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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
渡部博文
姉の"命令"でボールを蹴り続けた幼少時代
いつしか巧みな足技を身につけ、自然とサッカーに没頭していった雪国のハンディをものともせず、心身ともに大きく成長
レイソルスカウトとの運命の出会いから夢にまで見たJ1日立台の舞台に立つまでの道程
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
渡部博文は2008年5月27日に特別指定選手としてレイソルに加入しているが、この背景にはレイソルと渡部をつなぐ不思議な縁があった。
2005年、新潟で行われた夏季キャンプに、山形中央高校3年生の渡部は練習生として参加している。この時、渡部を練習に呼んだのは当時スカウトを務めていた下平隆宏(現U-18監督)だった。
「練習試合ではサツさん(薩川了洋/現長野監督)と3バックを組みました。僕が右でサツさんが真ん中、イシ君(石川直樹/現新潟)が左。タニ君(大谷秀和)がボランチでした。サツさんには怒鳴られましたよ(苦笑)」
しかもその時の相手はFCホリコシ。「覚えていないんですけど、多分相手にはクラさん(藏川洋平/現熊本)もいたと思います」と渡部は当時の記憶を辿る。そしてキャンプ中の同部屋には、流通経済大柏高校から同じく練習生として参加していた長谷川悠(現大宮)がいた。
「その時に自分の実力不足を痛感しました。このままじゃプロでは通用しないと思い、大学に行って鍛え直そうと思ったんです」
その3年後に、再びレイソルに練習参加するチャンスが訪れる。2008年、当時のスカウト、佐々木直人が「専修大学3年のセンターバックを練習に連れていく」と強化部に伝えた。2005年には、まだスカウトの職に就いていなかった佐々木は、下平が渡部を練習参加させた3年前の出来事を知っていたわけではない。偶然にも渡部は、2人のスカウトに見込まれ、レイソルでプレーする機会を2度与えられたのである。
大学サッカー界で3年間揉まれ、実力を蓄えてきた。その時の練習参加は、以前とは大きく異なっていた。
「大丈夫だ、プロのスピードに付いていける。イケる!」
プロでプレーする手応えを感じた。大学サッカー界でも屈指のDFの1人だった渡部には、当然のごとく他のクラブからの誘いはあった。複数の中からレイソルを選んだ理由はどこにあったのか。
「個人的に強い縁を感じちゃったんですよね。高校の時にはシモさん(下平)から、大学の時にはナオさん(佐々木)からスカウトしていただいた。特別指定の話も、他のクラブよりも早く話を持ってきてくれたので。全く迷うことはありませんでした」
翌2009年、7月という比較的早い時期にレイソルへの加入が内定したのは、「迷いがない」と話す彼の言葉の十分な裏付けになるだろう。
ただし、当時のレイソルは残留争いの渦中にあり、最終的にはJ2への降格が決まってしまうのである。11月28日、NACK5スタジアムで降格が決定した大宮との試合を、渡部はスタンドから見つめていた。目の当たりにした降格劇には胸を痛めた。だからといって、レイソルへの加入に後悔の念は全くなかった。
「僕はJ1でプレーがしたいからレイソルを選んだわけじゃなくて、レイソルでプレーしたくて入ったんです。J1だから、J2だからというのは関係ありませんでした」
降格したとはいえ、レイソルのDF陣には錚々たる顔ぶれが並んでいた。近藤直也、パク・ドンヒョク(現大連実徳)、古賀正紘(現福岡)、小林祐三(現横浜FM)。加入するクラブを選ぶ時、中には出場機会を考えて自分のポジションの選手層が薄いチームを選択する者もいるだろう。しかし、渡部の発想は逆だった。彼らの優れた部分を学び取り、DFとしてのさらなる成長を期す。そう誓い、プロの世界へ飛び込んだ。
「子どもの頃は前に出たがって、身長も大きかったし、FWもやっていたので、ゴールを決めるとめちゃめちゃ喜んでベンチに走っていってました」
最終ラインで見せる冷静なプレーからは想像がつかないが、幼少期の渡部は本人曰く"目立ちたがり屋"だった。
その目立ちたがり屋の少年は、もともと野球選手になりたかった。ところが、一風変わったキッカケにより、サッカーの道に転ずるのである。
「姉の好きな人がサッカーをやっていて、姉から『絶対にサッカーをやった方がいいよ』と言われました。『学校から帰ってきたら、リフティングとドリブルをしなさい』と課題を突きつけられたんです(笑)」
渡部は姉から与えられた課題を忠実に守り続けた。1日およそ3時間、学校から帰宅すると、日が暮れるまで毎日続けた。次第にリフティングの回数は100回を越え、ドリブルでも意のままにボールを操れるようになっていった。そういう理由で、「気付いたら、サッカーを好きになっていた」というのだ。そして小学3年生の時、長井サッカースポーツ少年団に入団した。
小学生時代の渡部は、長身ながらドリブルの得意な攻撃型の選手だった。小学校ではFW、中学でトップ下、高校でボランチ、そして大学とプロではDFと、そのキャリアを振り返って自分自身をこう評する。
「子どもの時は前をやって、だんだんポジションが下がっていく典型的な例です」
中学からポジションをトップ下に下げた理由は小学生時代のライバルでもあった友人の存在が大きく影響している。小学生時代は、その友人とは異なるチームでプレーしていたが、中学は同じ長井南中のサッカー部に所属していた。トレセン経験もある友人の得点力を生かすため、足元の技術に優れた渡部はパサーに転向した。長井サッカースポーツ少年団で時は県大会を勝ち抜けなかった。ただ、長井南中には近隣のレベルの高い選手が集まったため、県内では屈指の力を持っていた。中学3年時、渡部の代の長井南中は山形県を制した。
そして、その頃に見た全国高校サッカー選手権だった。山形中央高校の菅井直樹(現ベガルタ仙台)のプレーに目を奪われ、当初渡部は他の高校への進学を考えていたが、気持ちが転じて山形中央を第一志望とした。長井南中の"山形県制覇"という肩書も手伝い、名門校への道が開かれたのである。
冬になればグラウンドには雪が降り積もる。渡部は「雪のことはよく言われるんですけど、僕らからすれば雪が降ったから体育館の中でやるというのは子どもの頃から当たり前だったんです」と意に介さぬ様子を見せる。
「もちろん雪の中で練習をする時もありました。まず、みんなが一列に整列して、『はい、はじめ!』って監督が言うと、雪を踏んでいくんです。1時間ぐらいかけて、ペナルティエリア内が平らになるぐらいでした」
当然それだけの時間、グラウンドに積もった雪を踏みつけていれば、ジワジワとシューズの中まで染み込み、指先まで冷え切ったゆえに感覚もなくなってしまうところだが、そこから練習が始まった。ただ、それを"不利"だとは決して感じていなかった。
「山形市内は長井に比べたら、それほどでもなかったけど、それでも雪は降りました。でもそういう環境でサッカーをやるのは当たり前でしたから」
この北の名門校・山形中央で渡部が頭角を現していくのは、高校2年からとなる。
山形中央高校2年の時にトップ下からボランチへポジションを変えると、次第に試合に起用されるようになっていった。
「2年の時は攻撃的なボランチでした。パス出しも好きでしたけど、もともとボールを持つのが好きな選手だったので、ドリブルで抜いてシュートを打っていました。俺が試合を決めてやろうっていう感じで」
レギュラーとして迎えた高校2年時の選手権山形県大会では決勝戦まで進んだ。初出場を狙う新鋭の羽黒高校に対し、山形中央は1-0とリードして終盤を迎える。7度目の全国大会出場を手中に収めたと思ったその時、渡部が痛恨のミスを犯した。そのミスによって同点に追い付かれると、延長の末、羽黒の逆転を許した。全国大会出場の切符が、手元からすり抜けていった。
「悔しかったです。そこから火が点いて、サッカーに対する姿勢が変わりました」
それ以降、渡部は目の色を変えて練習に取り組んだ。3年になると自由奔放に攻撃を仕掛けていた前年とは異なり、中盤で守備的な仕事をこなしながら、長短のパスでゲームをコントロールするチームの軸を担った。その甲斐もあり、山形中央はインターハイ、天皇杯、高校選手権という3つの大会で山形を制した。それだけではなく、個人的にもレイソルの夏季キャンプに参加するなど、著しい成長を遂げたのである。
ただ、プロとの対峙で痛感したのは、自分自身の実力不足だった。「もう一度、鍛え直す」。その思いから大学進学を決意。最初に進学先に選んだのは法政大学である。だが、そこで不運なアクシデントが待ち受けていた。
「練習参加の日に高熱を出したんです。でも行かなくちゃダメだと、親父に車に乗せられて山形から向かいました。フラフラになりながらも3日間の練習をこなしたんですけど、そんな状態ではダメだったんでしょうね」
そう話す通り、結果は不合格となる。そしてセレクションを受けていたもうひとつの大学、専修大への進学が決まった。
しかし大学へ進んだのも束の間、次に渡部を襲ったのは極度のスランプだった。モチベーションを失い、プロサッカー選手への夢も諦めかけた。「大学を卒業したら山形に帰って就職すればいい」という気持ちが芽生え、淡々と大学生活を過ごしていた。
「サッカー部の友達5人ぐらいで飯を食いに行った時に、みんなで熱くサッカーを語ったんです。大学にはJクラブのユース出身の奴が多くて、『トップに上がりたかったけど、最後の最後で上がれなかった。でもまだプロになる夢を諦めていない』と、みんなが熱く言うんですよね。それを聞いた時に、『俺は適当にプレーをして......何をやっているんだ』と思ってしまいました(苦笑)」
この友人たちとの熱い語らいは、渡部の消えかけていたモチベーションに火を放った。渡部はプロになる夢を取り戻し、生活態度を改め、高い意識を持ってサッカーと正面から向き合った。
大学ともなると、ボランチをはじめ中盤のポジションには、Jクラブ出身のテクニックに優れた選手が多い。「ボランチは自分のポジションじゃない」と感じた渡部は、自分の持ち味である守備力と体格を生かすため、もう一列下がり、最終ラインでのプレーを模索し始めた。専修大サッカー部の源平貴久監督にその旨を話すと、「俺もお前をセンターバックで使おうと思っていた」と、監督もコンバートを見据えていたことを明らかにした。
あくまでも推測だが、源平監督は渡部の守備力のみならず、高い展開力に目を付けたのではないかと思われる。ポゼッションを志向し、低い位置からの丁寧なビルドアップが必要とされる専修大学では、センターバックには守備力だけではなく、足元の技術と好配球も求められる重要な要素だった。
「自分がリーダーだと思ってプレーしようと考え始めたのが2年の時でした」
センターバックにコンバートされ、リーダーとしての自覚に芽生えた渡部は、専修大の主力として活躍し、2007年、関東大学リーグ1部への昇格に貢献した。このシーズンを通じて自らのプレーに自信を深めると、『大学サッカー界屈指のセンターバック』との呼び声が高くなった。こうなるとJクラブのスカウトたちが放っておくはずもない。レイソルから特別指定の話が舞い込んだのは、ちょうどその頃だった。
「特別指定の話を貰った時に、これはもう『プロになるしかない』と思い、練習に参加したんです」
特別指定の期間、面倒を見てもらった大谷秀和からはスパイクを貰った。加藤慎也とは気軽に食事に行く間柄になった。レイソルというチームの雰囲気の良さを感じ取り、そして何より渡部自身がクラブから高い評価を得た。大学を中退すれば、今すぐにプロサッカー選手としての道を歩むこともできた。
「それを親に相談したら反対されました(笑)。『大学は卒業しなさい』と。その時はすぐにプロになりたいという気持ちはありましたけど、今になって思えば、先走らずに卒業しておいてよかったと思います」
他のクラブからのオファーも受けたが、「レイソルしか考えてなかった」と話す渡部。特別指定の翌2009年には、7月という早い時期に契約を交わし、2010年からの新加入が決まった。
ただし、近藤直也、古賀正紘、パク・ドンヒョク、小林祐三という厚い層を誇るDF陣とのポジション争いを前に、気後れや不安はなかったのか。
「加入して、もちろん試合に出られない苦しい時期もありました。『自分は何で出られないんだろう?』って。じゃあ『出ている選手は何で出ているんだろう?』ということになりますよね。それは出るだけの理由があるからで、見方を変えると、それは『すごい良い見本が自分の目の前にいる』って思い始めたんです」
落ち着いた口調でそう話す渡部は、続いて当時のDF陣の長所を語り始めた。
「祐三君はステップがうまいし、危機察知能力が高い。古賀さんは存在感があって、一緒に組むと安心できる。前に出ても強いし、ヘディングで弾き返してくれる。ヒョン(パク・ドンヒョク)は途中から来て、いきなりレギュラーに君臨した。他の人にはない王様的なところがありますよね。ヒョンの言うことは絶対だし(笑)。ドゥーさん(近藤)はDFに必要なものを全て兼ね備えているし、ユース時代からレイソル一筋。口には出さないけど、相当レイソル愛を持っているんだろうなって思います。そういう選手たちの良いところを吸収してやろうと思いました」
このルーキーイヤー、なかなか出番は回ってこなかったが、彼の言葉にもある通り、先輩たちの長所を間近で見ては学び、直向きに練習に取り組んでいた。
デビューの機会が巡ってきたのは2010年J2第35節、鳥栖戦。出場停止の近藤に代わり、パク・ドンヒョクとセンターバックを組むことになった。3日前に天皇杯4回戦G大阪戦を戦い、大阪から鳥栖へ移動した上に、試合当日はスタジアムへ向かう道のりで大渋滞に巻き込まれるなど忙しない状況だった。そのため、「バタバタしていて、あまり緊張はなかったんですよね(笑)」と心境を振り返った。
ただ、試合前のアップ中にサポーターから『渡部コール』が起こった時にはざわざわと鳥肌が立ったという。すでに試合2日前にネルシーニョ監督から起用する意向を告げられていたが、その時には実感が沸かず、このサポーターの大コールでようやくスタメン出場を実感した。
気持ち的にはほどよい緊張感と余裕を抱き、事前にイメージした通りに試合にも入れた。鳥栖のストライカー豊田陽平を見事に抑え、合格点のデビュー戦だ。だが、渡部は「あっという間に終わった感じで、あまりよく覚えてないんです」と苦笑する。
プロデビューを果たし、これからという時、渡部は栃木からレンタル移籍の打診を受けた。当初はこのオファーを断り、レイソルでJ1を戦うつもりでいたが、現在の自分が置かれている立場を熟考し、悩み抜いた末に出したのは「栃木で試合に出て、成長してレイソルに帰る」という結論だった。
「親に話したら、また反対されました(笑)。J1に昇格したし、ヘッドコーチには井原(正巳)さんという偉大なDFがいる。『これほど良い環境はないじゃないか』と言われたんです。でも、『成長するために栃木に行く。絶対に成長してレイソルに帰る』と伝えました」
栃木へのレンタル移籍は、渡部が栃木の強化部から高い評価を受け、その結果成立したものだった。しかし見方を変えれば、それは現場で指揮を執る松田浩監督から熱望されたわけではないため、出場機会を勝ち取るには監督の信頼を得る必要があった。事実、加入直後の練習において、渡部は主力組ではなく、サブ組に組み込まれていた。
「1、2月が勝負だと思い、怒涛のアピールをしまくりました」
渡部は自分自身の"ある癖"を把握していた。高校時代も、大学時代も、リーダーとして自覚を持った時にパフォーマンスが上がり、選手として成長してきたということだ。
「栃木に入ってすぐ、年齢なんて関係なく、『自分が中心だ』と思ってプレーをしました。自分は大声を出して、後ろから指示ができる選手だと思っているんで」
こうした怒涛のアピールが状況を好転させる。開幕直前に行われた練習試合で、松田監督は渡部をサブではなく、スタメンに起用したのだ。ただ、まだ監督の信頼を完全に得たわけではない。開幕スタメンを手にするには「ここが勝負だ」と感じ、その練習試合では守備面だけではなく、セットプレー時にはゴール前へ駆け上がり、得点を決める存在感を見せつけた。
2011年3月6日、ザスパ草津との開幕戦、スタメンには背番号23を背負った渡部の名前があった。開幕戦の勝利以降、震災による中断期間を挟み、第8節カターレ富山戦、第9節京都サンガ戦と3連勝を飾った。その3試合で喫した失点は2。堅守の中心として活躍した渡部は、続く第10節ファジアーノ岡山戦で、セットプレーからプロ初ゴールを叩き込んだ。
さらに渡部が言及するのは、試合に出場することによって得られる経験値の大きさである。
「栃木で試合に出てからは、『こういう状況の時はこうしよう』という"試合での悩み"が出てきました。それはレイソルでは試合に出ていなかったから、分からなかったことなんです。それで『試合経験って、こういうことなんだな』って思うようになりましたね。以前は自分の周りだけしか見えていなかったんですけど、試合に出続けていると、FWの動き出しまで見えてくるようになるんです。それで自分も駆け引きができるようになりましたし」
2011年のJ2では、トータル33試合に出場、3ゴールをマークした。1シーズンを通じ、主力の座を守り続けたことでプレーの幅も広がり、そして何より「自信がついた」と振り返った。
こうした成長にネルシーニョ監督が気付かないはずがない。レンタル移籍後も渡部のプレーひとつひとつに目を光らせ、常にチェックしていたというネルシーニョ監督は、2011年シーズンが佳境に入った頃、その著しい成長を感じ取り、レイソルの強化部にこう伝えたという。
「ぜひナベを呼び戻してほしい」
こうなると俄然注目されるのが渡部の去就である。レンタル移籍に出た選手が、移籍先で主力の座を射止め、そのまま完全移籍になるケースはサッカー界では珍しいことではない。だが、渡部は志を貫いた。
「栃木で成長して、必ずレイソルに戻る」
1年前、親に誓った言葉である。そして大きく成長を遂げた今ならば、レイソルの力になれるという自負もあった。2012年、再びレイソルに戻った渡部には、近藤直也、増嶋竜也、新加入の那須大亮との熾烈なポジション争いが待ち受けていた。
「もう1年前のナベではない。もはや彼は主力の1人だ」
ネルシーニョ監督をして、そう言わしめる渡部の立場は、2010年とは大きく異なっていた。
プロ3年目となった2012年シーズンは、過去2年のプロキャリアとは大きく異なっていた。J1とACLという高いレベルを体感し、自信、手応え、課題など、これまでは知り得なかった多くのものと直面したという。
しかも「僕が試合に出る時は、いつも強烈なアタッカーがいる時なんですよね」と苦笑いを浮かべる通り、ACLではムリキ、クレオ、コンカ、ガオリンという強力攻撃陣を擁する広州恒大戦、オハンザ、アチェアンポンの快速FWが躍動するブリーラム戦、この2試合でスタメン出場を果たした。
Jリーグでも第10節の広島戦では佐藤寿人とマッチアップし、第21節のFC東京戦では石川直宏対策として本職ではない左サイドバックに起用されている。
「レイソルでレギュラーになり、日本代表選手になる。それが僕の目標なんです。もちろん先を見据えてはいるけど、それまでにやらなければいけないことがたくさんあると、J1やACLの試合に出場して感じました。そういう意味では収穫の多い年だったと思う」
出場機会自体は決して多いわけではなかったが、成長するために自分は何をやるべきか、それを理解していたからこそ、気持ちを切らすことなく日々の練習に取り組んでいた。
2012年シーズン、リーグ戦で渡部の最後の出場となった試合が、第31節のG大阪戦だった。後半14分、途中出場で渡部を送り込んだネルシーニョ監督の意図は「守備の安定を求めた」というものだったが、試合終了間際にG大阪FWレアンドロの突破を許し、リードを守り切ることができなかった。監督の期待に応えられず、渡部としても悔しさが募ったことだろう。
しかし今になって思えば、あの時の悔しさがあったからこそ、元日の国立のピッチで披露した圧巻のパフォーマンスに繋がるのではないかとも思えてくる。天皇杯準決勝、横浜FM戦で負った近藤の怪我によって、決勝戦のスタメン出場を知らされたのは試合2日前のこと。その時の渡部の言葉には強い思いが込められていた。
「レアンドロには前を向かせない。背負っていたら、ボールに触らせる前にガツンと当たりにいきます」
決勝戦のファーストプレーでは、上記した言葉を体現するかのようにレアンドロへの強烈なチャージを見せ、相手の攻撃の起点を潰した。これで気持ちが乗ったのか、その後もG大阪攻撃陣を封じ、バイタルエリアではまさに壁のごとく立ちはだかった。試合終盤、放り込まれるパワープレーのロングボールをことごとく弾き返し続ける姿には、頼もしさすら感じられた。
「ハイボールはACLでもJ1でも通用したところ。今までも自信を持っていたけど、それがさらに自信になった」
自らの"ストロングポイント"として謳っていた制空権争いの強さ。それは相手の攻撃を封鎖しただけでなく、前半35分にはCKから強烈なヘッドを叩き込んで、レイソルを37年ぶりとなる天皇杯優勝に導いた。
ネルシーニョ監督が「ポテンシャルの高さを証明してくれた」と称賛したように、決勝戦での渡部のプレーはマン・オブ・ザ・マッチ級の働きだ。もちろん、シーズン中には試合に出られない苦しい時期を味わい、辛い時もあったはず。それでも渡部は志を貫き、努力することを止めなかった。元日決勝の大活躍は、そんな渡部の貫く志と、たゆまぬ努力の産物である。
1つの勝利がキッカケとなり、選手が実力を大きく伸ばすことは、スポーツ界では往々にして見られるケースである。天皇杯決勝の勝利を機に渡部が大躍進を遂げたとしても、何ら不思議はない。
来たる2013年シーズンも、渡部はこれまで通り志を貫くだろう。着実にフットボーラーとして凄みを増す若きDFは、天皇杯決勝で味わった歓喜を糧に、さらなる飛躍を遂げるに違いない。
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