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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

那須大亮

彗星のように現れた大学生Jリーガー
マリノスで岡田武史監督からの薫陶を受けてJリーグ屈指のディフェンシブプレーヤーに成長した その後も数々のクラブで主力として活躍してきたベテランがあくなき向上心を燃やし続け、このレイソルを新天地に選んだ決意とは

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 18

Chapter01:日の当たらない道から

 "2012年の補強の目玉"。那須大亮には、必ずそのフレーズが付いて回る。
これまで手薄とされてきた守備陣の補強という意味合いだけではなく、プロ生活10年のキャリアで刻んだJ1出場回数は251試合にも及ぶ。その圧倒的な経験値に加え、今年レイソルが挑む"連覇"に関しても、すでに横浜F・マリノスでプレーしていた2003、2004年に経験済みという頼もしきプレーヤーである。
だが、今でこそ"補強の目玉"と称され、高い経験値と抜群の存在感を兼備した名手と扱われるが、プロ加入以前は、その肩書きとはまるで似つかわない道のりを歩んできた。
那須は横浜で生まれ育った。外で遊ぶことを好む活発な少年は、普段から友達と野球やサッカーといったスポーツをして遊ぶ日々に明け暮れていた。
本格的にサッカークラブに所属するのは小学校に入ってからだった。野球チームに入るという選択肢も存在していたが、そこでサッカーに傾倒した理由をこう語っている。
「単純にサッカーの方がプレーする機会が多いことが理由ですね。それに近所に住んでいた年上の人たちと、日頃からよくサッカーをして遊んでいたんです。そういうのもあって、サッカーを選びました」
 横浜市のサッカークラブ『3BFC』に始まり、その後引っ越した鹿児島でも『枕崎スポーツ少年団』に加入し、サッカーを続けた。ただし、当時の那須がプレーしていた枕崎スポーツ少年団も、枕崎中学も全国的に見れば強豪ではなく、那須によると「県大会に出場できれば良い方」というチームだった。

Chapter02:名門・鹿実で花開く

 小中学時代はFWやMFを務め、チームのエースとして鳴らし、高校や大学、あるいはプロに進んでからDFへ転身する者が多い中、那須はその点の経歴も異なっていた。「FWをやりたかったけど、上には上がいるので断念しました」と笑みを見せるように、攻撃的なポジションの経験はほとんどなく、昔からセンターバックを任されていた。他のポジションといえば、小学生時代にGKを少々やったことがある程度だった。
また、那須は小中時代を通じて、鹿児島県選抜に選ばれた経験はなかった。本人曰く「無名の存在」である。ただし、中学時代のチームメイトで県選抜に入っていた選手を、鹿児島実業のスカウトが視察に訪れており、長身で身体能力の高い那須は、中学生の中ではひと際目立っていたのだろう。そこでスカウトの目を引き、声をかけられたという。
そして何より、那須が中時代にお世話になった枕崎中出身の大先輩の存在が大きかった。その先輩は中学を卒業後、鹿児島実業を経て、東京ガスへ加入し、ブラジル留学の経験もあった。自分にとっては雲の上の存在である先輩と一緒に練習することによって、次第に那須の中に「鹿実へ進学して、サッカーやりたい」という気持ちが芽生え始めた。
1997年、那須が進学した鹿児島実業では、2学年上にはすでに高校年代では名を馳せていた遠藤保仁(現ガンバ大阪)がおり、同じ新入生にも入学当初から"天才"と誉れ高き松井大輔(現グルノーブル)がいた。県選抜すら経験のない立場なら、普通は委縮し、腰が引けてしまうところである。だが、練習を通して那須が感じたことは「引け目」や「畏れ」ではなかった。
「意外とできるもんだな」
 エリートが揃う名門校のサッカー部で、早くも手応えを掴んでいた。

Chapter03:鹿実から全国区へ

 那須が頭角を現すのに、さほど時間はかからなかった。1年生にして冬の全国高校選手権のエントリーメンバーに選ばれ、2年になるとセンターバックのレギュラーに定着した。周囲にいた中学県選抜経験者を差し置いての急成長には、那須自身も「ちょっと自分でも驚きました」と語る。
 高3時には同期の松井大輔、1学年後輩の田原豊(現横浜FC)、上本大海(現仙台)らとともに高校選手権を勝ち進み、決勝戦で永井俊太(現スクールコーチ)と中澤聡太(現G大阪)を擁する市立船橋に敗れはしたものの、準優勝という結果を残した。
 選手権で活躍したことによって日本高校選抜、さらにはU-19日本代表の選出を受け、那須の知名度は広く知れ渡った。
「U-19の代表で、同世代のレベルの高い選手たちと一緒にプレーして、そこで『プロへ行きたい』という気持ちが強くなりました。でも大学では結果を残していなかったので、何かタイトルを取って、次のステップに上がりたいと考えていたんです」
 進学した駒澤大学でも中核としてプレーしていた那須が、プロのスカウトの目に留まるのは必然の流れである。
 大学2年の全日本大学選手権で優勝を成し遂げ、欲していた"結果"を手にした時、那須を取り巻く環境に大きな変化が訪れた。横浜F・マリノスのスカウトから「うちに来てほしい」と声を掛けられた。特別指定選手としてではなく、現役大学生がプロとしてのオファーを受けることは異例中の異例だった。
「大学との関係がクリアにならないと入れないので、多くの人たちに協力していただきました。そのおかげで大学在学中にマリノスに入ることができました」

Chapter04:マリノスでの転機

 2002年、現役大学生Jリーガーが誕生した。だが、1年目はほとんど戦力にはなれず、公式戦はリーグとカップ戦を含めてわずかに4試合のみの出場にとどまった。当時の横浜FMのセンターバックには松田直樹、中澤佑二がいたため、ルーキーが出場機会を得られないのは致し方ない部分もあっただろう。
 そんな那須に運命的な出会いが待ち受けていた。2003年、横浜FMの新監督に元日本代表監督の岡田武史氏が就任したのだ。岡田監督は那須のディフェンス力に目を付け、大きな決断を下した。
「キャンプの時に、岡田さんから『ボランチをやってみろ』と言われて、そこからチョコチョコとボランチをやるようになりました。ボランチの経験なんてそれまでゼロだったんですけどね(苦笑)」
 今までは背負ってボールを受ける経験がなかっただけに、ボランチでのプレーには戸惑う面も多かったが、岡田監督からの指示は明確だった。あれこれ細かい要求を受けることはなく、シンプルに「中盤で潰せ」のみだったため、那須は自分の守備能力を中盤で生かせば良いだけだった。
「あの頃のマリノスには錚々たるメンバーが揃っていたので、僕は奪って預ければいいだけでした。試合をやりながらボランチを覚えていく感じでした」
 結果的にこのコンバートは大成功となる。03年、横浜FMは1stステージ、2ndステージの両方で優勝し、年間王者に輝いた。那須自身も主力としてリーグ戦29試合に出場。同年の新人王を獲得した。

Chapter05:どんなポジションでも

 横浜FMのチーム事情によるボランチへのコンバートであったが、今になって思えば、那須の選手としての幅を大きく広げるターニングポイントであったと言える。
もともとユーティリティー性の高い選手だったのか。そう問い掛けると、那須は考える間もなく「いえ、若い頃はそんな感じはなかったです」と答えた。
「それまでは、ほとんどセンターバックしかやったことなかったんです。でも当時のマリノスには素晴らしい選手が大勢いたので、そういう人たちのプレーを学びながらボランチをやった経験が、今のユーティリティー性にもつながったんだと思います」
 その後プレーした東京V、磐田、そして現在のレイソルでも、本職のセンターバックはもちろん、その他のポジションでも那須は質の高いプレーを見せている。
例えばACLグループリーグ第6戦・全北現代戦では、急遽左サイドバックでの出場が決まり、試合後には「ぶっつけ本番みたいな感じでした」とその起用の背景を語るも、「連携面は特に問題はなかったです」と振り返ったように、左サイドで披露したジョルジ・ワグネルとのコンビネーション、そして全北のキーマンであるエニーニョに何もさせなかった守備力は、那須の能力の高さとプレーの幅の広さを改めて知らしめる結果となった。

Chapter06:五輪で世界の舞台へ

 また、2004年は那須にとって、Jリーグ連覇を果たしたと同時に、もうひとつ忘れられぬシーズンでもあった。U-23日本代表としてアテネ五輪に出場し、海外との対峙があった。
「当時のマリノスでレギュラーを務めていたのは自信にもなったので、五輪世代に呼ばれても監督にアピールすることができました」
 UAEラウンドは過酷を極め、日本ラウンドではバーレーンのまさかの敗戦を喫するなど「アジアですら勝ち抜くのは難しかった」と、那須は当時を回顧した。
 チームメイトには阿部勇樹(当時ジェフ市原)、今野泰幸(当時FC東京)、オーバーエイジの小野伸二(当時フェイエノールト)ら、リーダーシップを持った選手がいたにもかかわらず、U-23日本代表のキャプテンを務めたことは、那須のずば抜けたキャプテンシーと、山本昌邦監督からの揺るぎない信頼の表れだろう。
 アテネ五輪本戦では、日本はイタリア、パラグアイ、ガーナといった強豪と同じグループに組み込まれた。
「世界はすごいという思いと、もっとこういう選手とやってみたいという気持ちがありました。印象深かったのはイタリアのジラルディーノとピルロですね。ジラルディーノの旬のストライカーでしたし、ピルロは視野が広く、時間を作れてすごいパスを出していましたから」
 パラグアイには3-4、イタリアには2-3、ガーナには0-1と、全てが1点差ゲームでの敗戦だった。一見惜敗に思えるが、いずれの試合でも那須は世界のレベルの高さを痛感したという。
「世界レベルの選手と対戦しても、自分のストロングポイントを出せるような選手ならなないといけない」
日本は3連敗で大会から姿を消すことになった。それでも世界レベルを体感した貴重な経験は、那須の向上心にさらなる拍車をかけることになる。

Chapter07:新天地での挑戦

 サッカー選手には様々なタイプがある。ひとつのクラブに長く在籍しながら、そのクラブの象徴になることで自身の力を大きく伸ばして大成していく者もいれば、環境を変え、新たなクラブに身を投じることで、そこで受ける大きな刺激を糧に成長していく者もいる。そして、那須は後者にあたる。
横浜FM在籍時の那須には「センターバックで勝負がしたい」という想いがあった。中澤佑二、松田直樹という実力者が君臨しているため、センターバックとしての出場は叶わなかったが、レギュラーのボランチの座を手にしており、さらにいずれは中澤と松田の後任のセンターバックと目されていたため、長期的に見てもレギュラーポジションを確約されていたのかもしれない。
だが、それでは飽き足らない那須のチャレンジ精神は刺激を求めた。08年、那須は6年間在籍した横浜FMを離れ、東京Vへ新天地を求めるのである。
「ポジティブな移籍でした。必要とされているチームに行くのは選手としても重要なことですから」
 那須は何食わぬ顔でそう振り返るが、横浜FMは03年、04年とJリーグを連覇し、ACLにも出場したチーム。那須自身、周囲の信頼を得ている環境から、J1へ昇格した東京Vへ移籍することは、紛れもなく大きなチャレンジであった。
 東京Vでは、フルシーズンに渡りセンターバックでプレーをし、主力として活躍した。残念ながら、J2の降格の憂き目を見たものの、那須は当時の磐田の指揮を執っていた柳下正明監督(現新潟監督)の強い希望により、09年からは磐田を新天地に選ぶ。

Chapter08:磐田での濃密な3年間

 この磐田移籍も大きな転機となった。なぜならば、磐田移籍当初もセンターバックに強いこだわりがあり、自分の主戦場で勝負するという気持ちを抱いていたのだが、那須に全幅の信頼を置いていた柳下監督の下でプレーを続けていくと、次第に那須の心境に変化が表れたのだ。
「柳下さんには『ボランチで潰してほしい。起点になってほしい』、『サイドバックの時はこうしてほしい』という意図があり、そういう話し合いもしたので、その期待に応えたいという気持ちが大きくなりました」
 横浜FM時代に、岡田武史監督によって見出されたユーティリティー性を、磐田の地でさらに磨きをかけた。センターバック、ボランチ、左右サイドバック......。試合ごとにポジションを替えながらも、磐田に在籍した3年間でリーグ戦100試合に出場。09年は全試合に出場し、10年と11年の欠場は、それぞれ出場停止による1試合ずつのみだった。
4つのポジションをこなしつつ、主軸としてこれだけの試合に出場できるのは、那須の能力の高さの証明である。レイソルが磐田に一蹴された昨シーズンの2試合を振り返ってみても、那須は日立台のゲームではボランチを務め、ヤマハスタジアムでは左サイドバックでレイソル自慢の右サイドアタックを封鎖している。
 そのまま磐田に残れば、おそらくレギュラーの座は安泰だっただろう。しかし、さらなる刺激を欲し、選手としての成長を望んだ那須の胸の内に浮かび上がったのは「移籍」の二文字だった。

Chapter09:キャプテンの重圧

 那須は磐田時代にキャプテンを務めていた。彼の責任感、人間性、メンタルの強さを考えれば、それは妥当とも思える人選である。しかし実は意外なことに、学生時代にキャプテンを務めた経験は全くない。
「若い頃はキャプテンをやると、その"キャプテン"という気持ちが強すぎてしまい、うまく自分の中で気持ちを消化できないところがありました」
 元来から責任感が強く、試合では常に声を出してチームメイトを引っ張り、闘志を燃やしてピッチに立つゆえ、球際の激しいプレーも厭わない。だが腕章を託されると、感情をコントロールできない若い頃は逆に気持ちが高ぶりすぎてしまい、それが良い結果を生まなかった。アテネ五輪ではU-23日本代表のキャプテンを務めたが、当時も自分の感情をコントロールするのに苦労した。
「キャプテンだからチームを引っ張らないといけないとか、昔は重く考えていましたね。キャプテンって、本当はそういうものじゃないんです。自然体で自分らしさを出すだけでいい。でも若い頃はそれが分からなかったので、その時点でキャプテンは無理ですよね(笑)」
 したがって、東京V在籍時には服部年宏(現岐阜)の不在により臨時でゲームキャプテンを務めた経験こそあったものの、那須が正式にキャプテンに任命されるのは磐田移籍後のことだ。
「ゴンさん(中山雅史/現札幌)から『意気込みすぎなくていいんだよ。自分らしくやればいい。意気込みすぎると良いことないから』というアドバイスをいただきました。自分もキャリアを重ねて、だんだん気持ちにも余裕が出てきて、重く考えることがなくなってきたので、そこでキャプテンを引き受けました」
 左腕に腕章を巻き、ピッチでは気負うことなく普段通りにチームを鼓舞する。ようやく那須は名実ともに"勇将"という存在になった。

Chapter10:ピッチから劇場へ

 その勇ましき闘将も、ピッチを離れた姿は探究心の強い、礼儀正しい好青年に様変わりをする。
「感性で刺激を受けるものが、すごく好きなんですよ」
 そう丁寧な口調で、穏やかに話す那須が、オフ・ザ・ピッチで趣味としていることのひとつがミュージカル観賞だった。プロサッカー選手という職業に就くため、頻繁には行けないとしても、シーズンオフなどは公演とのタイミングが合えば鑑賞に赴くという。
「劇団四季の公演はよく行きます。『キャッツ』も良かったですし、『ライオンキング』も良かった。劇団四季はほとんど観ていると思います」
 ミュージカルを好むようになったキッカケは、数年前、劇団四季のスタッフと知り合いだという那須の友人がおり、その彼に誘われて行ってみたのが最初だった。そこで那須の感性は今までになかった刺激を受け、それ以来すっかりハマってしまったのだ。
「時間があるなら、そういう舞台公演とかに何度も行ってみたいんですよね。行けるのであれば、今一番行ってみたいのはブロードウェイに行ってミュージカルを観たいんです」
 その他にも、機会があればクラシックコンサートや芝居なども行きたいと話す。自分の知らない世界に足を踏み入れ、そこから新たな刺激を求めるところも、常に挑戦意欲を失わない那須らしい一面である。

Chapter11:常に高みへ

 2004年のアテネ五輪で世界レベルを体感して以来、那須は「いつか海外に挑戦したい」という気持ちを胸に秘めていた。実際に海の向こうへ渡るチャンスには恵まれなかったが、2011年のシーズン終盤に那須の元に届いたレイソルからのオファーは、彼の挑戦意欲を強く駆り立てるものとなった。
「ネルシーニョ監督がレベルの高い競争を促しているというのは磐田にいる時から聞いていたんです。オファーをいただいた時も、Jリーグの中で一番海外に近い環境でサッカーがやれるのはレイソルだと思いましたし、ネルシーニョ監督の下で自分をさらに高めたい、新たにチャレンジしたいという気持ちがありました」
 前向きに移籍を検討してく中で、大きな後押しとなったのが昨年12月のFIFAクラブワールドカップだった。モンテレイ、サントスといった世界の強豪クラブと国際大会で相まみえ、しかも対等に渡り合った姿を見た那須は、自分が抱いていた「海外挑戦」とレイソルの環境を重ね合わせ、想いは一気に黄色のユニフォームへと引き寄せられた。
「移籍すればまたゼロからのスタートで、監督の信頼も勝ち取らなければいけない。でもコマ(駒野友一/磐田)とか同世代の日本代表選手と比べ、自分には何が足りないのか。それを考えた時に、新しいチャレンジをしてもう一皮剥けて、さらに何かを掴み取らないといけないと思い、移籍を決断しました」
 そういったレイソル移籍の経緯を語る那須は、センターバックにこだわっていた過去の移籍と比較し、「今までの移籍とレイソルへの移籍は、だいぶ意味合いが違うんです」と付け加える。ポジションというこだわりなど一切関係なしに、1人のフットボーラーとして、純粋に成長を求めた上での選択だった。

Chapter12:レイソルからの道

 1月の始動当初、小見幸隆強化本部統括ダイレクターが「那須の第一ポジションはセンターバック。でも那須は左右のサイドバックもボランチもできる。こういう選手を獲れたのは本当に大きい」と語っていたように、那須は最終ラインの全ポジションをこなし、"移籍の目玉"として期待に違わぬ活躍を披露している。那須はレイソルで過ごす最初のシーズンをこう語る。
「日々、新たな発見があります。充実しているし、手を抜いていい練習も試合もないと、改めて感じていますね」
 日立台デビュー戦のACL全北現代戦では挨拶代わりの先制ヘッドで移籍後初ゴールを叩き出し、橋本和の欠場時には左サイドバックを務め、酒井宏樹のハノーバー移籍後は右サイドバックでプレーをする。1年目にしてすでに重要な戦力としての地位を築いた感のある那須。だが、本当の意味でこの勇将の力が必要となるのは、これからなのかもしれない。
昨シーズンは終盤戦に、「優勝経験のないレイソルは不利」と各マスコミから指摘され続けたが、今シーズンも「連覇の難しさ」を理由に"不利"のレッテルを貼られる可能性は否定できない。だがそういう時こそ、横浜FM時代に連覇の経験を持つ那須の存在が、ひと際輝くはずだ。
 いかなるときにも挑戦意欲を失わない勇将は、プレーヤーとしてだけではなく、遠くに見据える先の人生においても、そのスタンスを崩さない。
「コーチをやっていることも考えられますけど、できれば現場だけじゃなくて何か新しいことにチャレンジしてみたいですね。でも、何かしらサッカーには関わっているとは思います」
 この言葉を聞き、ふと脳裏をよぎったのが往年のドイツの名選手、フランツ・ベッケンバウアーだった。時には熱くチームを鼓舞しながら、常に冷静沈着にチームをまとめ上げた闘将は、現役引退後はドイツ代表監督として辣腕を振るい、その後バイエルン・ミュンヘン会長、2006年ワールドカップ組織委員会会長などを歴任した。
 聡明な指揮官としてJリーグのチームを率いるのか。強化担当としてクラブの強化に奔走するのか。それとも協会に入り、日本サッカーの未来のために尽力するのか。那須の人間性と度量の大きさ、そしてチャレンジ精神は、いずれのケースも考え得る選択肢だと思わせる。
 もっともその前に、レイソルの胸の星を増やすという重要な仕事をこなしてもらわなくてはならないが。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU: 「パエジャランチ」(チキンソテー、サラダ、パン、デザート、ドリンク)

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『スペイン食堂 ヨシムタ』

  • 柏市泉町17-26-101
  • TEL:04-7167-0139
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」東口徒歩15分
  • 営業時間:11:30~14:00、17:00~21:00(LO)※ランチの営業日は店舗にお問合せください
  • 定休日:日曜・祝日
  • COMENTS:当店のお薦めはパエジャで、スペインと同じやり方、味にしています。食材も取り寄せられるものはスペインから取り寄せてやっております。パエジャのコンクールでは1ヶ月ぐらい現地に滞在することがあり、その時に本場の味を研究して、日本人の口にも合うようにと研究を重ねています。アルコールにもこだわりを持っていまして、ワインはスペイン産、ビールはスペイン産と国産を置いてあります。
    サポーターの方々にもご利用いただくのですが、レイソルと海外の強豪チームの試合が観たいと夢のような話をしていたら、それが現実になって嬉しく思っています。日立台のアットホームな雰囲気が大好きです。ずっと応援していますので、これからも頑張ってください。

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