから、やっと落ち着きけした」
 2011年のエピソードを楽しそうに振り返る茨田の口調が最も興奮気味になったのは、最終節での、J1優勝を決めた浦和戦に話が及んだ時である。
「アップの時から鳥肌が立ちましたね。スタンドは真っ赤なんですけど、黄色もびっしりいて。『うわぁ』って思いました」
 ユース時代のMIC国際大会決勝をはじめ、Jユースカップ決勝、日本クラブユース選手権決勝と、優勝の懸かる試合では以前にもスタメンで出場をしてきたが、どれも実力を発揮できたとは言い難く、それが"トラウマ"にもなっており、浦和戦でスタメン出場を言い渡された時は「少し不安だったんです」と、その時の心境を語っている。だが浦和戦の茨田は堂々とプレーし、大谷とともに落ち着いてゲームをコントロールした。
 そして、あのゴールが生まれる。
「柏木(陽介)君に決められて1点差になった時は、正直『ヤバイ』と思いました。でも、コーナーキックから僕のゴールが決まって優勝を確信しました。メッチャ嬉しかったです。今でも思い出しても興奮します(笑)。自分でも、よくあそこから打ったなと思いますね。良い形のゴールではないけど、忘れられないゴールです」
 茨田の言葉通り、決して綺麗なゴールではなかった。しかし、あの一撃はレイソルがJ1初優勝を決めた試合でのゴールとしてクラブ史に刻まれ、さらにレイソルに関わる全ての人があの瞬間に優勝を確信したという意味では、多くの人の記憶に残るゴールでもあった。
 嘱望された才能とは裏腹に、子どもの頃からタイトルとは無縁のキャリアを歩んできた。レイソルU-12に加わってから11年目のシーズン、ついにJ1優勝というビッグタイトルを手にした。

Chapter08:監督の期待を受けて

 また、2011年は茨田にとって、もうひとつ忘れられないシーズンでもある。優勝が決まる直前の11月に入籍し、守るべき家族ができた。さらに数カ月後には第一子が誕生し、父親になった。こうした一連の出来事は、選手としてだけではなく、人としても大きな成長を促したことだろう。
「練習で疲れていても、家に帰って、娘の顔を見ると癒されますね。今は歩くようになったんで、『おいでー!』と言うと、向こうから歩いてくるんです。もう...ヤバイです(笑)」
 子どもが生まれた頃、茨田はある夢を語ってくれた。
「娘がもう少し大きくなったら、抱いて選手入場をしたいんです」
 2013年開幕の川崎戦にて、早くもこの夢が実現する。選手にとって、"開幕スタメン"は特別なこと。その特別な試合で、茨田は2010年のプロ入り以来、4年連続でスタメンを飾っている。だからこそ一緒に入場したいとの思いがあり、入場時には自分と同じ「背番号20」のユニフォームを娘に着せた。
「早い時期から20番のユニフォームを注文していたんですけど、意外と時間がかかっちゃったので、間に合うかどうか焦りました(苦笑)。来年ですか?う~ん......また、開幕スタメンだったら考えます(笑)」
 サッカー選手として依然として底知れぬポテンシャルを秘め、常々周囲からは"レイソルの未来を担う"と形容される。選手として成長曲線状にある自分と、輝く未来が待ち受けている娘の姿を重ね合わせるのか、茨田はこう口にする。
「子どもと一緒に成長していきたいですね」

Chapter09:スイッチ

 愛娘とともに成長する。そんな思いを描く茨田は、「あと5年ぐらい頑張ってやっていれば、現役時代のプレーが娘の記憶に残ります」と話している。しかし5年後というと、茨田はまだ27歳だ。"頑張って続ける"と言いうほどの年齢ではない。むしろレイソルの主力中の主力にまで成長し、大声を張り上げてチームを牽引するような大黒柱になってもらわなければならない。そう本人に問い掛けてみる。
「そうなったら、娘から『サッカーをやっている時は違う』と言われそうですね(笑)。今でも奥さんに言われるんです。『サッカーをやっている時は全然違うね』って。サッカーをやっているとスイッチが入るとは自分でも思います」
 ピッチを離れれば、おとなしく控え目な性格だが、プレーをする時はその姿が変わる。中学や高校でも、友人たちからはずっとそう言われ続けてきた。プロの世界に飛び込み、タイトル獲得というギリギリの経験を積んでいく中で、戦っていくために"スイッチを入れる"重要性を知った。サッカーセンスは申し分ない。だからこそ、そういう気持ちの部分を今以上に出せるようになりさえすれば、茨田は選手として必ずやもうひと皮もふた皮も剥けるはずだ。
「守備に追われることが多くて、自分の持ち味を発揮できなかったと思います」
 そう振り返る2012年シーズンは、パスでゲームの流れを変え、J1優勝に大きく貢献した前年とは異なる年だった。それでも、シーズンの終盤には"戦える姿"を発揮し、今までは不得手としていた守備や気迫という部分でも一歩も引くことなく戦い、前身の日立時代から37年振りとなる天皇杯優勝に貢献した。
ターニングポイントになった準々決勝の大宮戦は、途中からのシステム変更や水野晃樹(現ヴァンフォーレ甲府)の投入が流れを変えるキッカケとなったが、得意のパスでゲームをコントロールしつつ、球際の攻防で激しく戦った茨田のプレーも語り落とすことはできない。
「(吉田)達磨さんからも、試合が終わった後に、『良かったぞ』と言われました。後で試合を見返してみて、自分でも『確かに』と納得できた試合でもあります。パスコースが多ければ、最善の選択肢を取れる自信はあります。同点の時は那須(大亮/現浦和レッズ)さんにレアンドロみたいなパスを出しましたし(笑)」
 あの試合の姿こそ、茨田の"至宝"たる由縁だろう。パスセンスにも象徴される通り、天才肌のプレーと、"戦う"というタフさの共存は、レイソルはもちろん、将来的には日本を代表するパサーの座にまで茨田を押し上げることになる。

Chapter10:レイソルの中心に

 プロ1年目の2010年からJ2優勝、J1優勝、天皇杯優勝と、3年連続でタイトルを勝ち得てきた。そんなプロ生活を歩んできているからこそ、「常にタイトルを取り続けなければいけない」というメンタリティーを、茨田はごく自然に持ち合わせている。
「最低でも1年に1つは......できれば2つとか、タイトルを取りたいと思っています。毎年ユニフォームの胸に星を増やしていきたいんです」
 先述の通り、性格は控え目で、大きな目標を豪語するタイプではないが、その彼が「最低1年に1つのタイトル」や「胸に星を増やす」とまで言い切るのは、決してビッグマウスやリップサービスなどではなく、心底それを願っているからであり、そういうクラブにならなければいけないと感覚的に理解しているからだ。
 毎年タイトルを取れる"常勝軍団"へ。では個人的にはどのような選手になっていたいのか。
「いずれはタニ君(大谷)のようにチームの中心になって、ああやって落ち着いたプレーでチームを引っ張って行けるようになりたい。周りから見ても『中心だな』と思われる選手になりたいですね。それが僕の当面の目標です」
 かつて大谷が明神に憧れ、目標としていたように、今ではレイソルで確固たる地位を築き、絶対的な柱にまで成長した大谷を目標とする茨田。アカデミーに訪れる7年周期の法則。そして今度は茨田が大きく成長した時、その姿に憧れ、茨田を目指す選手が必ず出てくる。
 茨田が絶対的な中心選手として中盤に君臨する未来。レイソルのユニフォームの胸にはいったい幾つの星が輝き、クラブとしてどのような成長を遂げているのだろうか

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:「オレオチーズケーキ」(セットドリンク付き)

photo_goodmeal

『TAKIKO'S SWEETS』

  • 柏市泉町6-53-1
  • TEL:04-7151-0840
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」南口徒歩8分
  • 営業時間:11:00~20:00
  • 定休日:水曜日
  • COMENTS:お勧めはシフォンケーキです。ケーキは定番に加えて、今ですとストロベリー、リンゴとさつまいものタルト、夏にはレモンのシフォン、レモンタルト、秋にもその時期の素材を使った季節ごとのメニューを出しています。 ケーキは全て手作りで、卵は養鶏所から取り寄せ、コーヒーもこちらで焙煎しています。11時半から2時まではランチタイムで、夜にはビールや焼酎などのアルコール類も用意しています。 試合前も試合後も、レイソルのサポーターの方々にはご利用いただいていますし、当店の常連さんにも熱狂的なサポーターもいらっしゃいます。(2013年3月取材)

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