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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

橋本 和

181cmの身長、そして自然と身に付いていた左足のキック
左サイドバックとしてのこれ以上ない才覚の持ち主だ
故郷の関西を離れ、未知の北国・青森へ渡った高校時代、
関西大学リーグで成長を遂げるまでの道程
幼少時代の恩師が築いた縁に自然と導かれていった

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 06

Chapter01:滋賀生まれのレフティ

 「左足にボールがある時のプレーを見てほしい」
 2009年1月18日に行われた新入団発表会で、生粋のレフティはその名セリフとともにレイソルの門戸を叩いた。
 ひょっとしたら利き腕同様、先天的な利き足は右だったのかもしれない。サッカー好きの父親が、あえて左で蹴るように育てた可能性も拭いきれないという。とにかく、物心がついた時には、すでに左の足元にボールがあった。
 橋本和は1986年9月14日、滋賀県にて生を受けた。父親は学生時代にサッカー部に所属していた筋金入りのサッカー好きである。4つ年上の兄に続き、橋本も幼少の頃から遊び感覚でボールを蹴り始め、小学2年生の時に地元の高月サッカー少年団に入団した。
 5年生になり、レギュラーポジションを獲得した橋本は、背番号10を託されるストライカーとなった。橋本が小学5年と6年の2年間、チームは地区予選を突破し県大会への出場を果たした。県大会ではともに1回戦敗退に終わるも、FWとしてゴールを量産していた橋本は、滋賀県選抜に名を連ねた。

Chapter02:閉ざされかけた道

 ところが地元・高月は、サッカーを継続できない環境下にあった。
「僕らが進む中学にサッカー部がなかったんです。少年団の監督から『お前ら、結構良いもん持っているのに、もったいないな』と言われました」
 橋本たちの代が4年生の時から、高月サッカー少年団の指導に当たっていた片桐隆治は、県大会へ進むほどの実力を身につけたチームの選手たちに、このままサッカーを辞めさせてはいけないと考え、ジュニアユースのクラブチーム「バーニングブラッドFC」を立ち上げて、子どもたちの受け入れ先を作り出した。
 この片桐の思い切った行動は大成功だった。大阪体育大学サッカー部出身の片桐の指導によって、メキメキと力をつけていったバーニングブラッドFCは、後に滋賀県内で"優勝候補"と評されるほどの強豪クラブにまで成長した。チーム立ち上げからわずか2年後の2001年には、左利きのトップ下・橋本をチームの中心に据え、高円宮杯で関西大会出場を果たすまでに登り詰めた。

Chapter03:高校サッカーへの憧れ

 2000年の冬。中学2年の橋本は年末年始の風物詩でもある高校サッカー選手権に釘付けになっていた。滋賀県代表の草津東高校が、桐蔭学園や星稜高校といった強豪を破り、県勢初のベスト4まで駒を進めたからである。
 準決勝で東北の新鋭・青森山田高校に競り勝った草津東は、決勝戦で大久保嘉人(現・神戸)を擁する国見高校と対戦した。最後は国見の前に0-3で敗れたが、地元高校が残した全国大会準優勝という輝かしい結果は、橋本の意欲を大いに駆り立てた。中学卒業後には草津東へ進学してサッカーを続けるというシナリオを、おぼろげながら頭の中で描いた。
 だが人の縁は、時に意外な方向へ運命を差し向けることがある。
 橋本が中学3年の夏、バーニングブラッドFC監督の片桐が、「どうだ、お前ら。高校のセレクションを受けてみないか?」と軽い口調で、チームのメンバーに特待生セレクションの話を持ってきたのだ。奇しくも、前年の高校選手権準決勝で草津東に敗れた青森山田だった。
「片桐さんの大学時代の同期の人が、青森山田で監督をやっているというんです。それでチームのメンバー7、8人で、はるばる青森までセレクションを受けに行きました」
 9月の青森には、すでに肌寒いと感じられる風が吹き抜けていた。長袖を着こんで臨んだセレクションには、約70人中10人程度しか合格できない。しかも通常よりもハードルの高い「特待生」のセレクションだ。受験を終え、滋賀へ帰った後も、仲間と「受かってないよな」などと会話を交わしながら、合否の通知が来るのを待った。
 橋本の元へ通知が届いたのは、それから約1週間後のことである。橋本の予想に反し、結果は合格を伝えるものだった。
 とはいえ、15歳の少年にとって、親元を離れ、青森の高校への入学決断を下すのは決して容易なことではない。ただ、バーニングブラッドFCの受験者の中で、合格を勝ち取った者が、橋本の他にもう1人いたのが幸いした。
「青森の高校ですし、多分僕1人だけだったら行かなかったと思います。友達と『どうする?』『行くなら一緒に行こうな』とお互いに言って、入学を決めたんです」
 2002年4月。全国から集まった選りすぐりのツワモノに混ざり、青森県での高校生活がスタートした。
 ところが、思いもよらぬ体の変調が橋本を襲った。

Chapter04:走りたくても走れない

 青森山田高校サッカー部・黒田剛監督は、橋本を1年の時から度々Aチームのメンバーに入れた。高校での橋本はトップ下ではなく、ボランチとしての能力を買われており、セレクション合格もそれが大きな要因だった。黒田には、足元の技術が高く、左利き独特のインスピレーションを持つ橋本を、1年のうちからAチームに帯同させ、"攻撃の起点"に育てたいという狙いがあったのかもしれない。
 だがどうしても解消できない問題があった。それは橋本の体力面である。フィジカルトレーニング、特にランニングメニューでは、いつも最後尾で遅れを取っていた橋本。チーム内屈指のスタミナの少なさは歴然としていた。したがってAチームのベンチ入りこそするが、試合にはほとんど絡めなかった。
「今でもそんな走れる方じゃないですけど、青森山田の先輩や同期は『橋本和という奴はまったく走れない』と言うと思います。黒田監督からは『お前みたいな選手をAチームに入れておく俺の身にもなってくれよ。走れと言っているのに走れない奴をAチームに入れたら説得力ないだろう』って言われていましたからね(笑)」
 しかしどんなにトレーニングを積んでも橋本の運動量は上がらなかった。高校2年からは途中出場で試合に出られるようになりはした。だが1試合体力がもたないため、スタメンを張ることはまずなかった。
 ある日、某Jリーグクラブのスカウトの人間が、橋本を見に青森までやって来た。スカウトは「普段の練習態度が見たい」と黒田に懇願し、視察に訪れていることを伏せたまま、練習に打ち込む橋本に目を凝らした。
 そこで、運動量の少ない橋本のプレーを見たスカウトは、良い判断を下さずに青森を後にしてしまう。その事実を練習後、橋本は黒田からこう告げられた。
「お前がだらしなさ過ぎたから、話が全然進展しなくて帰っちゃったぞ!」

Chapter05:人生を変えた助言

 Jリーグのスカウトが視察に訪れたように、橋本の資質は十分高いものがあったと思われる。しかし、高校3年への進級を間近に控えた冬から春先にかけてのフィジカルトレーニング期間中でも、体力面に向上は表れない。そこで疑問に感じた黒田は、走りのエキスパートである陸上部の監督に、橋本の状況を説明し、意見を求めた。
「陸上部の監督から『稀に、血液内の酸素を運ぶ能力が低くて、運動量が上がらない人がいる。それを治したら走れるようになった』と聞いたらしいんです。だから『お前、いっぺん病院に行って検査してこい』と黒田監督に言われました」
 黒田の勧めどおり検査を受けると、橋本の運動量を妨げていた意外な事実が判明した。医師から、血中の鉄分が通常値よりも不足している「鉄欠乏性貧血」と診断されたのだ。
 それからは毎日練習終了後には、鉄分を点滴で投与するという治療が始まった。すると数カ月後には徐々にだが改善が見られ、緩やかな上昇線を描いて運動量は少しずつ増加し始めた。試合に出場できる体力を身につけた橋本は、ようやくスタメンの座を勝ち取った。
「早く原因がわかって、1年からスタメンで出てれば、お前のサッカー人生は変わったのにな」
 黒田は苦笑しながら、そう橋本に言ったという。

Chapter06:DFとして急成長

 また、高3になった頃は、橋本の身長が伸び始めた時期でもある。高2までは176cmだったところ、高3時には180cmを越えて、骨格が以前にも増して逞しくなった。フィジカルコンタクトに強さが加味され、空中戦の強さは青森山田の中でも群を抜いた。これによって、ポジションを中盤から最終ラインへコンバートされた。
 レギュラーとして初めての全国大会は高3の夏。2004年、島根でのインターハイだった。1回戦で東海大五高を2-0を撃破した青森山田は、2回戦で米子北高と対戦。橋本はDFながら、この試合でチーム最多の4本のシュートを放ち、攻撃を活性化させた。試合は打ち合いとなり4-4で両者譲らず、勝敗はPK戦に委ねられた。橋本は4人目のキッカーを務め、見事キックを成功させはしたが、残念ながらチームの勝利には結び付かなかった。
 秋の高円宮杯全日本ユース選手権にも出場した青森山田。Jリーグのクラブユースと対戦できるこのステージで、橋本はどうしても対峙したい2人の選手がいた。それは、ユース年代で名を馳せていたサンフレッチェ広島ユースの前田俊介(現・FC東京)と、ガンバ大阪ユースの家長昭博(現・セレッソ大阪)だった。

Chapter07:前田と家長

 橋本はバーニングブラッドFC時代に出場した関西大会で、ディアブロッサ高田FCの前田俊介(現・FC東京)と、ガンバ大阪ジュニアユースの家長昭博(現・セレッソ大阪)のプレーを目の当たりにしたことがあり、同じレフティである2人のプレーに衝撃を受けていた。
あれから3年。クラブユースと高校が集う高円宮杯全日本ユース選手権は、再び彼らと対戦するチャンスでもあった。東北を圧倒的な強さで勝ち抜き、そのチームのレギュラーとして出場していたとあって十分な自信もあった。
しかし、全国は甘くはなかった。サンフレッチェ広島ユース、ガンバ大阪ユースとの対戦はおろか、青森山田は東福岡高校に大敗を喫し、グループリーグでの早期敗退を強いられたのだ。
「なぜか青森山田は全国では組み合わせに恵まれないんですよ(苦笑)」
 そう振り返るように、とりわけ橋本が在学していた3年間は、全国大会となると早い段階で強豪とぶつかってしまい、洗礼を浴び続けた。高校生活最後の大会となった高校選手権も3回戦で市立船橋高校と当たり、善戦虚しく0-1で敗れた。

Chapter08:地元の大学へ進学

 2005年、橋本は小中学生時代の師・片桐隆治、青森山田の師・黒田剛、2人の勧めで恩師たちの出身校・大阪体育大学を進学先に選んだ。入学当初は、将来プロサッカー選手になることなど微塵にも考えておらず、「教員になってサッカーに携わりたい」という思いから、教員免許の取得にも勤しんだ。
「大学のサッカーはレベルが高いと思いました。でもそこで1年の後期リーグからレギュラーになれて、2年の時には関西選抜にも選ばれました。自分では『サッカーをやっているなぁ』という気持ちがありました」
 大阪体育大では3バックの左、あるいは左サイドバックのポジションを1年の時から掴み取り、充実感を抱いていた。
そんな橋本に心境の変化が訪れたのは、大学2年時にデンソーカップへ挑む日本大学選抜への選出がキッカケだった。大学選抜で最終ラインを組む流通経済大学3年の鎌田次郎(現・仙台)は、特別指定選手として柏レイソルにも在籍し、J2を戦っていた。隣でプレーする人が、すでにプロの世界でプレーしている現実に、橋本は多大な影響を受けた。いつしか橋本にも「自分もプロでプレーがしたい」という気持ちが芽生えた。
 それを機に自分自身の私生活を見直し、食事にも気を使い始めた。それまで以上に練習にも打ち込んだ。今までにないほどの高いモチベーションで満たされていた。

Chapter09:プロを意識した矢先に

 しかし、『好事魔多し』とはこのことか。日本大学選抜選出によって、プロのスカウトとの距離が縮まり、モチベーションも高い。そんな時、橋本の右脛に痛みが走った。診断の結果は疲労骨折。しかも痛みを押して、3年時の前期リーグに出場したため、後期リーグは全日程に渡る欠場を余儀なくされた。
さらに、橋本を失った影響もあったのか、不振に陥った大阪体育大はリーグ戦で下位に低迷し、2部リーグを勝ち上がってきた大阪教育大学との入れ替え戦へ回った。
2007年12月15日。大阪市内にある舞洲運動広場のスタンドから、橋本は仲間に念を送り続けた。
「頼む。勝ってくれ!」
 真冬の試合だったが、手のひらに汗をかいた。前半、大阪教育大に先制を許した。ビハインドを背負ったことで、どうしようもないもどかしさが橋本を襲った。ピッチ上のチームメイトたちも、刻一刻と無くなる時間に、目に見えて焦りが生じていた。大阪体育大は90分間、攻めあぐねた。そして、タイムアップのホイッスルが鳴り響くと、0-1で敗れた大阪体育大の2部降格が決定した。
「大学最後の1年間が2部になってしまったんで『俺のサッカー人生終わりやわ』って思いました。関西リーグの2部には、プロのスカウトは見に来ないと思っていたので」
 落胆した気持ちを、新シーズンが始まる頃にはなんとか奮い立たせた。チームは一致団結し、昇格と2部のチームでも唯一出場できる総理大臣杯の優勝を目標に据えた。
 また、大学4年になった橋本の身辺も慌ただしくなった。母校の長浜市立高月中学校で体育教師として教育実習をこなす傍ら、週末は滋賀と大阪を行き来し、試合に出場した。
 大阪体育大は関西2部リーグにて、圧倒的な強さで首位を快走し、総理大臣杯関西大会でも阪南大学に次ぐ2位で全国大会の出場権を手にした。
「勢いに乗っていたんです。総理大臣杯は快進撃を続けていきました」
 新潟経営大学、国士舘大学、高知大学を下した大阪体育大は、ついに決勝戦へ駒を進めた。

Chapter10:開かれたプロへの道

 2008年7月12日、長居スタジアム。総理大臣杯決勝の相手は、奇しくも関西大会決勝で大阪体育大を破った阪南大だった。
 だが、結束した大阪体育大の勢いに陰りはなかった。前半に2点を奪った後は、終盤の阪南大の猛攻を守り抜き、2-0で勝利。22年ぶりの優勝を飾った。
 当初は「2部リーグなのでスカウトは来ない」と諦めていたプロサッカー選手への道も、このタイトル獲得によって、Jリーグのスカウトたちが再び橋本に注目し始めた。8月からは数クラブの練習を渡り歩き、入団候補を絞った。そして最終的に、最も気に入ったレイソルを選択した。
「シモさん(下平隆宏/当時スカウト・現U-18監督)から熱心に誘っていただきましたし、クラブの環境、チームの雰囲気を見て入団を決めました」
 総理大臣杯の優勝、プロサッカー選手内定、さらに教員免許も取得し、最後は関西大学リーグ2部でも優勝して、1部昇格を決めた。橋本は「今になって思えば、大学4年の時は充実していました」と振り返った。
 2009年1月、レイソルに入団した橋本は、グアムと鹿児島で行われた2つのキャンプをこなし、レフティとして大いにアピールをするも、その直後に怪我をしてしまい、戦列を離れた。3月のナビスコカップでの出場を虎視眈々と狙っていただけに、この出遅れは大きく響いた。
 ようやく復帰を果たした時、チームは下位に低迷しており、とてもルーキーを起用できる状況ではなかった。
「その頃はゲームをイメージして練習ができていませんでした。調子が良くても『試合には出られない』という気持ちがどこかにあったので......」
 プロサッカー選手になれたとはいえ、試合に出場しなければ意味はない。だからこそ、チャンスは回ってこないと感じられる状況に、モチベーションを保つのは非常に困難だった。

Chapter11:2つの出会い

 日々、淡々と練習をこなしていた橋本に、夏に新たな2つの出会いが訪れた。そして、それが心境に大きな変化を与えたのである。
 まずひとつはネルシーニョ監督の就任だった。ネルシーニョ監督は、特別指定選手の田中順也のスタメン抜擢や、ユース昇格組の若手をベンチメンバーに選ぶなど、年齢や実績の分け隔てなく、練習で好プレーを見せている者にチャンスを与えていた。その采配や指導を見た橋本は、「頑張れば試合に出られる」という雰囲気を感じ取り、それからは高いモチベーションと意識を持って練習に取り組むことができた。
そしてもうひとつの出会いがパク・ドンヒョクである。言葉の壁など関係なしに、この韓国代表キャップを持つ実力者とはすぐに打ち解けた。ウォーミングアップでの2人組練習をパクと組むと、その時のちょっとしたプレーの中でも、「この人すごいわ~」と、パクのスケールの大きさを体感することがあった。練習終了後には食事にも誘われ、橋本のボケに対し、容赦なく鋭い突っ込みを入れられた。やがてパクとは、チーム内屈指の"師弟コンビ"を形成した。
「パクさんにはかわいがってもらっています。プレーでも厳しい指摘とかアドバイスされることもあります。本当に良い師、良いアニキです」

Chapter12:待ち焦がれたデビュー

 こうした2つの邂逅を経て、橋本にようやくデビューの機会が巡ってきた。2009年天皇杯3回戦、アウェイでの神戸戦だった。試合には敗れたが、個人的には「ある程度やれた」と手応えを掴むと、その一週間後の第31節清水戦でもスタメンに起用された。
「もう残り全試合勝たなければいけない状況でした。デビュー戦なのにそんな精神状態で入らなければいけなかったから、心臓がバクバクしていました(笑)」
 天皇杯の緊迫感などまったく比ではなかった。緊張で体が硬くなり、案の定ファーストプレーでトラップミスをした。だが味方から「大丈夫だ!気にするな」と声を掛けられ、日立台に詰めかけた大勢のサポーターの声援が後押ししてくれた。次第に自分の持ち味を発揮し始めた橋本は、5-0の大勝に貢献した。
 それからリーグ戦最終節までの4試合はスタメンを張った。その間、緊張が途切れることはなかった。これまでのサッカー人生の中でも、味わったことがない重圧を味わった。
 ただその一方で、最終戦の川崎戦が終了した時には「もう少し早くデビューできていれば、もっと試合ができたのに」と、シーズンの閉幕を悔やんだ。
 今季は、あの濃厚な4試合の経験を生かし、ここまで全試合に渡って出場を続けている。徐々にだが存在感が際立ち始めた。
「左足元にボールがある時のプレーを見てほしい」
 今、日立台の左サイドを蹂躙しているプレーは、入団時に放った名セリフの確固たる裏付けになろうとしている。

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