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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

田中順也

驚異的なパワーと正確性を兼ね備えた左足
小さかった身体を恨むことなく、日が暮れてもボールを蹴り続け
自分の身体と心を磨き続けた努力の賜物だ
ぶちあたった壁を乗り越えるたびに大きな成長を遂げてきた
その軌跡を懐かしむように語り始めた

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 11

Chapter01:荒削りからの脱却

 今まではあんまり考えてサッカーをやったことがなかったんです(笑)。ガムシャラに突進してシュートを『ゴン!』と打つような感じだったんで」
 田中順也は生まれながらのアタッカーである。生粋のレフティーで、幼き頃からその独自の感性をそのままプレーに体現するタイプだった。
 そんな彼のスタイルに変化をきたしているのがネルシーニョ監督との出会いだ。「引きすぎるな。動きすぎるな。良いところでボールを貰え」と智将から何度も叱られ、それによって田中は常に思考を巡らしながら、自分の長所をより生かす術を学んでいる。
「まだまだ下手ですけど、少しずつわかってきました」
 当初は監督の指示を理解するのに苦労していたが、次第にその意図を吸収し始めると、顕著に結果にも表れていく。2010年J2第10節の愛媛FC戦、ここで念願のプロ入り初ゴールを叩き込み、第12節FC岐阜戦、第13節徳島ヴォルティス戦と立て続けにゴールを挙げて、第17節のギラヴァンツ北九州戦では得意の突破で攻撃にアクセントを与えてゲームの流れを変えた。

Chapter02:千葉ダービーの主役

 そして、まさに田中の独壇場と言える試合が、第19節のジェフ千葉戦である。試合開始わずか2分で菅野孝憲が一発退場。PKも決められ、レイソルは0-1のビハインドと数的不利を背負った。
「失点から2、3分後でしたよね。良い位置でFKを取れて。レアンドロもキッカーを譲ってくれて。僕の得意な位置だったのでシュート性の強いボールを蹴りました」
 田中の強烈な左足が相手のオウンゴールを誘発した。すぐさま同点に追いついたことはレイソルの士気を大いに引き上げ、数的不利ながらもその後の試合を有利に運んだ。
「試合前、監督が酒井(宏樹)に言っていたんです。『危ない状況だったら無理に繋がずに蹴っていい』って」
 後半26分、中盤から酒井へバックパスが送られ、千葉の選手が寄せた時に、田中の頭にはそのネルシーニョ監督の言葉が頭をよぎった。「あいつ、蹴るんじゃないかな...」。そう感じ、相手DFとの駆け引きをしながら、田中は相手よりも一瞬速く動き出した。予想通り、酒井は前線へロングボールを送った。マーク・ミリガンは完全に対応に遅れ、青木良太も田中の動き出しに後手を踏んだ。
「酒井はクリアをしたんだと思います。本当にルーズなボールでしたから(笑)。でも速く動き出していたおかげで、あのボールへの主導権は僕にあったんです」
 バウンドの瞬間にDFと体を入れ替え、足元に来たボールを得意の左足で叩いた。ゴールネットが揺れた。サポーターの歓喜で日立台全体が地響きを起こした。
 独特の感性、持ち味である突進力、そしてプロ加入以降、ネルシーニョ監督の指示に対して常に思考を巡らせる、それらが見事に合致し、田中の成長を示すゴールとなった。
 今もなお、サッカー選手として成長過程にある田中順也。そのスタート地点は、自由奔放に育った少年期にある。

Chapter03:自然と磨かれた左足

 幼少期の田中順也は、とにかく"蹴ること"が大好きだった。それはボールでなくてもよかった。目の前に姉のぬいぐるみがあれば、それさえも左足で蹴り飛ばしていたという。
 生まれつき、手、足とも左利きだが、極力右手を使うように幼少期に訓練をしたため、食事と書くことは右利き、スポーツに限り左利きとなった。
 そして、その幼少期に東京から埼玉県比企郡川島町へと移り住んだ。
「幼稚園に入ってからは、毎日広いグラウンドで伸び伸びとサッカーをやっていました」
 グラウンドの他にも、サッカーをできる広い場所が多分にあり、そういう点では恵まれた環境で育った。田中は気の向くままドリブルで疾走し、思い切り左足でボールを蹴って遊んだ。後に田中の武器となるスピードに乗ったドリブルと左足キック、その礎が幼少期にはあった。
 幼稚園年長時に東京都板橋区に戻り、高島平サッカークラブに入団した。当時のポジションはFWかGK。あまりにも両極端だが、GK起用には周囲の子たちよりも反射神経が鋭く、しかもボールを怖がらないという理由があったからだ。
「GKをやった時期もあったけど攻撃的な性格なので、やっぱり点を取りたいと思って」
 田中は本能的にFWを選び、それ以降は常に攻撃的なポジションを務めることになる。
 高島平SCの活動は土日のみ。したがって小学校高学年にもなると、その2日間だけでは物足りず、サッカーへの欲が増した。
「学校の友達で、三菱養和でプレーしている奴がいたんです。僕も高島平だけでは物足りなかったので、話を聞いて養和でやりたいと思うようになりました」
 始めは三菱養和サッカースクールの水曜クラスに入ったが、もっと高いレベルを希望して、すぐにより本格的な月木クラスへ籍を移した。小学校5年からの加入によって、ジュニアユースにはセレクション免除の「内部推薦」で昇格し、中学からは三菱養和SCジュニアユースの一員となった。

Chapter04:身体の成長の壁

 ここまでは順調だった。しかしジュニアユースでは体格差に悩まされた。中学時代、田中は身長150センチ。小柄ゆえにフィジカルコンタクトに勝てず、ベンチを温める日々が続いた。
「体で負けちゃうのでドリブルでは相手を抜けないんです。だから抜かなくても勝負をできるようにキックの練習をかなりやりました。それは今に生きていると思います」
 田中はサブだった3年間を振り返り「中学時代には思い出はないです」と言い切る。だが、それでも彼にとって幸運だったのは、三菱養和が字のごとく「和を養う」クラブだったため、希望さえすれば一人の落選もなしに全員がユースへ昇格できたことだった。
「運が良かったんです。僕の1つ下の代からは方針が変わって、スタメンじゃない選手は上がりづらくなりました。それに僕の代のスタメンの選手が『高校選手権に出たい』と言って、帝京高校や国士舘高校に行く奴が多くて主力がゴソッと抜けたんです」
 だがそんな彼が、後に三菱養和ユースで、"エース"の称号を手にするのである。

Chapter05:身体の劇的な成長

 「お前、中学の時に本当に試合に出てなかったの?」  田中のプレーに驚いた三菱養和ユースの先輩が訝しげに訊ねてきた。  2003年の春。ユースへ上がった田中自身も、練習では周囲の遅さを感じていた。ジュニアユースよりもさらにレベルが上がっているにもかかわらず、「できる」とユースでのプレーに手応えを感じていた。
「中3の終わりぐらいから背が伸び始めて高校に入った時には174センチぐらいになったんです。あとは受験でサッカーをしていない時にいろんな試合を見ていたので、イマジネーションの部分が磨かれたんだと思います」
 もともとスピードに乗った突破は子どもの頃から得意としていた。体格が出来上がったことによってストライドが伸び、キック力も増幅された。
 FWに限り、三菱養和ではユニークなスタメン起用法を実践していた。試合、練習、すべてにおいて最も点を取った選手が常にスタメンを張る方針であったため、田中は普段の練習から結果にはこだわり続けた。
 当時、田中がイメージを描いてプレーしていたのがインテルに在籍していたアドリアーノ。「ゴリゴリにドリブルして左に持っていってドカンと打つプレースタイルでした」と振り返るように、田中は得点を重ね、レギュラーポジションを勝ち取った。高校3年になると背番号10を託され、三菱養和のエースに君臨した。

Chapter06:宿敵だったレイソル

 2005年、関東クラブユース選手権1次予選ではレイソルと同居。桐畑和繁、柳澤隼(現鳥栖)、船山貴之(現栃木)、1つ下の代に大島嵩弘(現AC長野パルセイロ)がいたという、田中の言葉を借りれば「やばいチーム」である。そのチームを自らのゴールで2-1と撃破し、三菱養和は全国大会の日本クラブユース選手権へ駒を進めた。
 全国にはさらなる強敵が待ち受けていた。FCみやぎバルセロナユースには香川真司(現ドルトムント)、広島ユースには槙野智章(現ケルン)、柏木陽介(現浦和)、G大阪ユースには安田理大(現フィテッセ)といった現在日本代表に名を連ねる錚々たる顔ぶれが集った。
 三菱養和がグループリーグで対戦した横浜FMユースにはハーフナー・マイク(現甲府)、名古屋U-18には吉田麻也(現VVVフェンロー)が在籍しており、田中は3ゴールを挙げたものの横浜FMと名古屋には屈し、1勝2敗で大会から姿を消した。
 それから数ヵ月後が過ぎた2005年12月11日。Jユースカップ2回戦でレイソルと三菱養和は再び相まみえ、田中はこの時初めて日立台のピッチに立った。
「あの試合はヤナギがいなくて、レイソルは船山中心のチームでした。船山を疲れさせるために前半は守備的に戦いました」
 前半にレイソルが先制したが、後半にペースを掴んだ三菱養和は、71分に田中の折り返しを味方が決めて同点ゴールが生まれる。そしてその9分後、左からのパスに対し、田中はダイレクトで得意の左足を振り抜いた。ミドルレンジの強烈なシュートがGK桐畑の手元を射抜き、ゴール右へ突き刺さった。
 2-1という8ヶ月前と同じスコアで、三菱養和はまたしてもレイソルを打ち破ったのである。

Chapter07:一般試験で順大へ

 レイソルを撃破したが、三菱養和は準々決勝で横浜F・マリノスユースにPK戦の末に敗れた。
 2005年12月。田中はまだ進路が決まっていなかった。三菱養和が夏のクラブユース選手権で目立った成績を残せなかったことによって、有力大学への『スポーツ推薦』を得るに至らず。石崎信弘監督(現札幌監督)率いる東京ヴェルディの練習にも参加したのだがプロへの門戸も開かれなかった。したがって田中は『一般推薦』による大学進学を決め、進学先には関東大学リーグ1部の順天堂大学を選んだ。
「順大のサッカー部は小論文を書いて、監督の許可を得られないと入部できないんですよ。将来の展望をしっかりと持っている人しか入れないんです。スポーツ推薦の人は免除なんですけど(苦笑)」
 プロサッカー選手になりたい。そのためにどのように大学生活を過ごすか。田中はその想いを綴った。1度目に書いたものは却下されたものの、2度目の提出で吉村雅文監督の許可を得て、晴れてサッカー部の一員となれた。しかし、ハードルはそれだけではなかった。『クーパー走』と呼ばれる、年齢・性別による有酸素運動時の体力区分を示すテストがある。そこで一定の基準を満たす結果を残さなければ、試合はおろか練習にすら参加させてもらえない。
「3300mを12分間で走りました。体力には自信があったのでそこは問題なかったです。でもBチームからのスタートでした」

Chapter08:すぐに認められた力

 Aチームは関東大学リーグ1部でプレーする一方で、順大のBチームは千葉県リーグに属していた。ただし、Bチームでは頭一つ抜けていた実力を持っていた田中は試合に登用され、吉村監督が視察に来た国際武道大との試合でゴールを挙げて、その活躍が認められた。入学後、わずか数カ月でAチームに昇格した。
 Aチームは錚々たる顔ぶれだった。4年生には小宮山尊信(現川崎)、佐藤健太郎(現山形)、そして2学年上には村上佑介がいた。
 村上とのエピソードを訊ねた。田中は口元こそ緩ませてはいるが、表情をしかめ、慎重に言葉を選んだ後、こう答えた。
「ムラさんは...とてつもなく怖かったですよ。僕と大ちゃん(伊藤大介/現千葉)はよく叱られましたね。でも順大は体育の教師になる人が多いので、人間教育という面がしっかりしているんです。ムラさんに叱られましたけど、そのおかげで僕も人として成長できたと思います」
 なおも田中は、現在レイソルの選手会長を務める村上の辣腕についても「そういう影響力を持った人ですよね。尊敬できる先輩です」と称えた。
 2007年、田中が大学2年時の関東大学リーグでは林陵平、長友佑都(現インテル)を擁する明治大学が圧倒的な強さを見せていた。ゴールラッシュを続ける林のプレーを目の当たりにして「何だ、この人...。凄いなぁ」と衝撃を受けていた。

Chapter09:レイソルの一員

 プロサッカー選手への願望を抱いていた気持ちとは対照的に、大学2年時までの田中には「本当にプロサッカー選手になれるのか」という疑念が自分自身にはあった。Jクラブとの練習試合はことごとく大差で敗れ、田中自身も一度も大学選抜に選ばれず、スカウトの目には留まらなかったからだ。
 しかし、先輩である村上佑介の存在が、田中の行く末に大きな影響を及ぼすのである。当時、レイソルのスカウトを務めていた下平隆宏(現U-18監督)が村上の視察に訪れていた時、田中のプレーに目を引かれた。それがキッカケとなって大学3年の夏にレイソルの練習に参加。大阪体育大4年の橋本和、専修大3年の渡部博文、そして柏U-18の相馬大士ら、後にチームメイトになる選手らとともにプレーをした。この時に初めて、田中はそれまでの疑念が消え去り、「もしかしたらプロになれるかも...」という希望が膨らんだ。
 その練習参加でアピールに成功すると、翌年の鹿児島キャンプにも呼ばれた。6月にはレイソルから特別指定選手に打診を受け、7月からチームに合流することが決まった。 「ちょうど監督がネルシーニョに替わったんです。これはもしかしたらチャンスかもしれないと思って、練習でアピールしたんです。でも本当に使ってくれると思いませんでした(笑)」  ネルシーニョの、好調の選手を起用するという方針と選手の能力を見極める鋭い観察眼は田中の存在を見逃しはしなかった。
「若くても学生でも、良いプレーをしていれば私は迷わず起用します」
 特別指定選手の抜擢を問われた智将は、おくびにも出さずにその理由を語った。
2009年J1第20節のヴィッセル神戸戦でベンチ入りした田中は、翌第21節ジェフ千葉戦においてスタメンデビューを飾った。第22節の浦和レッズ戦では、大津祐樹、菅沼実(現磐田)と素晴らしい連携で相手守備陣を翻弄。4-1とネルシーニョ体制初勝利に貢献している。
 当初は1ヶ月だった練習参加は、レイソル側からチームに残ることを慰留された。順天堂大サッカー部監督・吉村雅文も「高いレベルでプレーしてこい」と理解を示してくれた。田中は大学の後期リーグではなく、Jリーグに全力を注いだ。
「でもプロの世界は点を取ってなんぼ。僕は9試合に出ましたけど、特別指定の時は1点も取れなかった」
 第33節、NACK5スタジアムで行われた大宮アルディージャ戦は、勝利が絶対条件であるため、途中から得点を期待されて攻撃型の左サイドバックで出場した。だが1-1で引き分けたレイソルは、敢え無くJ2降格が決まってしまった。田中には、自分を必要としてくれたチームの窮地を救えなかったという悔しさがあった。
「翌年はJ1昇格に貢献したいと思いました。ファンも温かく接してくださり、僕にはレイソルに入らない理由がどこにもありませんでした」
 2010年。こうして田中は、正式にレイソルの一員となったのである。

Chapter10:スタンダード

 J1復帰へ向け、チーム力の向上を目指すネルシーニョは2010年シーズン、田中へも質の高いプレーを要求し、ルーキーだからとはいえ容赦はしなかった。
「ネルシーニョの戦術の指示は本当に細かいんですよ(苦笑)」
 細かな戦術を理解できずに当初は悩み、そのためメンバー外も味わった。だが、思考内で整理がつくと、自分の持ち味の発揮する術を身に付けていった。結果、24試合6ゴールという好成績を収め、シーズン初めに掲げた「5ゴール」という目標をクリアした。
 さらに昇格を決めた第33節FC岐阜戦では高い位置のインターセプトから2点目の起点になり、第36節横浜FC戦ではダメ押しゴールでJ2優勝にも貢献している。
「でも去年のプレーには波がありました。これからJ1でやっていくために、自分のスタンダードをもっと引き上げなければいけないと思います」
 田中の言う"スタンダード"とは、あのジェフ千葉戦でのパフォーマンスである。J1クラスの相手を凌駕した縦横無尽の突破と左足キック。「あれを自分の最低レベルのプレーにしたい」と見据えるスタンダードについてそう説明する。
 その意識の高さは目に見えて表れていると言っていいのではないか。2011年シーズン開幕戦の清水エスパルス戦では、2年連続開幕スタメンを飾り、大津祐樹との2トップで相手の守備陣をかく乱。3-0の快勝劇の引き金となり、スタンダード向上を強く印象付けたのだから。
「今年は2チームできるぐらい良い選手が入ってきた。みんな良い選手なので学べるところはしっかり学んで、そこに僕の長所である得点力を加えて、もっと選手として成長していきたい。今年はもっと活躍したい」
 真っ直ぐな視線と歯切れの良い口調が決意の強さを物語る。

Chapter11:遅咲きの花に

 そんな田中は自分自身を「遅咲き」と評している。"大器晩成"という言葉があるように、田中は確かに粗削りな面こそ残るが、その分多くの伸びしろを携えており、ネルシーニョ監督の指導を受け、あるいはジョルジ・ワグネルや兵働昭弘といった同じ左利きの名手から多くを学び、そして何より彼自身が努力を重ねることによって「毎シーズンJ1で10得点以上できる選手」「チームの顔と呼べる選手」という将来の大成を誓う。
 また、オフ・ザ・ピッチについて問うと「今年から趣味を増やしたいんです」と笑顔を見せた。ルーキーイヤーはとにかくガムシャラに走り抜けてきた。その中で、これまでの趣味と言えばファッションだったが、2年目を迎え、以前よりも気持ちに余裕が生じ、オンとオフのメリハリをつけるためにも、新たに趣味を持ちたいというのが本心だ。
「考えているのは語学を習いに行くことです。今までも『やろう』と思っているのになかなか実行できなかったので、そんな自分をそろそろ打開しようと思っています(苦笑)」
 サッカー選手としてだけでなく、一人の人間として大いなる可能性を秘める23歳の若者。その大成が、今から待ち遠しい。

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