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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
大津祐樹
独特のボールタッチと相手を欺く駆け引きは
体格に恵まれなかった少年時代を生き抜くために培った
プロになっても肉体のハンデを痛感させられたが
幾多の敗戦を糧にして、持ち味のスピードに当たり負けしないパワーを備えた
パスサッカー全盛のなかで、異端を放つドリブラー像ができるまで
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
対峙するDFにとって、独特のテンポを刻むドリブルはミステリアスに映り、容易に止められるものではない。チャントの原曲である『お嫁サンバ』の歌詞のフレーズが、まるで誂えたかのように大津祐樹のプレースタイルにしっくりくる。
ドリブルを可能にする柔軟なボールタッチ、テクニック、閃きなどは、物心をつく幼き頃からボール遊びの中で培われたのではないか。問い掛けをしてみると
「そう思われがちなんですけど、実はそうでもないんですよ」
相変わらず屈託のない笑顔でそう返す。
2005年度第84回全国高校サッカー選手権大会で、成立学園高校の青いユニフォームに身を纏った大津はすでにドリブラーだった。細身で華奢な体躯、表情にはあどけなさも残る。それもそのはず、当時は高校1年生の15歳だったのだから。
ただ、その背番号9を背負う1年生が繰り出すプレーには切れがあった。スピードを上げ、縦に加速するかと思いきや、体を翻し、突如進路変更を行う。乾貴士(現C大阪)、楠神順平(現川崎)、青木孝太(現千葉)らを擁した野洲高校が"セクシーフットボール"と脚光を浴び優勝を飾った大会にて、成立学園の異彩を放つ"ミステリアス"なドリブラーは、注目される前に1回戦で大会から姿を消してしまう。
「高1の時は自分が足の速いことに気づいてなくて生かし切れなかったですよね。高2になって『俺、足速いのかも』と思い始めたんです。体が小さかった分、駆け引きをしながらドリブルしてました」
とは言うものの、高校2年以降、大津はドリブラーとして邁進するのではなく、高校2年時はトップ下を担い、高校3年になるとトップにコンバートされた。
「高校では学年によってポジションが変わったんです。2年の時はパサー、3年はストライカーでした」
当時の成立学園はプリンスリーグの下のディビジョンである東京都のTリーグU-18に属していた。都リーグといえど、帝京、暁星、國學院久我山、修徳という全国区の高校と競い合ったリーグ戦を11戦10勝1分と圧倒的な強さで制し、しかも11試合トータルで64ゴールという驚愕の数字を叩き出した。
正確に公式記録を数えたわけではないのであくまでも概算だが、1試合1人で5ゴール以上を荒稼ぎすることも珍しくなかった大津は、少なく見てもチーム総得点の半数以上のゴールを挙げていたはずである。したがって、自身を「ストライカーと勘違いしてました(笑)」と回顧する。
残念ながら成立学園は高校選手権やインターハイといった全国大会出場を果たせず、そのためJクラブのスカウトの目に留まりづらい側面があり、卒業後の進路には大学進学を視野に入れていた。
成立学園とレイソルとの練習試合が行われた時、大津の運命が大きく方向転換する。当時の鈴木康仁スカウトが成立学園のエースに興味を持ち、以来大津を追いかけ、猛烈にアプローチを仕掛けたのだ。
「よく試合を観に来てくれたり、熱心に誘っていただいたので、レイソルに入ろうと思いました」
2008年の新加入選手で唯一の高卒ルーキー。それが大津祐樹である。
茨城県水戸市で生まれ育った大津は、兄の影響により物心つく前からボールを蹴り始め、小学4年生の時に新荘常磐SSSに入団し、正式にサッカーを始める。
ただ、当時の大津は小柄な体格で、年上はもとより、同年代の子たちとのフィジカルコンタクトでも遅れを取り、そのため早々と足技を習得する必要性に駆られていた。体格差を補うべくテクニックを磨き、「駆け引きをしながら相手の裏を取る」ことを考えていた。
比較的攻撃的なポジションを担っていた大津は「ドリブルばかりしているわけじゃなかった」とは言うものの、時折DFを務めた際には最終ラインからドリブルで攻め上がるような少年で、大津の言葉によると「調子に乗ってドリブルする奴」。すでにプレースタイルの礎は出来上がっていたと思われる。
さらに、小学校高学年になると鹿島アントラーズスクールに通うのだが、そこでミニゲームの練習が多かったことも影響した。
「ボールタッチ、駆け引き、局面を打開するプレーはスクールのミニゲームで鍛えられましたね」
中学入学後には、スクールが縁で鹿島アントラーズノルテジュニアユースに入団。同時に、マルヴァ・フットサルスクール水戸にも通い始める。小学生時代に、ミニゲームでの狭い局面打開のプレーに魅入られていた大津は、ここからさらにトリッキーなプレーへと傾倒していく。
「フットサルのトリッキーな技はサッカーでは使えないものもあるんですけど、コーチから指導してもらって、『フットサルのこういう技をサッカーではこう生かせ』みたいに教えてもらっていたんです」
マルヴァで習得したフットサル独自の技に、大津は自分なりのアイデアとアレンジを加え、それをノルテでのサッカーに生かした。しかも周囲の子どもたちがグングンと体格が出来上がっていく一方で、大津はまだ身長140センチ台後半。体格差を跳ね返すため、駆け引き、テクニック、閃き、それらを加味したプレースタイルが徐々に出来上がっていったのである。
「プロになってから使っている技も、その頃にやっていたものが多いです。やっぱり咄嗟に出るのは子どもの時に身に付けた技。その頃、練習していて本当に良かったと思います」
チームではさほど好成績を収められなかったが、大津個人は茨城県内で頭角を現していき、県のトレセンにも名を連ねた。
だが中3時にユース昇格の寸前まで行くも、「線が細い」という理由で最終的に昇格は見送られた。「すっかりユースに行くつもりでいた」という大津は途方に暮れた。
「ユースでやっていく自信はあったんですけどね。とりあえず勉強しようと思いましたが、そんな知力もなく(笑)。2日間ぐらい勉強したんですけど、『やっぱり勉強ダメだ!』となって。『やべぇ、どうしよう...』と思っていたんです」
そんな時、鹿島側から成立学園高校サッカー部総監督・宮内聡氏を紹介してもらうのである。早速セレクションを受けに行き、異例の即日合格を貰う大津。
「水戸からは遠いけど、ここでもうひと頑張りするか」
新たな決意とともに、成立学園の青いユニフォームを選んだ。
<逞しくなった>。
そう感じたのは2008年のシーズン終盤だったろうか。肩から背中にかけて厳つく(いかつく)なり、全体的にドッシリとした印象を受けた。明らかに大津の体格には変化が表れていたのだ。
大津がフィジカル強化の必要性を感じたのは加入した直後、2月のプレシーズンマッチちばぎんカップに大きな理由があった。当時、フランサと北嶋秀朗は負傷離脱中、李忠成(現広島)もU-23日本代表の遠征で欠いていた。そういったチーム事情も手伝い、大津はちばぎんカップで、ルーキーにしていきなりスタメン出場を果たすのである。
「舐めていたわけじゃないんですけど、ある程度はやれるんじゃないか、そういう自信はあったんです。でもダメでした。10-0ぐらいの『完敗』でした(苦笑)」
大津の言う「10-0」とは、もちろん試合のスコアではない。千葉のDFボスナー(現清水)とのマッチアップをスコアに表すと、それぐらいの差があった、ということを意味する。
得意のドリブルを披露するどころか、ボールが入った瞬間にボスナーに体を当てられ、脆くも崩れ去る。自信を無残に打ち砕かれ、全く何もさせてもらえず、"挫折"の二文字しか残らないプロデビューの82分間だった。
「でもあの挫折があったから、今があると思う」
笑顔で話していた大津の表情から、この言葉を発した瞬間は笑みが消えた。
大津は自分が何をすべきなのかを見つめ直した。テクニックを生かすため、激しいぶつかり合いにも耐えられる体を作ろう、そう感じた。しかし筋肉をつけすぎ、重量だけが増すのはスピードを殺してしまうので避けたい。
そこでトレーナーに相談を持ちかけ、自分の体格やプレーの特徴にも応じた筋トレのメニューを作成してもらい、精力的にフィジカル面の改善に取り組んでいくのだった。
また、筋トレの他にも、試合での運動量を増やすため、通常の全体練習を終えた後は必ずといっていいほど走り込みを行った。たとえ雨が降ろうと、毎日毎日1人黙々とグラウンドを走り続けた。
シーズン中盤戦になると、怪我人の復帰と自らの弱点の露呈も相まって出番を失っていったが、終盤戦に入り大津が再び出番を取り戻したのは、そんな彼の直向きな努力が次第に成果として表れ始めたからである。
「シーズン最後の方でまた試合に出られるようになって、開幕の頃と違うのは自分でも分かりました」
柔軟な足技と屈強なフィジカルが、いよいよ融合を果たそうとしていた。
当時、フィジカル改善に取り組む大津に心境を聞いた時、彼が冗談交じりにこう返答していたことを記憶している。
「いつかボスナーを吹き飛ばしたいんです」
そして、その3年後の2011年の開幕戦にて、再びボスナーとマッチアップし、今度は得意のドリブルでその巨漢DFを凌駕することになるとは、その時は思いもしなかっただろう。
「代表クラスの選手とやる方が"チャレンジャー"という意識で臨めますし、自分の持ち味を出しやすいんです」
プロ2年目に話が及ぶと、大津はそう当時の状況を解説した。
地道なフィジカルトレーニングは間違いなくルーキーイヤーの終盤から実を結び始めていた。ただし、いくら体を強化したからとはいえ、フィジカル勝負だけに頼っては、2009年のブレイクはおそらくあり得なかっただろう。その大活躍の裏には、大津自身がプレーに工夫を施した事実が存在している。大津はこう続ける。
「体の大きい相手に対してフィジカル勝負したら絶対に勝てない。だから相手がぶつかってくるよりも一瞬早く体を入れる。それは攻撃も守備でも同じで、相手やボールに行くんじゃなくて、相手とボールの間に行くことを考え始めました」
大津が並走する相手選手の前へ体を入れ、クルリと巻き込むようにしてボールを奪う場面というのは、2009年には何度も見られたシーンである。守備面でも幅を広げた大津には、奪った後はボールを持ってそのままドリブルを開始できる強みがあった。
たとえDFからチャージを受けても、1年目のように簡単に倒れることは目に見えて少なくなり、「相手の斜め前に入れば相手はボールに届かない。届かないからファウルになる」と言うように、突破かFKか、そんな優位な状況を生み出したのだった。
第18節のG大阪戦では安田理大(現フィテッセ)、第19節の鹿島戦では内田篤人(現シャルケ04)、第22節の浦和戦では田中マルクス闘莉王(現名古屋)とマッチアップし、この日本代表のDFたちを大津は翻弄した。
だが、一方で葛藤があった。個人的に調子は良い。プレーはうまくいっている。しかしチームはどうしても勝てない。「どうして勝てないんだろう」と悩み、結局大津はその非を自分自身に求めた。
「僕がアシストできれば、点を取れていれば勝てた試合はあった。責任を感じていました」
7月のネルシーニョ監督の就任以降、壊滅的に崩壊していた守備は回復の一途を辿った。だが、あと1点が奪えないばかりに引き分けが続き、思うように勝点を積み上げられない。フランサは負傷、李忠成は広島へ移籍した。そんな背景も重く圧し掛かったのかもしれない。
「試合に出ているんだから"若い"とかは関係ない。自分がもっとやらなきゃいけない」
プレッシャーと戦い、個人よりもチームの勝利を最優先に考え、大津は必死にプレーを続けた。
レイソルは最後に粘りを見せたものの、第33節の大宮戦でJ2降格が決まってしまう。当然、他のクラブが将来有望なこのドリブラーの存在を放っておくはずもない。
すると大津は真剣な表情で、かつ毅然とした口調でこう答える。
「レイソルに残るのに迷いはなかったです。それに降格から逃げたくはなかった。2009年はやっている時は苦しかったけど、今になって思えば自分のためになったシーズンだったと思う」
2010年、前年の活躍から大津はチームの新たなエースとして期待され、背番号も「27」から「14」へ変えた。
しかしまたしても苦難が待ち受けていた。キャンプ中から怪我を繰り返し、開幕後に復帰して一時は活躍を見せたものの、第8節の熊本戦で右太腿の肉離れを発症させてからは、ほぼシーズンを通して怪我と戦い続けた。
「1年間、全くダメなシーズンでした(苦笑)。やればやったで怪我してばかりだったので」
怪我を繰り返す大津に対し、ネルシーニョ監督をはじめ、クラブ側から「環境を変えて治療に専念させる」ということが提案された。怪我の完治と一刻でも早い復帰を目指し、大津はそれを了承する。9月、ブラジルに渡り、わずかな期間ながらもブラジルの名門クラブ、サンパウロに身を寄せた。
怪我を治す、さらにその上で怪我をしない強い身体を作り上げる。そのため大津は朝からサンパウロのクラブハウスに赴き、現地のトレーナーの指導を受けながら、午前と午後、ひたすら筋トレに明け暮れる日々を繰り返した。
「『なんで日本人はこんなに真面目に筋トレをやるんだ?』みたいな目で見られましたけど、『こっちは後がないんだ、やらなかったらブラジルに来た意味がない』と思ってやってました」
そんな強い決意を持ち、トレーニングに励む大津の支えとなってくれたのがジョルジ・ワグネルだった。すでに翌年からのレイソル入りが内定していたワグネルは、その人柄もあって積極的に大津とコミュニケーションを図った。
「ジョルジがいたのは助かりました。ジョルジと仲良くなったから、他の選手の受け入れも良かったし。ホント、ジョルジは"良い奴の塊"みたいな顔してますよね(笑)。僕はジョルジには、レイソルはこういうチームだよと情報を伝えてました」
治療とハードな筋トレを繰り返すという苦しい日々だが、サッカー王国と誉れ高きブラジルの環境は、大津にとってこれまでに受けたことのない新たな刺激となった。
当然、サンパウロのホームスタジアム『エスタディオ・ド・モルンビー』で試合も観戦した。クラブハウス内ではサンパウロが勝ち取ってきた栄光の数々を目の当たりにした。クラブの上層部は皆、ネルシーニョ監督と旧知の間柄で、現役時代の若かりし頃のネルシーニョ監督の写真を目にした時は不思議な感覚に捉われたとともに、あらためてレイソルの指揮官の偉大さを感じた。
そして滞在後半に怪我が回復すると、サンパウロの練習にも参加した。
「メッチャ速い奴、メッチャ巧い奴とかいるんですよ。やっぱレベル高いわ~ってびっくりしました。ドリブルの仕方とか参考になりましたよ」
約1ヶ月間の滞在を終え、10月に大津は日本へ帰国した。シーズン終盤に軽度の怪我こそあったものの「多分、ブラジルに行ってなかったら、また大きな怪我になったかもしれない」と、1ヶ月間、必死にトレーニングを続けた成果を感じた。
おそらくサッカー選手であるならば、誰もが海外へ挑戦するという高い志を抱いているはずだ。大津にも少なからず海外への思いはあった。2011年3月。
大津がU-22日本代表の招集を受け、同世代のレベルの高い選手とプレーしたことが心境の変化に大きな影響を及ぼしていく。
「代表に行って、いろんな選手と話して海外への思いを再確認した感じでした。『やっぱり行ってみたい』と......」
体の奥底から湧き上がる挑戦意欲。それにまるで呼応するかのように、イタリア・セリエAのアタランタ、そしてドイツ・ブンデスリーガのボルシアMGが大津に興味を示しているとの打診を受けた。
リーグのスタイル、環境面、自らのストロングポイントなどを熟考した結果、大津はボルシアMGへの練習参加を決意した。
現地では練習に参加しただけでなく、アバディーン(スコットランド)との練習試合にも左サイドハーフとして出場した。フィジカルコンタクトでは日本との差を感じたが、それ以上に大津のストロングポイントであるドリブルは、ドイツの地でも軽快なリズムを奏でた。
「やれる!」
渡独の前から抱いていた自信以上に、ここで戦っていく手応えを掴んだ。
その後の報道では、移籍交渉が暗礁に乗り上げたと伝えられていた。だが大津はこう言う。
「報道とはちょっと違うんですよね(苦笑)。移籍がなくなったんじゃなくて、あの後もずっと交渉は続いていたんですが話が長引いてしまって。移籍が決まるか、レイソルに残るか、どっちにしても僕のやることは変わらなかった。自分のプレーをやり続けることに意味があると思ったので、帰国後は一生懸命練習に取り組むだけでした」
数日後、代理人を通して移籍の成立を伝えられた。喜びや嬉しさよりも、「ホッとした」というのが大津の本音だった。7月20日、『大津祐樹 ボルシアMGへ移籍』とレイソルからもリリースが出された。
やがて訪れるドイツでの戦いを大津に問う。ドイツの強靭な選手たちに対して「まともに当たっては勝てないと思う」と静かに述べた後、自信に満ちた表情を浮かべてこう語り始めた。
「でも彼らと違う部分を持っていると思うんです。足元の技術であったりドリブルであったり。向こうではそれを押していきたいと思ってます」
当面の目標としてドイツのサッカーに慣れることはもちろんだが、さらに大津は「『ロンドン五輪出場』と『A代表入り』を達成させたい」とも力強く言葉を放った。
"チャラ男"と言われるが、男気に満ちた面も多々あり、柔軟で鮮やかなプレーを披露する一方で、激しいフィジカルコンタクトにも屈しない剛直な一面を覗かせる。人間性でもプレースタイルでも、「柔」と「剛」を兼備するミステリアスなプレーヤーは、最後に自分の支えとなったサポーターへ向け、言葉を紡いだ。
「僕は皆さんのことを家族だと思ってプレーしていました。レイソルは優勝できる力があります。僕も大好きなレイソルをドイツから応援しています。サポーターの皆さん、これからもレイソルの応援をお願いします。4年間ありがとうございました」
大津がボルシアMGのホームスタジアム『シュタディオン・イム・ボルシア・パルク』のピッチを切り裂く姿を目にした時、大勢の人たちの脳裏には、あの曲のフレーズが駆け巡るのではないだろうか。
<大津祐樹を止めないで>
舞台を世界へ移しても、大津祐樹は絶対に止まらない。
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