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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
桐畑和繁
饒舌なキャラクター、明るく陽気な性格で
絶えずチームを盛り上げる愛すべきムードメーカー
U-18からトップ昇格後はプロの壁に長くもがいてきたが
経験豊富なコーチや先輩にもまれ、少しずつ力を伸ばしてきた
地道な努力がついに実った5年目、これまでの思いを語る
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
桐畑和繁にとって、普段と何ら変わりない試合のはずだった。スタンドからの大歓声を浴びながら菅野孝憲とともにウォーミングアップをし、ベンチ入りメンバーに名を連ねた"サブGK"として万全の準備を進めていた。
むしろその日がプロ入り初スタメンとなった酒井宏樹に声を掛け、後輩が気分良くプレーできるように気を遣っていた。
キックオフからわずか2分。ベンチでテーピングを巻いていた桐畑は、奇声のごとく鳴り響いた笛の音に視線を引っ張られるかのようにゴール前へ目を向けた。菅野が相手選手と交錯し、そのジャッジに対するホイッスルだった。
そう思いながら菅野に歩み寄る主審を注視すると、その男は胸ではなくズボンのポケットに左手を入れ、ゆっくりと赤いカードを菅野に対して掲げた。
ダービー独特の雰囲気が醸し出す異様なテンションの高さは試合開始前から会場を取り巻いていたが、その空気に包まれていた日立台が騒然となった。桐畑が「赤かよ!」と訝しさを感じたように、ピッチ上のレイソルの選手たちが主審に詰め寄り、抗議を始める。そして次の瞬間。
「キリィー!!」
自分の名を呼ぶ声がした。声の主はシジマールGKコーチだ。彼はその声を発した直後に物凄い形相で桐畑のもとへ歩み寄ってきた。ベンチにいたチームメイトたちも、それに続けと言わんばかりに桐畑を鼓舞するべく次々に言葉を投げ掛けた。日立台に詰めかけたサポーターの視線は、多大なる期待を込めて背番号1へ向けられていた。
2010年7月25日、J2第19節。ジェフ千葉との千葉ダービー。桐畑のデビューは、あまりにも唐突な形で巡ってきたのだ。
「ビビりましたよ。でも、人間ビビると笑っちゃうんですよ」
当時の状況を克明に回想する桐畑は、その時の気持ちをそう語っている。
2006年のルーキーイヤーから5年。桐畑はトップチームでの出場経験がなかった。その一方で、サテライトでは何遍もゴールマウスを守っていた経験から、自分自身を『サテライトの守護神』と名乗ったこともある。
あの饒舌なマシンガントークからは想像もつかないが、桐畑のサッカー人生はGKという特殊なポジションの性質上、子供の頃から二番手に甘んじる日々の連続だった。06年のトップチーム昇格以降も南雄太(現熊本)、水谷雄一(現京都)、菅野ら実力者の壁に阻まれ、背番号1こそ背負っていたものの、「出場機会0」が示す通り、Jリーグ公式戦のピッチに立った経験はない。
シジマールGKコーチから檄を飛ばされ、背中を4回叩かれて桐畑はピッチへ足を踏み入れた。桐畑との交代でピッチを後にする澤昌克も「頑張ってね」と笑顔で送り出してくれた。
「めっちゃサポーターの声が聞こえてきました」
一歩一歩ゴールマウスが近づくにつれ、その歩みに比例するかのようにサポーターが沸いた。
レイソル加入から5年。桐畑和繁、大波乱のデビュー戦である。
1987年6月30日。桐畑は4人兄弟の末っ子として、山梨県で生を授かった。賑やかな家庭環境の中、特に長男の影響を強く受けた桐畑は、「一番上の兄貴のパクリみたいな奴でした」と自分自身を語る。現在、レイソルで披露する個性的なキャラクターと饒舌なトークの礎が、幼少期にはすでに出来上がろうとしていた。
桐畑がサッカーと出会うのは柏市へ越してきてからだ。当初は幼稚園の体操クラブに加入したのだが、幼い桐畑はそれ以上にサッカーに魅かれていた。その後、念願だったサッカークラブの一員となった。
「めっちゃカズ(三浦知良/現横浜FC)を意識していました。ゴールしたらカズダンスしてたので『カッコつけマン』と呼ばれていました。でも誰に向かってカズダンスしてたんでしょうね」
さらに、ここで大きな出会いがあった。幼稚園のサッカークラブの指導に当たっていた者が、後に誕生するクラブチーム『ラッセルサッカークラブ』のコーチになり、それが縁で桐畑は同クラブへ加入するのだった。
だが桐畑は、そこで最初の壁に直面する。
「幼稚園の時にカズダンスをしていた俺が、カズダンスできない状況になったんです、周りが上手くて(笑)。俺はもうスーパーじゃなくて、サッカーは好きなんだけど合宿とか行くのは好きじゃなくなったんですよね」
そこまで語った桐畑は、少し間を置くと「でもその後です!」と言葉を強調した。
チームメイトのGKが体調不良により試合を欠場した時だった。コーチに「俺がGKをやってもいいですか?」と恐る恐る訊ねると、「いいよ」という返答があった。桐畑は急遽GKとして出場した。これが人生のターニングポイントとなった。
「スーパーセーブ連発で輝いたんです。俺の中であれほどのベストマッチはありません。自分でもこのタイミングで、よく自分を出せたなと思います」
プロのアスリートならば、子供の頃から身体能力に長け、そのためどこのポジションをやらせても高いレベルのプレーを発揮する例は多い。桐畑にそれを訊ねる。すると返ってきた言葉は意外なものだった。
「体育は5を取ったことがないです。足も小5までは速かったけど、その後は最悪です。『生き恥』でした。だから運動神経が良くなくてもプロサッカー選手になれる。俺は子供たちに夢を与えているんです(笑)」
自分にとって"天職"となるポジションを見つけた桐畑。初めて親に買ってもらったGKグローブは、嬉しさと愛着の念を持って使用した。大事にし過ぎたあまり、一度も洗わず、相手の攻撃の他に、いつしかグローブから発する異臭とも戦ったという。
柏市はサッカーが盛んな地域であるゆえ、『強豪』と呼ばれるサッカークラブは多い。勝ち上がっても次から次へと現れる難敵の登場を「まるでマンガみたいですよ、倒してもまた次に強いチームがいて」と桐畑は振り返った。
県大会の準決勝、ラッセルは柏レイソルジュニアと対戦した。桐畑と同い年の船山貴之(現松本山雅FC)を擁する強豪クラブに4-0の完敗を喫した。
「試合前から4-0でした。あの黄色いユニフォームにビビっちゃって。船山は本当にすごかったです」
同じ柏市のクラブチーム、柏イーグルスのGKを務める同い年の早川雄規(現ジェフリザーブズ)を「目標の存在だった」と桐畑は明かしている。
柏市のトレセンで2人はチームメイトとなり、桐畑は初めて『サブ』という立場を味わった。大会も常に早川が出場し、桐畑はベンチでその姿を見つめていた。
ところが決勝戦という大一番に来て、早川ではなく桐畑がスタメン出場を命じられた。モチベーションが高揚した。
「やっぱ俺だよ、やっときたかと思いました。前半0-0、そこで驚くべきことが!後半が始まってGK交代になったんです。なかなかないですよね(笑)。それで早川君が止めまくってMVPを獲得したんです」
"あいつには負けたくない"という気持ちを常に抱き、サッカーに取り組んできた桐畑少年にとって、この出来事はショッキング以外の何物でもなかった。
「人生は自分が主役じゃないですか。でもその瞬間、俺は主役じゃなかった。あれは悔しかったです」
中学へ上がると、早川はレイソルジュニアユースへ、桐畑は引き続きラッセルでプレーし、それぞれの道を歩み始めた。
中学生は1年と3年の間では大きな体格差が生じている。したがって、中学生になった直後もサブという立場に追いやられた桐畑。だがちょうどその頃、桐畑の在学していた光ヶ丘中学サッカー部の顧問から「朝練だけでもいいから来てくれ」と熱心な誘いを受けていた。
顧問の熱意と桐畑の興味本意が部活の練習参加へと差し向けた。ラッセルではサブに甘んじていたとはいえ、サッカー部に入れば桐畑の実力は別格だった。周囲からは「ラッセルの桐畑だ...」と羨望の眼差しを受け、気分も良かった。
「楽しかったです。俺が主役だし。そういう時に限ってシュートを止められちゃうんですよね(笑)。ラッセルを辞めることも考えたんですけど...『やっぱり頑張ろう』と思いました。あの時辞めないで正解でした」
桐畑は、そこで辞めずにラッセルでプレーし続けたことを「人生のターニングポイント」に挙げている。
2002年、中学3年の桐畑はラッセルのチームメイトたちと同じように市立船橋高校や流通経済大柏高校など県内のサッカー名門校への進学を考えていた。
とある高校のセレクション前日だった。ラッセルのコーチから電話があり、「お前は明日のセレクションに行かなくていい」と告げられた。そして「代わりにこっちへ行け」と促されたのが、レイソルユースのセレクションだった。
実はジュニア時代から、桐畑は度々レイソルからの誘いを受けていたのである。「井の中の蛙じゃないですけど、ラッセルの居心地がよかったんで」との理由から、これまではレイソルよりもラッセルを選んでいた。
桐畑はレイソルユースのセレクションを見事に通過した。だが地元Jクラブの下部組織に入団できる喜びよりも、この上ない焦燥感に捉われたという。その理由をこう話す。
「これで高校には一般受験をしなきゃいけなくなりました。それまでも勉強はしていたんですよ。超勉強するんですけど、俺は点の取れない子だったんで。ヤバイなと思いましたよ」
机にかじりついて必死に勉強した。その甲斐もあり、一般入試を経て無事高校に合格した。「ここで受かってなかったら今の俺はなかった」と本人が力を込めて言うほど、大きな関門を突破したのである。
新たな環境に身を投じる時、誰もが不安と期待とが入り乱れ、緊張感に捉われる。桐畑もレイソルユースへの練習にはそんな感覚を抱いていた。なにしろ周囲は皆エリート集団だ。柏トレセン時代のライバルでMVP獲得経験を持つ早川ですらレイソルユースへ上がれなかった事実が、さらなる緊張感を招いた。否が応でも桐畑には『早川の代わりに来たGK』という視線が浴びせられ、高いハードルを設定された。
「周りが俺と早川君を比べるわけですよ。全国大会MVPと俺を。まだ友達もいない状況ですから、あの時は苦しかったです」
続けて「練習に行くのが嫌でした」と本音を漏らした。ただ、当時桐畑に気兼ねなく声を掛けてきたユースの選手がいる。それが柳澤隼(現鳥栖)だった。この時の会話の中でも、「ヤナギはいい奴です」という言葉を桐畑は何度も口にしていた。
そういった苦しい経験を持つ反面、桐畑が幸運の星を"持っている"と思わせる出来事が起こる。
JFAは数年前からストライカーとGKという特殊なポジションの特別プロジェクトを立ち上げており、全国の優秀な若年層の選手を集めては定期的に強化を行っていた。桐畑はGKの1人として、そのトレーニングに呼ばれるのである。同じくストライカープロジェクトに参加していた流通経済大柏高校のFW、後にレイソルでチームメイトとなる長谷川悠(現山形)とは、この時に初めて顔を合わせた。
おそらく、こうして協会スタッフの目に留まったことが大きかったのだろう。県選抜やトレセンの経験を持たずして、しかもそれらを飛び越えて、いきなり年代別日本代表の招集を受けたのだ。通常では考えられない招集劇に、当然桐畑も驚きを隠せなかった。
「『U-17日本代表に選ばれたぞ』って言われても、日本代表に年代別があることも知らなかったので、『何それ?』って意味がわからなかった。代表の練習に参加してみたら、みんなエリート育ちだから、会話が『あの時のクラブユース選手権さ...』みたいな感じで話についていけないんですよ(笑)」
U-14やU-15時代から代表を経験してきた選手たちは、すでに旧知の間柄として練習初日から輪を作る。初代表の桐畑はそこへ踏み込めずに戸惑っていたが、ふと横に視線を移すと槙野智章(現1.FCケルン)がいた。同じく初の代表選出でフランクな性格を持つ槙野がいたことで、桐畑は代表合宿に取り組みやすい雰囲気を得た。そして彼らこそ、後にカナダのU-20W杯で旋風を巻き起こす『調子乗り世代』だ。
高校3年になると、桐畑はレイソルユースの正GKの座を手にする。船山、柳澤、1つ年下の大島嵩弘(現AC長野パルセイロ)など、桐畑本人が「今は工藤(壮人)たちの代が注目されていますけど、俺らも強いと言われていた」という世代だ。
関東クラブユース選手権2次リーグの結果、レイソルはプレーオフとなる9位決定戦へと回る。そこで大宮ユースと全国大会の出場権を懸けて対戦したが、試合終了間際に痛恨の失点を喫して日本クラブユース選手権行きを逃した。
さらに冬のJユースカップでは2回戦で三菱養和SCユースと対戦した。毎年恒例の日立台での開催。桐畑は勝利の姿を見せようと高校の友人たちを試合に招いた。だが事は思い通りには運ばず、ここでも試合終了間際に田中順也の強烈な左足シュートをぶち込まれ、1-2で敗退した。
年代別代表選出という華々しいキャリアとは対照的に、クラブレベルではいずれも早期敗退を強いられた。このあまりにも劇的で、アップダウンの激しいユースでの3年間を終えた桐畑は、2006年にトップチームへと昇格する。
GKとは特殊なポジションである。ピッチに立つ11人の中で唯一手を使用できるという特異性のみならず、与えられる出場枠はわずかに1つ。加えて1チームにつき3~4人の選手を置くのだから、他のポジション以上の激戦区となる。しかもレイソルには南雄太という絶対的な守護神が君臨していたため、ポジション争いは生易しいものではなかっただろう。
「1年目は先輩のプレーを見て学べとか言いますけど、そんな余裕ないですから(笑)。それに南さんの足の運び方なんて芸術品、真似なんてできない。料理で言えば包丁さばきが違うから、俺と同じ道具、食材を使っているのに出てくる料理が全然違うみたいな感じですよ」
偉大なる大先輩の存在の他に、"大きな壁"も桐畑の前に立ちはだかっていた。練習には真摯に取り組み、当然アピールしようとする。しかしユース時代とは異なり、プロ選手の放つシュートはことごとく自分の手元をすり抜けていく。
「『あとちょっとで止められた...』とか、惜しいとか悔しいとかじゃない。全部決められてしまうんです。何で決められちゃうのかが分からない。そういう気持ちでした」
メディアから抱負を問われると、その都度明るく振舞い、「絶対に試合に出る」と言い続けていたが、それは必ずしも本心とは言い切れなかった。内心では「試合に出ている自分が想像できなかった」という本音を抱いていたからだ。
そんな桐畑に転機となる出会いが訪れたのは2年目の2007年。新GKコーチにロビンソンが招聘された。彼の指導によってGKとしての実力が急激に増したというわけではなかった。ただ、たとえ練習でうまくいかなかったとしても、ロビンソンコーチの投げ掛ける言葉が桐畑を勇気づけた。
「お前は良い選手だ。今は試合に絡んでいないが、絶対に出られるようになる。大丈夫だ」
彼の働きかけが奏功したのか、桐畑の胸の内にあった靄(もや)が晴れ「外国人のコーチにそう言われるとできるんじゃないかという気がしてきた(笑)」と、ルーキーイヤーに喪失した自信を徐々に取り戻していったのだった。
現にトップチームの出場とは行かないまでも、後にはチャンスも与えられ、トレーニングマッチやサテライトでの出場機会が増える。桐畑自称、"サテライトの守護神"の誕生だった。
2009年にはロビンソンに代わり、シジマールがGKコーチに就任した。シジマールは「明るさを出して、しっかり練習をしているGK」との印象を桐畑に持ったという。
前任のロビンソンコーチと同じように、ポジティブな言葉で働きかけてくれるシジマールコーチの指導の下、桐畑の実力は大きく上昇線を描いた。
「足の運び方が格段に良くなり、そこにキリの特徴であるスピードを生かせるようになった。(南)雄太とスゲ(菅野孝憲)がいて、それまでは彼も心のどこかで『チャンスはない』という気持ちもあったかもしれないが、雄太の移籍で責任感もついてきたんでしょう。トレーニング中の顔つきが違いました」
シジマールコーチは丁寧な語り口調で、目に見えて感じた桐畑の成長を説いた。
プロ5年目のシーズンが到来した。2010年の春季キャンプ中、ネルシーニョ監督は桐畑にこう伝えたという。
「レイソルが1年でJ1に戻るためにお前の力が必要だ。期待している」
今まで1度も出場経験がないにもかかわらず、監督とコーチは自分を信頼してベンチに置いてくれる。桐畑はそのことを意気に感じ、いつ試合に起用されてもいいように日々の練習、そして試合直前でも準備を絶対に怠らなかった。
「初めてプロになれた気がした」と振り返った2010年7月25日。あの非常事態の中で、あれだけのプレーを発揮できた要因は、紛れもなく積み重ねてきた努力と、試合への準備を怠らなかったゆえのものである。あの日、観衆の視線を一身に浴びた桐畑は、紛れもなく日立台劇場の"主役"となっていた。
桐畑は、新潟へ移籍した村上佑介の後を受け継ぎ、2011年7月にレイソル選手会の会長となった。
その活動状況を聞いてみたところ、昨年のファン感謝デーで披露したAKB48の『会いたかった』に続く選手によるパフォーマンスを、何かの折には選手で行うことを検討中だという。
「俺は選手会長という感じじゃないです。ただ意見を出して、こうしようと言っているだけです」
とは言うものの、今後は自治体のイベント等にもレイソルを代表して参加しなければならない。話術に優れる桐畑は、選手会長というよりも、むしろスポークスマンといった方がしっくりくる。ピッチを離れた彼の今後の活動にも注目していきたい。
選手会長就任と同じ7月は、サッカー選手としてのターニングポイントも訪れた時期であった。7月下旬のある日。
「怪我の菅野の代わりに、これから何試合か、お前をスタメンで使う」
そうネルシーニョ監督から伝えられたのだ。本人曰く「トップシークレット情報」を聞かされて、喜びに震えた。こうして第19節の仙台戦から第25節の名古屋戦までの7試合、スタメンでゴールマウスを守ることになる。
「仙台戦0-0、マリノス戦2-0、ここまではよかったんです。次のジュビロ、1-6です。切り替えたつもりだったんですが、大量失点の影響が悪い方に出たのが福岡戦でした」
J1デビューの甲府戦の時までは、たとえ自分の出来が悪かろうとチームが勝てばいいと思っていた。ところがその心境が変化をきたし、自分の悪いプレーには納得がいかず、勝利は確かに嬉しいのだが素直に喜べない複雑な思いを抱く自分がいた。3-2で勝利を収めたが、中途半端なプレーで失点を招いた福岡戦がまさにそれに該当する試合だった。
自分自身へのリベンジを誓い、臨んだG大阪戦も2つの失点を許した。
「ジョルジに当たってコースが変わったなんて関係ない。コースが変わって、ボールが上がって、それを止められなかったことが悔しい」
その次の第5節川崎戦でも、桐畑は失点場面を振り返り「俺のミスでした」と話している。だが前節G大阪戦の敗戦が個人的な教訓となったのか、桐畑は2点を先制された後、良い意味で開き直る。さらにスタジアムの雰囲気から「今日は何か起こるんじゃないか」と異質な空気をヒシヒシと感じていた。
実際にレイソルは0-2から試合をひっくり返す大逆転勝利を演じた。終盤には桐畑が「やっと生きたシュートを止めることができた」と振り返る柴崎晃誠のミドルシュートを阻んで勝利に貢献した。
第25節の名古屋戦。実は前半開始早々、藤本淳吾のFKへ向かってダイビングした際にポストに左腕を引っ掛け、肩を痛めた。
「左腕が上がらなくなりました。もう『終わりだ』って思いました。でもここで交代したら、もう次のピッチに立てなくなる。だから相手にも悟られないようにプレーし続けた」
後半3分、名古屋のカウンター。ダニルソンが左サイドを抜け出した。ブルザノビッチ対するDFの対応が一瞬遅れた。モンテネグロ代表歴を持つMFがフリーでゴール前へ飛び出した。
「あれは福岡戦の失点場面と同じ展開でした。あの時は中途半端なプレーをしてしまったけど、この時はクロスが上がった時にブルザノビッチがフリーになったので思い切って前に出たんです」
神経を研ぎ澄ませていたため、左腕の痛みは感じなかった。ブルザノビッチの前に立ちはだかった桐畑は、この絶体絶命のピンチを食い止めた。そしてこのファインセーブを機に、試合の流れが大きく変わった。レイソルはその後、田中順也と澤昌克のゴールでまたしても逆転勝利を収めたのである。
「あのセーブからは調子に乗って『来いよ!』というつもりでプレーしていたんです。その気持ちを思い出したというか、『原点回帰』ですね。でも原点に帰るまでに7試合もかかっちゃったわけですよ」
この試合での桐畑の活躍をシジマールGKコーチにも訊ねた。すると「驚くことはない。キリは日頃からそれだけの練習と準備をしている」と愛弟子の好プレーは至極当然だと言わんばかりである。桐畑は続ける。
「名古屋戦の後半は気持ちが良かった。プレーに自分の心がやっと付いてきた。最後の名古屋のパワープレーは全部俺が取りにいくつもりだった」
名古屋戦後、左肩を負傷した桐畑と入れ替わるように菅野が戦列に復帰した。以前の桐畑ならば、怪我を治せばいいと漠然と思っていたが、7試合に出場した後では、その意識すら違っていた。とにかく試合に絡みたい。試合に出たい。ようやく試合に出場できる時になって、怪我でその地位を簡単に手放すことは我慢ならなかった。昔ならば治療に専念しただろうが、今は可能な範囲内の練習なら志願して取り組んだ。
「俺、それまでただサッカーをしてるっていうだけで、サッカー選手のメンタリティじゃなかったんですよ。やっとサッカー選手のメンタリティを持つようになりました」
7試合連続出場が呼び込んだ桐畑の意識の変化は、もちろん指揮官も強く感じていた。ネルシーニョ監督からはこういう言葉が与えられた。
「もうこれでお前は有望な若手ではなくなった」
百戦錬磨の名将が発したこの言葉は、かつて"若手GK"や"サブGK"と呼ばれた桐畑が、主力GKとして揺るぎない地位を築いた証にもなろう。
桐畑は最後にこう話す。
「夢は叶うんですよ。だから俺、ワールドカップに出ますから。あ、今笑いましたね?」
ビッグマウスとは違う。その時は冗談に聞こえても、いつか実現させてしまうのではないかと感じさせる何かを、この男は間違いなく持っている。
TODAY'S MENU:「ニラレバ炒め定食」「餃子」など
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