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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
菅野孝憲
「偶然じゃなく、必然なんです」
自分の周りに起こること、自分が起こしたこと、試合の結果...
すべての結果は自分の行動に起因帰結するという信念は揺るがない
だからこそ日本一の練習量をこなし常に完璧を求める
GKとして生き抜くために菅野孝憲が切り開いてきた我が道とは
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
2人の兄の影響により、物心つく頃にはすっかりサッカーの虜になっていた。GKというポジションとの出会いも、兄弟3人でのボール遊びが発端だった。
「兄弟3人でサッカーをすると、一番年下の僕が『お前、ゴールに入れ』と必ずGKをやらされて、兄たちのシュートを受けていました」
この言葉にもあるとおり、始めは兄たちのシュートを受けるために"やらされていた"だけだったのかもしれない。しかし、"やらされている"という感覚は、次第に"楽しさ"へと変化していった。もちろん、GKについて専門的なことは一切分からなかったが、それでも「手を使ってシュートを止める」という特異性に、いつの間にか惹きつけられていた。それが菅野孝憲というGK誕生のルーツである。
菅野が本格的にGKになるのは小学4年生からである。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のジュニアチームのセレクションを、GKとして受けたのだ。
それまで地元のクラブチーム、『きたはらサッカークラブ』ではフィールドプレーヤーを務め、チームの中心選手だった菅野。ヴェルディのセレクションを受ける際に、フィールドプレーヤーではなくGKを選択した理由は2つあるという。
「昔から泥んこになるのが好きだったんです。外で遊ぶのが好きで、雨が降ってドロドロになってもサッカーをやっていましたから」
雨が降ってぬかるんだグラウンドに、わざとスライディングし、転がり、衣服を汚していた少年時代を「親に迷惑を掛けた」と苦笑いをしながら振り返る。つまりセービングの度にユニフォームを汚し、そこに楽しさを感じていた点がひとつ。
「それに目立ちたがり屋だったんです。GKは1人だけ違うユニフォームを着て、グローブをつけられる。それが格好良いなと思っていました」
当時、菅野は少年野球チームにも入っており、キャッチャーを務めていた。そこにも「他の人と違って防具をつけているのが格好良い」という理由があった。
強いシュートが飛んでくる、あるいは相手選手と交錯する可能性があるプレーに対しても、一度も「怖い」と感じたことはなかった。「ボールが顔面に当たっても死ぬわけではないですから」との持論を何食わぬ表情で語る。さらに、フィールドプレーヤーがゴールを奪い、そこに喜びを感じるように、菅野はシュートを止め、ゴールを守ることに醍醐味を抱いた。
その一方で、菅野はヴェルディジュニアとジュニアユース時代には、GKとは別にフィールド用のユニフォームを作ってもらい、時にFWとして出場しては、ゴールを試合もあったようだ。その実力は「なかなかのものだったんですよ」と自画自賛するほど。現在、プロのステージで見せる精度の高いフィードキックや、ビルドアップの意識などは、おそらくその頃に養ったフィールドプレーヤーの経験が大きく影響しているのだろう。
菅野は中3時に、ヴェルディジュニアユースで世界大会であるナイキカップに出場している。スペインのバルセロナで開催されたその大会。準々決勝はカンプ・ノウで行われ、バルセロナのジュニアユースと対戦した。菅野は対戦相手のエースで、同世代にして、"グアルディオラ2世"と呼ばれていたアンドレ・イニエスタのプレーに衝撃を受けた。
「3対2で負けました。1点差でしたけど内容は完敗でしたね。イニエスタは大会MVPで得点王に輝いた。だから去年12月のクラブワールドカップでは、イニエスタとまた対戦したかったんですよ」
すでに中学生時代に、世界にはとんでもない実力を持った選手がいると思い知らされた。こうした経験が、菅野に大きく燃え上がる向上心の炎を放っていった。
「今考えると、生意気な考えだったかもしれないですけど、子供の頃からプロサッカー選手には当然なるものだと思っていました」
常にレベルの高いステージを目指していた菅野にとって、プロサッカー選手は"夢"の職業ではなかった。いつか必ず世界で戦う。そして世界で戦うならば、プロサッカー選手になって当たり前という考えがあった。
そんな高い志を抱くからこそ努力を積み重ねた。努力を怠らなかったからこそプロでやっていく自信もあった。
だが、高校3年の時、「ヴェルディのトップチームに昇格できない」という現実を突きつけられる。この時に駆られたのは、失望よりも、これまで支えてくれた親に対して申し訳ない気持ち。神妙な面持ちで、菅野は母親に謝罪したという。
「母親に『ごめん。プロになれなかった』と言ったんです。泣き出すのかなと思ったら、『あ、そう。じゃあプロになりたいなら次の可能性を探すしかないんじゃない』とあっさり言われて。なんだ、この親と思いましたね(笑)。改めて、この親すげぇなと感じました」
この母親の一言で菅野も考えを切り替えることができ、別の可能性を模索した。そしてJ2加入2年目の横浜FCのセレクションを受けるに至った。
クラブハウスをはじめ、あらゆる施設が充実していた東京ヴェルディとは異なり、横浜FCは専用のグラウンドもなく、練習場を転々とし、コイン式のシャワーを使用しなければならなかった。この環境に唖然とした。
「横浜FCからも来てくれという話をいただきました。でも僕は仙台のセレクションも受けていて、合格する自信もあったので、横浜FCに入ることはないだろうと思っていました」
ところが仙台のセレクションから数日後、菅野に伝えられた結果は「不合格」の一報である。決して他の選手と比べ、自分が劣っているとは思わなかった。むしろ周囲よりも良いパフォーマンスを発揮できたと自負していただけに、この決定にはどうしても納得がいかなかった。
さすがの菅野も、この現実を受け入れるには少々の時間が必要だった。気持ちを奮い立たせ、横浜FCへの入団を決めるのだが、その時にルーキーとは思えない、突拍子もない発言で横浜FCのチームメイトを驚かせた。
「半年以内にレギュラーを取れなかったら、僕は辞めます」
当然、先輩選手たちからは「生意気なガキ」という扱いを受けた。後に懇意の仲になる内田智也からは「なんて生意気な奴だと思った」と、今では冗談のネタにもされる。だが、世界を目指していた菅野にとってみれば、その発言は生意気や強がりというよりは、「世界を目指すなら、すぐにレギュラーを取れるぐらいの選手でなくてはならない」という強い信念の表れでもあった。
「でも入ってみて『あれ?違うな』と感じました。スピードも速い。みんな巧い。シュートも取れない。開幕戦には出られず、『やっぱりプロはレベルが高い』と痛感しました」
いくら自分で良いプレーをしたと思っていても、それは結局"自己評価"に過ぎない。他人の自分への評価とはギャップが存在している。そしてプロの世界で大切なのは、周囲が自分をどのように評価しているのか。
「それに気づけたことが、僕がヴェルディに落ちて最もよかったことです。人に認められなければ何も意味はない。それが評価なんです」
そこから発想を変えた。例え恵まれていない環境下でも、全て自分の実力向上のためのプラス材料だと前向きに捉えた。練習場を転々とするなら、それは対戦相手ごとに試合会場が変わるシミュレーションにもなる。クラブハウスもなく、簡易式のシャワーしかないのならば、その中で自分をベストのコンディションに持っていく方法を考えた。
高いレベルを目指す向上心に変わりはない。ただ、与えられた環境で自分を磨き抜く大切さを悟った18歳の若者は、この時に単なる"生意気なガキ"から"有望な若手"へと変貌を遂げた。頭角を現した菅野は、当時の指揮官、リトバルスキー監督に抜擢され、半年以内にレギュラーの座を勝ち取った。
2004年7月10日。三ツ沢公園球技場(現ニッパツ三ツ沢球技場)でのサガン鳥栖戦で、菅野はGKとしてはJリーグ史上3人目となるゴールを挙げている。
自陣の深い位置のFK。菅野の蹴ったハイボールが鳥栖のゴール前へと飛び、ワンバウンドしたボールは相手GKの頭上を越えてそのままゴールへ吸い込まれたのだ。
「GKのゴールってなかなかあるもんじゃないんで、やっぱり嬉しかったですよね。キックが本当によく飛んだんです。あの日は雨で、そんなに風は無かったんですけど、三ツ沢はちょっと高地にある分、上空で伸びたのかもしれません」
だが、この「ゴールを記録した」ことよりも、菅野にとってはその後のエピソードの方が重要だった。
試合後には報道陣に囲まれ、ゴールの感想を問われた菅野は「ハットトリックも狙えたのでは?」という記者から問い掛けに、リップサービスの意を込めて「そうですね。狙えましたね」と答えた。ところが、そんな菅野の態度に対し、横浜FCのGKコーチを務める田北雄気はこう諭したという。
「お前もGKなら相手の気持ちが分かるだろう。そんなリップサービスなんて必要ない。相手のGKをリスペクトしろ」
田北は菅野が師と仰ぎ、心服の念を寄せる人物である。技術的な指導だけでなく、GKとはいかなる存在でなければならないか、どうあるべきかを田北から学び、その教えを基に菅野はプロの世界を生き抜いていくベースを作り上げた。菅野がよく口にする「GKはチームの中でリーダーでなければならない」という持論も、田北の教えだ。
菅野は、ゴールを記録した喜びのあまり、つい口から出た軽はずみな発言を猛省した。この件以来、相手選手には必ずリスペクトの念を抱き、田北の教え通り発言ひとつにも責任を持つことを心掛けた。
「いろんな素晴らしいコーチに出会いましたけど、田北さんの教えというのは、自分の中では基盤になっています」
菅野の名を全国に知らしめたのは、2004年のゴールではなく、むしろ2006年に打ち立てた記録ではなかろうか。06年J2第10節のヴィッセル神戸戦から第19節の水戸ホーリーホック戦まで、770分間もゴールを割られることなく、連続無失点の大記録を樹立した。
当時、横浜FCと同じJ2を戦っていたレイソルは、この記録の間の対戦こそなかったが、4度の対戦ではいずれも横浜FCの堅い守備に苦しみ、1勝2敗1分けと負け越している。
「守備から入る高木(琢也監督/当時)さんのやり方がうまくいったというのがありますが、チームが団結していたから生まれた記録だったと思います。小さなロッカールームで、みんなが肩をぶつけ合いながら着替えたりしていく中で、『こいつのために頑張ろう』という信頼感が選手同士に芽生えていきました」
菅野はそう言って、無失点記録はGK1人の力ではなく、全選手の団結の証であることを強調した。
また、三浦知良をはじめ、山口素弘、城彰二ら、経験豊富な選手の存在も大きかったという。重要なポイントで掛ける彼らの一声がチームを落ち着かせ、時には鼓舞し、チームを束ねていく。その様を、まだ若手の1人に過ぎなかった菅野は目の当たりにした。
2008年、菅野はレイソルに新天地を求める。実はその1年前にもレイソルからのオファーを受けたことを明かした。
「自分の育ったチームでJ1を戦う方を選びました。だから、もうレイソルからのオファーは貰えないだろうなと思っていたんです」
ところが翌年、多くのチームから移籍のオファーを貰い受ける中に、またレイソルの名前があった。2年連続で自分を高く評価してくれたクラブ。また、横浜FCの選手として対戦した時には脅威に感じたあのサポーターが、今度は自分を後押ししてくれる。菅野は「移籍するなら柏しかない」と、レイソルへの移籍を決意した。
しかし08年当時、レイソルには南雄太(現ロアッソ熊本)という不動のGKがプレーしていた。出場機会を求めて移籍するケースが目立つスポーツの世界にあって、あえて高い実力を持つGKがいるチームを選んだのか。その質問を投げ掛けると、菅野は落ち着いた口調でこう話した。
「競争はどこのチームに行ってもあります。それに成長のためには越えなければならない壁がある。だからこそ強い気持ちを持ってレイソルに来ました」
菅野と南の弟は、東京Vジュニアユースのチームメイトだった。そのため南とは古くから親交があり、南が静岡学園でプレーしていた頃には、県大会の試合を観戦に静岡まで足を運んだこともあった。中学生の菅野にとって、サッカー名門校で1年生から試合に出場する南は「憧れの存在」だった。
ただ、GKは1つしかないポジションであるがゆえ、他のポジション以上にライバル関係が強く、中には会話を交わさないどころか、目すら合わせない選手同士もいるという。菅野はそのスタイルを否定しない。むしろ「お互いプロなんだから、それもありだと思う」と肯定の意見を述べる。
だが南は、そういったタイプのGKではなかった。もともと知り合いだったとはいえ、菅野にしてみれば南は「友人の兄」であって、まだ気心が知れた間柄ではなかったのだが、菅野がレイソルへ移籍してきた時には、南から「分からないことがあったら何でも聞いてくれ」と気さくに声をかけられ、そして練習が終了すれば「一緒に飯を食おう」と誘われた。それはクラブハウス内での食事だけでなく、昼食や夕食を含め、外出先での食事も例外ではなかった。
ただし、一度ピッチに入れば、南は菅野へのライバル意識をむき出しにして、直向きに練習へと取り組む。ピッチ内外でのメリハリをつけた仲間との接し方を自然体でできる南に対し、菅野がGKとしてだけでなく、人としても尊敬の念を抱くのは必然の流れでもあった。
「雄太君は器の大きい人です。多分、自分に自信があるからなんでしょう。周りを認めながらも自分に自信を持つ。雄太君から受けた影響は大きくて、今でも僕が目標にしている選手なんです」
今では異なるチームでプレーする2人。だがプライベートでは連絡を取り合い、親交は続いている。
「僕にとって、雄太君は"兄貴"ですね」
菅野はそう言って、表情を緩めた。
新しいチームに来た以上、早く結果を残さなければいけない、そして早くレギュラーにならなければいけない。そういった感情が強すぎたのだろうか。菅野は練習中に足首を負傷し、はやる気持ちとは裏腹に開幕当初から出遅れた。
「怪我って、偶然じゃなくて必然だと思うんです。必要だから怪我をする。そして怪我を嘆いても仕方がない。その時にどれだけいろいろなことを考えられるかが大事なんです」
菅野がそう語る通り、感情をコントロールしながら治療に努め、一歩引いた立ち位置からサッカーについて思考を巡らした。
負傷の癒えた菅野に出場機会が回ってきたのは2008年5月3日。奇しくも24歳の誕生日、J1第10節、フクダ電子アリーナで行われたジェフ千葉戦である。
「実はスタメンと知ったのは直前なんです。ホテルからフクアリに向かうバスの中で、タニが携帯を見ていて、『スゲ、今日スタメンじゃん』と言われて初めて知ったんです(笑)」
その時は驚いた素振りも見せず、軽く頷くように返事をした。だが本音をこう話す。
「もちろん、いつ出てもいいように準備はしていますが、できれば前日に教えてほしいですよね」
さすがの菅野も、その経緯を語るのに苦笑いをせずにはいられない。おそらく、当時指揮していた石崎信弘監督(現コンサドーレ札幌監督)は、菅野か南か、直前までどちらを起用するか迷っていたのだろう。
リーグ戦であろうと練習試合であろうと、常に同じモチベーションを抱き、高い意識で臨む。菅野はそのスタンスを崩さないが、この新天地のデビュー戦はさすがに気持ちが昂った。怪我で出遅れた上に、ポジションを争うのが南という高い実力を持つGKである。「これが最初で最後のチャンス」と自らに銘打ち、フクダ電子アリーナのピッチに立った。
菅野が披露したプレーの数々は圧巻の一言だった。後半は千葉に押し込まれ、何度もピンチが訪れたが、その都度鋭い反応速度と状況判断の良さを生かして好セーブを連発。それまで2連敗中で、苦しい状況下にあったチームを救い、勝利に貢献した。
「珍しく、ハッピーな誕生日でした」
アウェイ側スタンドを埋めたレイソルのサポーターからは拍手で称えられた。ロッカールームに戻れば、誕生日と同時に移籍デビュー戦での好プレーに、チームメイトやスタッフから手荒い祝福を受けた。
後に"不動の守護神"の称号を手にする菅野が、レイソルの選手として第一歩を刻んだ瞬間でもあった。だが、勝利に酔いしれ、気持ちが舞い上がるどころか、菅野は極めて冷静だった。
「良いプレーができたのは偶然じゃなくて、日頃から準備をしていたからです。でも、まだ1試合に過ぎないし、これを続けないと評価はされない。だから、より気持ちが引き締まった感じがしました」
その言葉にもあるように、菅野は普段の練習だけではなく、あらゆる日常の物事をサッカーに結び付け、勝利を手にするために準備を怠ることは絶対にしない。それはチームメイトからは「ストイック」と評されるが、果たして菅野は日頃からどう物事を捉え、サッカーへと取り組んでいるのか。
周囲から「ストイック」と言われる自身のサッカー観について、口を開いた。
食事や睡眠を含め、日常生活を規則正しく送ることが、どれほどプレーに影響を及ぼすものなのか。それは東京Vの下部組織にいた頃には教えられ、持ち前の向上心の高さもあって、菅野は若い頃から己を高めるためには貪欲だった。そして、その意識がより高まったのは横浜FC時代だった。
「この自分が置かれた環境の中で、どこまで高められて、最大限の力を発揮できるようになれるのか」
プロの世界に身を投じたことが発端となった。しかも、そういう発想を抱いたタイミングで三浦知良、城彰二といった偉大な"プロフェッショナル"との邂逅があり、彼らから多大なる刺激を受け、多くの事柄を学んでいく。
レイソルの選手たちによれば、菅野のストイックぶりは相当のものだと伝えられている。それを菅野に訊ねると、彼は笑いながらこう切り返す。
「自分では、自分のことをストイックだなんて思ってないんです。決して苦しい思いをしているわけではありませんから。僕だって、1日に3度食事は食べますし(笑)。ただ、その日の練習量や内容によって、炭水化物の量やたんぱく質の量は計算して採ったりはします」
周囲から「ストイック」と言われることも、菅野からすれば、ストレスを溜めない生活を心掛けているに過ぎない。例えば不摂生な生活を送ることで体調が良くなり、プレーの切れが増すという選手がいるのならば、「それはそれでいいと思う」と言うが、菅野はプレーに支障が出てしまうため「でも僕の場合は、それがストレスになってしまうんです」と語る。
「スポーツに限らず、生きている中で大事なことは心にストレスを溜めないこと。サッカー選手である以前に、1人の人間でもあるわけですから。どれだけハッピーな人生を送れるか。そのハッピーの中心に、僕の場合はサッカーがあるんです」
この菅野の持論は、スポーツ界やアスリートでなくても、それぞれの世界で成功を望む者には通ずる考えであると思う。どの世界でも努力なくして成功はあり得ない。菅野は続ける。
「"今"というのは一生戻ってこない。"今"を大切にしなければ、自分の好きなことでも成功はしない。"今"を無駄にしたくはない。それは僕が昔から思っていることです」
"今"を大切にすることが、いずれ結果へ結び付く。そして"今"の積み重ねが"過程"となる。その過程の中で周到な準備と最大限の努力を積んだからこそ良い結果を得られるのであって、逆に結果を得られないのは準備が足りなかったから。それが菅野の「偶然じゃなくて、全てが必然なんです」という言葉に行き着く。
昨年、「J1優勝」という高い頂に到達できたのも、偶然ではなく必然だった。常に高いレベルを追い求め、勝利にこだわり、いかなる時でもその結果を手にするために過程を大切にしてきたからである。努力と高い意識を持たなければ、到底優勝を手にできはしないだろう。
優勝。この頂に達した時は、もちろん菅野も歓喜に酔いしれた。だが驚くほど早く、その思いからは醒めた。埼玉スタジアムのロッカールームに戻り、一息つくと歓喜の感情は「昇ってみれば、こんなもんか...」とすぐに落ち着き、「次の試合に向けて準備をしなければ」という気持ちへと切り替わった。
「2011年の優勝は、もう過去のことですから。今は2012年のチャンピオンになるためにやっています」
だが菅野にも、彼自身が指摘する課題がある。本来は身体と頭を休め、リフレッシュするべきはずのオフ。その間も、「休むと不安になる」と、ついトレーニングを行ってしまうという。休息もまた、アスリートにとって必要不可欠なことだと理解しているからこそ、菅野は「休むことが、僕の課題なんです」と自らを諌めるかのように付け加えた。
TODAY'S MENU:「うな重、鰻の白焼き、鰻の肝」
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