TOP > ファンゾーン > ファンコンテンツ > on the way > 大谷秀和

ファンゾーン

on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

大谷秀和

いまや誰もが認める"ミスターレイソル"
「オレについて来い」という強引なリーダーシップではない
穏やかな物腰と笑顔で、自然と周りに輪ができる
常に気配りを忘れない人柄で厚い信頼を集めてきた
独特のキャプテンシーが形成されたレイソル一筋のキャリアを振り返る

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 12

Chapter01:高卒即デビュー

 2003年、レイソルは変革の真っ只中にあった。北嶋秀朗、砂川誠(現札幌)といった主軸を放出し、前年まで韓国人中心だった外国籍選手の招聘もブラジル人へと切り換えた。そしてチームの若返りを図るべく、8名の新加入選手のうち、実に5名が高校卒というフレッシュな顔ぶれを揃えたのである。
その高卒ルーキーの1人に、ユース(現U-18)から昇格を果たした大谷秀和がいた。通常、高卒ルーキーに出場機会が巡ってくるとは考えにくいもの。だが、プレシーズンマッチのちばぎんカップにて、マルコ・アウレリオ監督は4-3-3システムの中盤3人のMFに、明神智和(現G大阪)、リカルジーニョ、大谷を抜擢した。
「運も良かったんです。あの頃は怪我人が多かったので」
 当時を回顧する大谷は、出場の理由をそう謙虚に話す。ただし、当時この大谷の出場は少なからず新聞紙面を賑わせた。なぜなら日本代表のテクニカルアドバイザーを務めていたジーコ代表監督(当時)の実兄・エドゥが、若干18歳の若者のプレーを絶賛したからだ。
一躍注目を浴びることになった大谷は、さらに開幕戦でも同じ高卒ルーキーの矢野貴章(現フライブルク)とともにスタメン出場を果たした。高卒ルーキーの開幕スタメンは、96年の明神以来となる7年ぶりの快挙。その後、2010年の茨田陽生が登場するまで、高卒ルーキーの開幕スタメンはなく、レイソルの歴史上でもわずかに4名しか存在しないのである。

Chapter02:大きな大きな先人

 しかし、怪我人の復帰に伴い、出場機会は減少していった。同期の矢野、谷澤達也(現FC東京)、ひとつ年上の近藤直也、宇野沢祐次(現AC長野パルセイロ)ら同世代の若手選手はマルコ・アウレリオ監督に登用され、活躍し、年代別日本代表の招集を次々と受けていく。実力的に考えれば、おそらく大谷もU-20日本代表に名を連ねてもおかしくはなかったはずだ。しかし試合に出なければ代表スタッフの目には留まらない。
「ただでさえミョウさん(明神)がいるんで、中盤のポジションはひとつ埋まっているようなものですからね(笑)」
ボランチはチームの心臓部であるからこそ、なおさら若手は割って入りにくい。しかも大谷の言葉通り、日本代表の明神が君臨するうえに、下平隆宏(現U-18監督)、リカルジーニョ、永井俊太(現スクールコーチ)、落合正幸(現栃木)と中盤の駒は豊富だった。
結局、大谷のルーキーイヤーは、リーグ戦3試合、ナビスコカップ4試合の出場に終わり、わずかに才能の片鱗を見せるだけで終わった。
「早い段階でプロの雰囲気を経験して、試合に出られたのは、その後なかなか試合に出られない時期がありましたけど、自分にとっては良かったと思う」
 ただ、この時はまだ誰も知らなかった。その背番号23を背負った若者が、後に「7」を託され、左腕に腕章を巻き、"ミスターレイソル"の称号を得て、チームの絶対的存在になることを。

Chapter03:ホームタウン流山から

 大谷秀和はレイソルのホームタウンである千葉県流山市に生まれ育った。物心つく頃になると、近所の年上の少年たちに連れられサッカーや野球をはじめ、遊びの中からスポーツに興じる毎日を過ごしていく。
小学校に入学した1991年から本格的にクラブチームへ入団するのだが、最初はサッカーにするか野球にするか迷い、まずは地元のクラブへ見学に行った。
「野球は1年生だと試合に出られる機会は少ないと聞いたんです。でもサッカーは1年生から大会があって試合に出られる。サッカーを選んだ理由はそれだけでした」
 流山は千葉県の中でもサッカーの盛んな地域である。酒井直樹(現U-15コーチ)や油原丈著(現ジュビロ磐田U-15GKコーチ)といったレイソルの下部からトップへ昇り詰めた選手も流山の出身だ。大谷は小学高学年になるとその流山市の中でも頭角を現し、市内の選抜チームに選出される。

Chapter04:レイソルとの出会い

 1995年、大谷が小学5年の時だった。隣の市にある『柏レイソル』というJクラブのジュニアチームが第19回全日本少年サッカー大会で優勝を成し遂げるのを目の当たりにしたのである。そしてその翌年の千葉県予選では、大谷の所属する流山選抜チームとレイソルジュニアが激突。結果、流山選抜チームは僅差で敗れてしまう。この敗戦を機に「レベルの高いチームでやりたい」という気持ちが沸き起こった。
こうして小学6年の秋に、大谷はレイソルジュニアユースのセレクションを受けることを決意する。数百名が篩にかけられた中から合格を手にした者はわずかに4名。その中の1人が大谷であるのは言うまでもない。
大谷は初石少年サッカークラブでも流山選抜でも、"お父さんコーチ"だけでなくサッカーに精通した指導者から教わることができたという。それでも「レイソルはやっぱりレベルが高いと思いました」と当時を振り返る。
「他のことはあまり憶えてないんですけど、初めてレイソルのユニフォームを着た時は憶えています。練習試合で白のユニフォームを着たんです」
1学年上には宇野沢祐次(現AC長野パルセイロ)、同学年にはジュニアからレイソルに所属していた船山祐二(現山形)がおり、大谷が中学2年になると1学年下に菅沼実(現磐田)、塚本泰史(現大宮)、そしてレイソルジュニアで第21回全国少年サッカー大会を制したカレン・ロバート(現VVVフェンロ)が加入。錚々たる顔ぶれが揃った。
「メンバーは揃っていたんですけど中学の時は良い結果を残せなかったんです。でもミノルは中1なのにウノの代のメンバーに入ってましたからね。あいつは目立ってましたよ」
 大会で好結果を残せなかったとはいえ、ジュニアユースの中核を担っていた大谷は、中3の夏にはクラブ側からユースへの昇格を伝えられた。チームメイトの中には「高校選手権に出たい」との理由でユース昇格を見送り、近隣の高校サッカー名門校へ進学する者もいたが、大谷はレイソルユースへ進むのに何の迷いもなかった。

Chapter05:守備って何?

 「ジュニアユースの時に日立台でボールパーソンをやって、エジウソンにボールを渡した時は興奮しましたよ(笑)」  中学生の大谷にとって"プロサッカー選手"はまだ雲の上の存在だった。
 その心境に変化が訪れるのは高校生になり、ユースへ昇格してからだった。高校1年の夏に初めてトップチームの練習に参加し、時にはサテライトリーグの出場機会を与えてもらった。
「もちろんトップに上がるという目標もあるんですけど、第一段階としてサテライトに呼ばれることを目標にやっていました」
 大谷の話では、その練習に呼ばれるにも"運"が必要だという。例えば、同じポジションの選手層がトップやサテライトで充実していたならば、ユースで目立っていても呼ばれる可能性は低くなるからだ。
 2001年当時のレイソルの中盤には明神智和(現G大阪)を筆頭に、ユ・サンチョル、永井俊太、落合正幸(現栃木)と層が薄かったわけではなかったせいか、大谷もサテライトの試合では守備的なポジションを任されることも珍しくはなかった。
 ユース時代の大谷は、主にトップ下を担い、本人曰く「『守備って何?』という感じの選手」だったようだ。そこで当時のユース監督・浜吉正則(現北九州コーチ)からは「トップでやるつもりなら、2列目じゃなくてボランチの方がいい」と適正ポジションのアドバイスを受け、それに伴い守備力の強化を促された。
 そして、「高校3年の1年間はボランチをやっていこう」とコンバートが決定する。最終ラインに石川直樹(現新潟)、前線に菅沼実(現磐田)、中盤に大谷と、抜群のセンターラインを形成する......はずだった。
「ミノルがいれば、あいつがトップ下に入って僕がボランチの予定だったんですけど、ミノルが2種登録でずっとトップチームに行っていたので、結局ボランチをやることはなくてしまいました。だから本格的にボランチをやるのはトップに上がってからです」

Chapter06:思わぬ朗報

 2002年の夏。大谷を含めたユースの3選手がトップチームの練習に呼ばれた。トップ昇格への「最終テスト」だったこの練習参加によって、他2名のトップ行きは見送られ、大谷の昇格については"保留"という形になった。
 そうこうしているうちに秋の国体が始まる。小宮山尊信(現川崎)、小川佳純(現名古屋)、原一樹(現浦和)、近藤祐介(現札幌)らとともに千葉県選抜の中心メンバーに名を連ねた大谷は、決勝戦で矢野貴章(現フライブルク)、杉山浩太(現清水)、谷澤達也(現FC東京)、小林祐三(現横浜FM)らのいる静岡県選抜に1-0で競り勝ち、優勝を成し遂げるのだった。
 国体の終焉とともに秋が過ぎ去り、冬の足音が聞こえ始めた。そして、保留されていた「トップ昇格」の報は、実に意外なところからもたらされた。
 12月のJユースカップ、東京Vユース戦だった。大谷はグラウンドで静岡学園から東京Vへ練習に来ていた谷澤と再会した。
「谷澤から『トップに上がるんだってね』と言われたんです。谷澤もレイソルに行くつもりだったから、知っていたと思うんですけど、フライングでしたよ(笑)。その次の日、クラブから正式にトップ昇格の連絡をもらいました」

Chapter07:沈んでいくチーム

 「あの試合は悪い意味でターニングポイントだったと思う。あのまま1-0で終わっていたら上位に行けていたかもしれない」
 2004年4月4日、J1ファーストステージ第3節、柏の葉公園総合競技場で行われた新潟戦。当時、スタンドから試合を観ていた大谷は、ロスタイムの2失点で悪夢の逆転負けを喫した試合を回想する。この敗戦を機に歯車が狂い、チームは12試合も勝星から見放され、急激な下降戦を辿った。
 ただ、チームが不調にあえぐ一方で、セカンドステージに入ると大谷はレギュラーへ定着していく。明神智和(現G大阪)とダブルボランチを組み、第9節の名古屋戦では記念すべきプロ入り初ゴールも決めた。
 大谷の他に、永田充(現浦和)、近藤直也もレギュラーとして活躍し、小林祐三(現横浜FM)も頭角を現すなど若手の躍進が目立った。だがそれは起爆剤とはならず、チームの調子は一向に上がらない。
中軸には明神、玉田圭司(現名古屋)がおり、GKは南雄太(現熊本)。2005年の夏にはレバークーゼンからフランサ、パリ・サンジェルマンからレイナウドが加入した。顔ぶれだけならば上位争いをしても全く遜色のない陣容であったにもかかわらず、レイソルは残留争いに終始した。
「個の能力は高かった。でもチームになっていなかった。何かあった時に『ここに戻ろう』という戦術がなかったんです」
 大谷も、当然チームがうまく回らない空気の悪さを感じていた。もちろん「なんとかしたい」という気持ちもあった。しかし、まだ入団から2、3年目を過ぎたばかりで、自分のことだけで精一杯の若手に、チームを叱咤する役目を求めるのは、あまりにも荷が重すぎだろう。

Chapter08:受け継いだ7番

 そして、2004年の入れ替え戦こそ福岡に快勝して残留を決めたが、翌2005年には甲府に惨敗。ついにレイソルのJ2降格が決まってしまう。
2005年のシーズンが終わると、オフには非常に選手の出入りが激しくなった。主力選手が1人、そしてまた1人と、次々チームを離れていく。
そんな時、明神から大谷へ電話が入った。
「ミョウさんから『ガンバに行くことになった』という連絡をもらったんです。その時に少し話をして、『じゃあ7番を貰えませんか?』と言ってみました」
 大谷から7の継承を懇願された明神は、その後、主務の宮本拓巳に電話をかけ、「次の7番はタニで」との旨を伝えた。
主力選手の大半が移籍したことによって、日本人はなくとも「もしかしたら7番は外国籍選手が背負うかもしれなかった」と大谷は語っていた。しかし宮本はこう話している。
「ブラジル人選手が7番を背負う選択肢はなかったです。サツさん(薩川了洋/現AC長野パルセイロ監督)がドゥー(近藤)に3番を継いでほしいという話がありましたけど、7は他に適任がいなかったので、多分言わなくてもタニになっていたと思います」
 2006年、大谷は7の系譜を受け継ぎ、新たな歴史を刻んでいくことになるのである。

Chapter09:新たな挑戦

 2006年は、大谷にとって転機になったシーズンだ。この年から背番号7を背負うことになり、石崎信弘監督(現札幌監督)にコンバートされ、本職のボランチではなく左サイドバックを務めた。
大谷自身の持つ「サイドをガンガン上がってクロスを上げる」という左サイドバック像とはかなり異なるものの、持ち前のボールさばきやキープ力を生かし、左サイドの低い位置で起点を作った。そして何より、前年までの"若手"から脱却し、"中心選手"として揺るぎない地位を築き上げた。
 2006年12月2日、湘南戦。大谷は3ヶ月前に負った負傷の影響でスタンドからの観戦となった。試合中、帯同した仲間とともに携帯を開いては、他会場の神戸の試合経過を気にしていた。あの歓喜の瞬間を語る。
「昇格が決まった時は泣きましたね。嬉しかったし、それまでイシさん(石崎監督)は昇格したことがなかったので、絶対に俺らでイシさんを昇格させたいと思ってましたから」
 2005年とは天と地ほども違う結束力で結ばれたレイソルは、2007年のJ1では旋風を巻き起こした。大谷は前年同様左サイドバックを務め、ほぼシーズンを通じて活躍した。
「J2でやってきたスタイルが、J1相手にハマりましたよね」と大谷はわずかに表情を引き締める。終盤には勝てない時期もあったが、開幕前に目標に据えた『勝点45』をクリアし、昇格1年目での8位は評価に値する成績だった。

Chapter10:キャプテン

 そして運命の2008年がやってくる。 「その前も南(雄太/現熊本)さんがいない時に2回ぐらいキャプテンマークを巻いたことはあったんですけど、まったく予感はしていなかったです(笑)」
 2008年1月のグアムキャンプだった。キャンプ中に選手と監督との個人面談が行われ、大谷が石崎監督の部屋に呼ばれた。
「タニ、今年でいくつになる?」
「23になります」
「そうか。じゃあそろそろキャプテンやれや。他の選手にもタニでいいか聞いてみるから」
 こうしたやり取りが交わされ、大谷がキャプテンに任命されるのである。当時、石崎監督から聞いた話によれば、南でも問題はなかったのだが、GK陣は別に練習をする時もあるため、フィールドプレーヤーでキャプテンを置きたいとの意図があったという。
「古賀(正紘/現磐田)ちゃんは絶対にやりたがらなかったし、(山根)巌(現ツエーゲン金沢)さんは『なんで俺じゃないんだ』とブーブー文句を言ってましたけど(笑)。キタジさん(北嶋)と南さんがいたので、やりやすい状況で任されたと思います」
 腕章を巻いたからといって、大谷が特に何かを変えることはなかった。むしろ、普段から気配りのできる人柄のため、変える必要はなかったのかもしれない。前任の南からは「タニのやりやすいようにやった方がいいよ」とアドバイスを受けた。北嶋という強いリーダーシップを持つ先輩が相談に乗ってくれる点も大きかった。北嶋、南、この2人から多くを吸収し、大谷は独自のキャプテン像の下、チームを引っ張っていく。

Chapter11:2度目の降格

 2008年、レイソルは天皇杯で決勝戦まで昇り詰めた。しかしそこで大谷は左膝を負傷してしまう。シーズンオフに入り、数日が過ぎても腫れが引かなかったため、病院で検査を受けたところ、「軟骨損傷」との診断を受けた。
「ドクターから『今日の午後、空いているから手術しよう』と言われたんです。でもその日は用事があったし、翌週から沖縄に行く予定だったんですよ(笑)。でもクラブ側と話し合って、午後に手術を受けました」
 2009年シーズンは怪我で出遅れ、チームも開幕から下位に低迷する苦しいシーズンとなった。あの年を振り返り、大谷は「2005年とは全然違う降格だった」と言う。05年は何もできないもどかしい気持ちを抱きながらシーズンを戦っていたが、09年は立場が違った。キャプテンとして尽力し、シーズンの終盤には選手たちに呼びかけて決起集会を開き、互いに腹を割って話し合う場を設けた。
「若い選手に背負わせてはいけないから主力だけで決起集会をやりました。(大津)祐樹だけは試合に出ていたので呼びましたけど、あいつもプレッシャーを感じていただろうから、少しでも楽にしてあげたかった」
 決起集会では選手全員が、それぞれ感じていることを打ち明けた。ポポ(現神戸)の発した「ミスが多くてチームに迷惑をかけてしまっている。なかなか試合に出られず、みんなの力になれなくて申し訳ない。でも試合に出たら僕は全力で頑張る」という気持ちの籠った言葉に、大谷は目頭が熱くなった。選手間に溝が生じていた05年とは異なり、09年のチームは間違いなくひとつになっていた。
「降格はしてしまったけど、良いチームだなと思いました」
 大谷のその言葉が全てであろう。現にシーズン終了後に、自らの意思でレイソルを離れる選手は誰一人としておらず、固く結束されたチームは2010年のJ2を戦い、首位を独走する。11月23日、第36節横浜FC戦で勝利を収めた後、大谷はJ2優勝のシャーレを掲げた。

Chapter12:いつまでも

 そして2011年の今、キャプテンとして、中盤を支える大黒柱として、大谷はJ1で首位を走るチームをピッチの内外と問わず支えている。
「レイソルが今後優勝するチームになるためにも、今年ギリギリで残留するようでは話にならない。サッカーはミスの多いスポーツだけど、ミスをして消極的になるのが降格するチームだと思う。でも去年から、みんながミスを恐れず積極的にプレーできている」
 現在の好調の理由をそう説いた。今後は様々な優勝カップを掲げるキャプテンの重要な責務を果たしてもらわねばならないが、ひょっとしたら大谷は、これからレイソルが刻む長い歴史の中でもJ1のシャーレを掲げる最初のキャプテンとして、その名を残すかもしれない。
 最後に。ホームタウンで育ち、ジュニアユースから一貫してレイソルのユニフォームを着る生え抜きだけに、大谷はサッカー選手の"先の人生"をどう考えているのか。
「まずは1年でも長く現役を続けるのがあったうえで、その後はアカデミーで子どもたちにサッカーを教えたいというのがありますし、全く違うことをやりたい気持ちもあります。これからやりたいことが見つかるかもしれませんから」
 漠然とした質問にもかかわらず、落ち着いた口調で答える。ただ、大谷がいずれの道を歩むにせよ、自身、現役の間は「生涯レイソル」という思いしかないという。そしてそれは彼のみならず、レイソルに関わる全ての人の願いでもある。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:「ほうれん草とチキンのカレークリームパスタ」サラダ、パン(ライス)、ドルチェ、ドリンク付き

photo_goodmeal

『Restaurant Cafe Bar Mare@(マレア)』

  • 柏市若葉町1-1
  • TEL:04-7167-1170
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」東口徒歩8分
  • 営業時間:11:30~14:30、17:30~23:00
  • 定休日:月曜日
  • http://www.geocities.jp/kashiwa_mare/
  • COMENTS:ワイン、料理を中心に大人の方が楽しめるようなスタイルでやっております。ちょっとした前菜、おつまみから、お肉料理まで幅広く揃えてあります。  基本的にはイタリア料理の伝統を崩さないようにしながら、日本の食材を使用したり、シェフのアイデアを取り入れ、創作料理のような形でやっております。またシェフの他、パティシエも置いていましてデザートも専門でやっています。  レイソルの選手にはプライベートでも利用していただき感謝しています。家族でもご来店してくださる選手もいます。いつも応援していますので頑張ってください。

≪ 一覧へ戻る

All Rights Reserved, Copyright (C) KASHIWA REYSOL