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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
北嶋秀朗
新天地を求め、柏から清水へ旅立ったエース
古巣の窮地に胸を痛め、舞い戻る決断を下した
痛みを抱える身体に鞭を打ち、仲間を奮い立たせながら
いまなおエースであり続ける魂のストライカーは
柏レイソルでのセカンドシーズンを熱く走り続ける
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
口元深く、まるで顔を覆い隠すようにマフラーを巻いていたのは、寒さのせいだけではなく、自分がこの場所に来ていることを、誰にも気づかれたくなかったからだ。チケットを手に入場口を通過すると、バックスタンド端の席に座った。2004年12月12日。北嶋秀朗は、アビスパ福岡との入れ替え戦を観戦するため、1人で日立台へ訪れていた。
2-0で勝利したレイソルの残留決定を見届けた後は、来た時と同様雑踏の中に紛れ込み、安堵の思いとともに帰路についた。2003年から清水エスパルスに籍を移したが、心の中にはいつも柏レイソルというチームがあった。
それから1年後の2005年12月10日。天皇杯5回戦で、サンフレッチェ広島を3-0で下した清水が準々決勝進出を決めていた。試合終了後、北嶋はメディア対応を済ませてバスに乗り込むと、真っ先に携帯電話を開いた。すでに日立台で始まっている入れ替え戦の経過が気になっていた。
そしてそのスコアを見た北嶋は、はっと息を飲んだ。レイソルは失点に失点を重ね、最終的に2-6で敗れた。古巣の大敗に、1人、バスの中で愕然としていた。
数日後、清水から北嶋に契約更新の意向が伝えられた。いつも心の中にレイソルがあったのは事実だが、清水もまた「最良のチームに出会えた」と感じていただけに、この新年度の契約掲示をありがたく受諾するつもりだった。この時点では、翌年もオレンジ色のユニフォームに袖を通すことに、何の疑いもなかった。
だが年が明けた2006年、北嶋の元にレイソルからのオファーが届いた。
「嬉しかったけど、即決で『行きます』とはできなかった。エスパルスもやばいぐらいに好きだったから。それに、エスパルスに何も残せていない自分がいたのもわかっていましたし。いろんな思いがありましたよ」
それがオファーを受け取った時の率直な心境だった。
この『レイソルが北嶋獲得へ』という報が新聞紙面に掲載されると、当時開設していた自身のホームページでは凄まじい反響が起こった。掲示板には、レイソルサポーターからは「帰ってきてくれ」と復帰を懇願する声が多数書き込まれ、一方の清水サポーターもまた「行かないで」と、北嶋を清水に繋ぎとめておこうとする気持ちを書き連ねた。
愛する2つのクラブの狭間で、北嶋には複雑な思いが入り乱れた。その葛藤ゆえ、「どうすりゃいいんだ......」と、自らの進むべき道を見出せずに頭を抱えた。
北嶋は旧知の仲である平山智規(現スクールコーチ)に相談を持ちかけるべく、電話をかけて心境を打ち明けた。それを聞いた平山は、北嶋にこう伝えた。
「俺も残るし、お前はレイソルに来るべきだと思う。また一緒にやろう」
この言葉を聞いた瞬間、ひとつの道筋が見えたような気がした。もちろん清水との別れは断腸の思いであったが、クラブ史上初の降格を喫し、危機に瀕しているレイソルを救う。そう決心が固まった。
こうして4年ぶりにレイソルへの復帰を果たした北嶋は、あえて合同自主トレには参加せず、1月20日の全体練習始動日にチームに合流。新メンバーとはその時に顔を合わせたが、以前とは大多数の選手が入れ替わっていた。
「メンツも替わったどころじゃないですよ。一緒にやっていたのは(南)雄太(現・熊本)、シューシャ(平山)、タニ(大谷秀和)、ドゥー(近藤直也)、ウノ(宇野沢祐次/現AC長野パルセイロ)、そのぐらいでした」
ただ、その中でも北嶋の知っているレイソルと何ら変わりない部分も多々あった。クラブハウスのトレーナールームに足を踏み込むと、4年前と同じスタッフが、4年前と同じように北嶋を迎え入れてくれた。さらに練習後、クラブハウスの風呂に入った時にも、"レイソルらしさ"を感じ取った。
「帰って来たんだな......」
変わらない空気を肌で感じ、懐かしくも嬉しい気分に浸った。
2月1日から始まった鹿児島キャンプは、ハードながらも順調にコンディションを仕上げていき、練習試合ではチーム最多となる5ゴールを挙げた。前線の軸として申し分はなかった。北嶋は万全の状態で開幕を迎えることができた。
2006年3月4日、J2リーグ開幕。相手は湘南ベルマーレ。試合前の日立台の匂い、耳にするサポーターの応援、踏みしめる芝の感触、そして目に映る黄色く染まるスタンド......。あらゆる感覚でレイソル復帰を実感すると、言葉にできぬ感慨深さがこみ上げた。
主審のホイッスルが高らかに鳴り響いた。それは試合のキックオフと同時に、北嶋秀朗のレイソルでの第2章の始まりを告げる笛の音でもあった。
2006年3月4日、J2リーグ開幕の湘南ベルマーレ戦。北嶋の調子は良かった。動きに切れがあり、ポストプレーでチャンスを演出、自らも果敢にゴールを狙った。しかし、北嶋は訪れた2度の決定的な場面でシュートを外してしまい、チームは試合終了間際に追いつかれて1-1の引き分けに終わった。興奮、緊張、感慨、それらが試合終了の瞬間には別の感情となって北嶋を襲った。
「キャンプでは調子が良くて点を取り続けていたから、開幕戦で取れなくて、点を取る感覚を失くしたくない、取れなくなるのが嫌だという恐怖を感じました」
翌週のトレーニングでは居残りをして入念にシュート練習を行った。恐怖心を払拭させるにはゴールを決めるしかなかった。
そして迎えた第2節の草津戦、北嶋は20分に小林亮(現・山形)のグラウンダークロスに合わせて先制弾を決めると、49分にも谷澤達也(現・千葉)のパスに左足アウトサイドで合わせて2点目。恐怖心を跳ね除けると、レイソルも4-0の勝利を飾り、ここから破竹の6連勝を記録して首位を快走。その間、北嶋も3ゴールを挙げ、開幕ダッシュに成功した。
だが2006年を振り返り、北嶋は「しんどいことが多い1年だった」と語る。その「しんどい」理由は、48試合という長丁場や、波に乗り切れないチーム状態などいくつかある。さらに北嶋個人には、度重なる怪我との戦いがあった。4月に右大腿二頭筋の肉離れを起こし、以降はシーズンを通じて怪我がつきまとった。
「こういうこともありました。肋骨にヒビが入っているから麻酔を打って、膝もおかしいから麻酔を打って試合をしていた。膝に麻酔を打っているから感覚がおかしいんですよ。宙に浮いているような感じがして」
チームを思うからこそ、体に鞭を打って試合に出続けていた。だが、ついには耐えきれなくなった膝が悲鳴を上げた。11月下旬には両膝の軟骨損傷のため、その年3度目となる手術を受け、一時は両手に松葉杖を握り、歩行もままならない状態だった。
12月2日、昇格を懸けた大一番の第52節の湘南戦は、そのような状況で迎えた。メンバー外の選手も全員が試合に帯同し、北嶋も平塚競技場での一戦に加わった。
「もうなんでもいいから上がれればいいと思っていた。俺はあの時、松葉杖をついていたんだけど、試合に出ている選手と気持ちは変わらなかったから、昇格が決まった時は本当に嬉しかったですよ」
昇格の原動力に北嶋はサポーターの存在を挙げ、彼らへの讃辞を惜しまない。シーズン中、敗戦を喫した直後にはサポーターからのブーイングを覚悟した試合があった。ところがブーイングはおろか、左胸をドンドンと叩き「次だ!次頑張れ!」と励まし、鼓舞され、そんなサポーターの姿に心を打たれた。それ以来、北嶋は右手で左胸を叩くゴールパフォーマンスをするようになったが、それはサポーターの熱い声援に対する北嶋の返答でもある。
1年でJ1へ戻ったレイソルは、2007年は開幕当初から勝点を積み上げ、第5節には首位に立った。北嶋はあの快進撃こう解説する。
「チュンソン(李忠成/現・広島)が良い感じで出てきて、ミノル(菅沼実/現・磐田)が愛媛から戻り、タツ(鈴木達也/現FC東京)がJ2の1年間で自信を培った。あとは古賀(正紘/現・磐田)の加入は、ここ数年のレイソルの補強の中でも一番ぐらいの大成功だったと思う。そういうのが噛み合っていましたよね」
北嶋自身は怪我の影響もあり、復帰は中断期間の明けた8月となった。当時、指揮していた石崎信弘監督(現・札幌監督)が、「キタジとユキヒコは信頼できるからこそ、スタメンじゃなくてベンチに置いてるんじゃよ」と北嶋と佐藤由紀彦(現V・ファーレン長崎)の起用法について言及したことがあったが、その言葉どおり、復帰後は途中出場ながら多くの試合に出場し、流れを変える交代のカードとして、あるいは試合を締めるクローザーとしての役割を、佐藤ともに担っていた。
目標の「勝点45」に到達した第26節の川崎フロンターレ戦では、81分からピッチに登場。ゴール前に飛び込む動きで、復活ゴールが近いことを匂わせると、実際に第31節の横浜FC戦では太田圭輔(現・千葉)のクロスと李忠成のすらしに合わせ、現在レイソルのゴールマウスを守る菅野孝憲から先制のヘディングシュートを決めた。
「昔から柏の葉が好きなんですよ。めちゃめちゃ相性が良くて」
振り返る北嶋本人が思わず顔を綻ばせる復活のゴール。この一発により、翌2008年のさらなる活躍が期待された。
しかし北嶋の膝にまたしても異変が起こる。2008年1月、左膝の手術を受けることになると、北嶋は悲嘆に暮れた。
2008年1月。左膝の手術を受けた北嶋は、当初は悲嘆に暮れたものの、不屈の闘志でまたしてもこの苦難を乗り越えた。開幕から遅れること1ヶ月半、北嶋は見事ピッチへ帰ってきた。
本当の意味で北嶋が復活を果たすのは7月26日、第19節の京都サンガ戦のことである。その前の東京ヴェルディ戦でフランサが負傷、李忠成(現・広島)は北京五輪へ向かった。こうなると頼れるFWは北嶋しかいない。京都戦のスタメン出場は、東京V戦後にはすでに濃厚だった。
「絶対に点を取ることを自分との約束にしていた。それまでプロで14年やってきたけど、その試合は俺にとってのターニングポイントだなと思った」
1-2と1点ビハインドで迎えた後半6分、藏川洋平のパスにダイレクトで合わせ、ゴールを挙げた。チームの魂である北嶋の復活弾に、日立台は大いに揺れた。
秋になると、チームは夏から陥った10戦未勝利という長いトンネルを抜け出し、天皇杯では快進撃を見せていく。11月、石崎信弘監督(現・札幌監督)のシーズン限りでの退任発表が、チームの結束をさらに強めた。
「あの天皇杯はイシさん(石崎監督)のために戦った。高校生が最後の大会で『一丸になろうぜ』と言うように、『イシさんと国立に行こう』というノリだったんです」
準々決勝でサンフレッチェ広島を延長の末に下し、準決勝ではFC東京を試合終了間際の李忠成のミドルシュートでねじ伏せた。劇的な勝ち上がり方で決勝まで進んだレイソルは、2009年1月1日、国立のピッチに立った。ガンバ大阪との決勝戦を、北嶋はこう回顧する。
「0-1で負けたけど、俺はベンチで見ていて全然惜しいとは思えなかった。逆に自分たちのサッカーの未熟さを感じた試合だった。逆にあれを『惜しい』で済ませてはいけないと思う」
そして2009年シーズンが幕を開ける。ヘッドコーチを務めていた高橋真一郎(現・広島ユースダイレクター)が監督に昇格し、『アクションサッカー』を掲げてさらなるステップアップを狙った。
ところが攻撃的な新戦術が浸透しない。選手個々の自由な発想を生かして多彩なサッカーをするはずが、むしろ"自由"だけが先走りし、その結果選手たちは規律や秩序を見失った。
「規律、戦術、いろんなことをグレーにし過ぎて、グラウンド上に正解が10個あった。みんな発想を出そうとするんだけど、その発想が違う方向を向いている。グラウンドを離れて選手同士のディスカッションでさえそうだったから、それはグラウンドではみんなが違うことを考えるよねっていう状況でした」
7月、ネルシーニョ監督の就任に伴い、レイソルは失っていた規律を再び取り戻した。しかし浮上のキッカケを掴めず、降格圏から抜け出せないままシーズン終盤を迎えてしまった。とうとう残り4試合、すべて勝たなければならない状況へ追い込まれた。
11月8日、第31節清水エスパルス戦。この試合で敗れれば、残留を争うライバルの結果次第では、降格が決まりかねない状況だった。だがここでネルシーニョ監督の戦術がチーム全体に染みわたり、レイソルは突如として別のチームへと生まれ変わったのである。
優勝争いをしていた清水をレイソルは終始圧倒。北嶋も後半39分から出場し、88分にはダメ押しとなる5点目を挙げた。続くアウェイの新潟戦も必勝を期して挑み、1‐0の勝利を飾った。危機的状況は変わらずとも、この連勝によって逆転残留の可能性が少なからず浮上した。
「レイソルはチーム内が崩壊しているわけじゃなかった。逆に一体になっていたから、清水と新潟に連勝した時は、逆転残留は『あるな』と思っていた」
第33節、NACK5スタジアムでの大宮戦を迎えた。残留争いの直接対決ゆえ、スタジアムは重苦しい雰囲気が取り巻く。絶対に勝たなくてはならない試合。北嶋も後半22分に投入され、得意のバックヘッドで果敢にゴールを狙った。しかしレイソルはあと一歩及ばず、試合は1-1のドローに終わり、4年ぶり2度目の降格が決まった。
試合後、報道陣に囲まれた北嶋は、振り絞るように「レイソルを守る」という言葉を口にした。実はこの時、この言葉を含め、北嶋は自分がテレビカメラに向かって何を話したか一切記憶していないという。
後日、杉山浩太(現・清水)から聞かされ、自身の言葉を初めて知った。それだけ突きつけられた現実があまりにもショックな出来事だったのは言うまでもないが、裏を返せば、北嶋が心底レイソルを思うからこそ、無意識に出た言葉だと捉えることができる。
降格が決まった大宮戦から数日後、北嶋は選手たちに2010年をどうするのかを訊ね、その時に次の言葉を必ず付け加えた。
「チャンスは1年しかない。1年で絶対に上がらないといけない。レイソルにとって2010年の1年間はものすごく重要だ」
ただ、チームへの残留を強要するつもりはなかった。もし移籍を志願する者がいれば、その考えは1人のプロサッカー選手として尊重しなければならない。そう考えていた。
「考えを聞いたら、みんな『残りますよ』と言っていたので、俺が声をかけるまでもなかったと思う。それはサポーターが今までやってきたこと、選手同士がやってきたこと、結果的にJ2に落ちたけど、そういうやってきたことが間違ってなかったから、みんながレイソルに残る決意をしたんだと思う」
北嶋が選手に声をかけるのは、何もこの時ばかりではなかった。2006年の復帰以降、北嶋は周囲への気遣いを心掛け、調子を落としている選手やメンタル的に落ちている選手がいれば、必ずそういった選手に声をかけるように努めてきた。つまり降格したからというのではなく、それまでも日常の中で「レイソルを守る」行動を続けていた。2005年のチームとの決定的な違いがそこにはあった。
同じメンバーで2010年の戦いに挑んだレイソルは、開幕当初からJ2の首位に立ち、"独走"と言っても差し支えない状態を続けている。北嶋自身、前半戦は出場機会に恵まれずに苦しい時期が続いたが、その状況を自らの手で打破し、チャンスを掴み取った。そして彼の質の高いパフォーマンスによって、チームの士気はグンと上がった。第27節の札幌戦では、ニアサイドでコースを巧みに変える得意のヘッドが炸裂。日立台を沸かせた。
実は、意外にも高校時代はヘディングが大の苦手だったという。「ヘディング=ドカンと叩くもの」と思っていたらしく、市立船橋高時代の師である布啓一郎監督(現U-19日本代表監督)から、「プロに行くならヘッドで決められるようにならないと通用しないぞ!」と強く諭されていた。そこでジャンプ力に欠ける自分がどうすればヘッドでゴールを奪えるかと考えた末に体得したのが、得意のバックヘッドだった。
「DFの前で擦らすヘディングを覚えればジャンプ力がなくても大丈夫じゃないかって思うようになったんです。プロになって2、3年経って『ヘディング=ドカン』というイメージを払拭してからは決められるようになりました。GKの前に入っていきなりコースを変えるから、そのコースを間違えなければ絶対に取られない。バックヘッドはJリーグで俺が一番上手いと思ってます(笑)」
積み上げたプロのキャリアは14年、そのうち11年はレイソルに在籍している。精神的な柱として、多大なる貢献度と存在感を発揮し、8年間に渡ってレイソルの「9」を背負うストライカーだ。同じFWとしてプロの世界を生き抜いた清水エスパルス・長谷川健太監督から伝えられた言葉が、北嶋は今でも忘れることができない。
「健太さんに言われたんです。『今、プロでDFをやっている奴らも子どもの時はみんなFWをやっていて、それがだんだん降りていって他のポジションに行ったんだ。だから今もFWをやっていることを誇りに思え』って」
そしてサッカーの他に、北嶋を語る上で欠かせない存在がある。まず、毎日通う喫茶店ボブだ。
ボブは、今や"憩いの場"以上である。北嶋が「行ってないと『やべぇ、今日ボブに行ってねぇ』って、そういう感じなんです」と表現するほど日常化しており、普段の練習後に立ち寄るのは当然のことながら、練習が午後のみの場合には、練習前と練習後、1日に2度立ち寄ることも珍しくはないそうだ。そこで大好きなアイスオーレを飲みながらサッカーノートを書き、ブログを更新する。
「『マンガ喫茶』というとマスターが怒るんで(笑)、ここはマンガがたくさんある喫茶店です。サポーターも何人か来てくれているけど、比較的そっとしておいてくれますね。ボブはそういう空間です」
そして、ボブでのひと時を過ごした後は、家族の待つ我が家へ帰宅する。夫人、2人の息子、娘。家族もまた、北嶋を支える存在としてなくてはならない。その家族について問うと
「いやぁ、なんでも嫁さんに任せっきりで、俺のパパぶりは本当にダメなんですよ」
決まってそう口にする。しかし、小学校に上がった長男の大地が、「将来はプロサッカー選手になる」と夢を語るのは、父親の大きさを感じ取り、尊敬の念を抱くからだろう。
言動、行動、プレー。そのひとつひとつに重みと、責任感と、熱い闘志をみなぎらせ、存在だけで場の空気を一変させてしまう。レイソルの選手の中には、「キタジさんがいるから」とチームの結束の理由を挙げる者もいれば、「キタジさんみたいな存在感のある選手になりたい」と話す若手もいる。
北嶋秀朗、まさしく彼には"柱石"という言葉が相応しい。
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