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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
工藤壮人
レイソルU-18史上最強のゴールデンエイジのストライカー
トップ昇格2年目でJ2リーグ得点王を争うまでに成長を遂げた
ここまで順調なキャリアに映るが、実は大きな壁の連続...
点獲り屋として花開くまで、人知れず重ねてきた努力と
その適性と才能を見抜いた指導者との出会いがあった
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
「帰るか。どうせ受かってないよ」
「でも一応、結果だけ見させて」
「じゃあ1人で行ってこい。ここで待っているから」
1999年、冬――。柏レイソルジュニア(U-10)のセレクションを受けた工藤壮人は、あまりの出来の悪さに、同伴した父親から結果を見ずしての帰宅を促された。だが、「納得して帰りたいから」と、"不合格"の確認に体育館へ向かった。ところが予想に反し、そこには自分の番号が掲示されていた。
「どうだ?なかっただろう?」
荷物を手に、歩み寄ってきた父親に向かって工藤は振り向き、こう言った。
「あったよ!!」
工藤とレイソルの関係は、こうして始まった。
工藤はもともと、幼稚園の時に3歳上の兄の影響でサッカーにのめり込んだ。工藤にとって兄は憧れの存在だった。兄が出場した大会に自分も出たいと願い、常に同じ道を辿ってきた。レイソルジュニアのセレクションも、兄が先に受けていたために、いつしか工藤にも「レイソルに入りたい」という気持ちが沸き上がっていた。
2000年、小学校4年になった工藤は、前年のセレクションを通過して、念願のレイソルジュニアへ入団した。
「やっぱりアイツもいる...」
真っ先に目に入ってきた新たなチームメイトを見て、工藤は心の中で呟いた。セレクションの時にひと際目立っていた体の大きな奴、彼の名は指宿洋史(現・レアル・サラゴサB)。工藤が指宿を記憶していたのは体格だけが目立っていたからではなかった。大柄にもかかわらず、セレクションでは巧みなドリブルを見せており、工藤に与えたインパクトはあまりにも強烈だったのだ。
そのほか、さすがにセレクションを通過したとあって、各チームの主力級の選手ばかりが顔を揃えた。指宿のほか、仙石廉や畑田真輝(現・甲府)は小学生ながら的確なパスを配っていた。さらに翌年に加入した比嘉厚平には、あまりのスピードとドリブルの上手さに、工藤は度肝を抜かれたという。
「僕は村井さん(一俊/ジュニア監督)から『工藤、お前は特徴がないのが特徴だ』って言われていました(笑)」
特徴のあるチームメイトとは対照的に、当時の工藤は、いわばユーティリティープレーヤー。ゆえに様々なポジションをこなし、右サイドバックにはじまり、学年が上がるとボランチを務め、仙石と中盤でコンビを組んだ。
2002年7月。レイソルは前年に引き続き、全国少年サッカー大会に出場し、優勝候補筆頭の下馬評通り順当に勝ち上がっていった。
前年の決勝戦と同一カードとなった準々決勝の静岡JFCとの一戦は「事実上の決勝戦」と言われた。レイソルはこの大一番を4-0で制し、前年のリベンジを成し遂げ、優勝へ向け一気に加速した。
8月2日、準決勝の会場である東京スタジアム(現・味の素スタジアム)は、午前中の快晴が嘘のように、午後からは生温かい空気とともに薄暗い雲が広がり、第2試合「柏レイソル対FC浦和」の試合がキックオフされる頃には稲光を伴った豪雨となった。
対戦相手のFC浦和は、武富孝介を起点としたカウンターに懸け、完全に自陣で守りを固めてレイソルの攻撃に対抗した。大量の水を含んだピッチ状況にレイソルは苦しみ、雷で試合が中断されること2回、集中力の持続にも苦労した。
「FC浦和の守備を崩せずにPKまで持ち込まれてしまいました」
工藤は苦笑いをしながら、克明に語る全国大会の記憶を、その言葉で締めくくった。結局、レイソルは0-0からPK2-4で敗れた。
残念ながら全国制覇はならなかったが、3位という好成績を収め、工藤はレイソルジュニアユースへ昇格した。小学生の千葉県選抜で顔を合わせていた酒井宏樹、FC浦和のエース武富、さらには山崎正登や島川俊郎(現・仙台)も加わり、のちに世界で高評価を得たパスサッカーを展開するメンバーが揃うことになる。
しかし、ジュニアユースの日々は工藤にとって苦悩の始まりでもあった。
ジュニアユース昇格とともに、山崎正登、武富孝介、酒井直樹、島川俊郎(現・仙台)が加わり、チームの選手層は一段と厚くなった。
しかも1学年上には輪湖直樹(現・徳島)、堀田秀平(現・札幌)、太田徹郎(現・山形)といった実力者たちが顔を揃えており、ユーティリティープレーヤーとして様々なポジションをこなしていた工藤は、この分厚い選手層の中で生き残るために、自分がいったいどのポジションに向いているのか模索し始めた。
「初めの頃は、試合に出てどこかのポジションをやっていたという記憶がないんです。多分、いろいろやっていたからだと思うんですけど」
中学1年時は、上の年代との明らかな体格差が生じているため、出場機会を得られないのはある程度仕方のないことだとしても、中学2年に上がった後も、工藤はベンチを温める日々が続いた。スタメンに手が届かないどころか、時にはベンチから外れることも珍しくはなかった。
「このままではユースには上がれない」
そう感じた工藤は、中2ながらも中学卒業後の進路について真剣に考え始める。父親の知人に、高校サッカー界きっての名門・鹿児島実業高校との関わりが強い人物がおり、そのため父親から「鹿実への進学を考えてみてはどうか」という話も持ち出された。
「もしユースへ上がれなかったら、遠いけど鹿実に行くよ」
当然、ユースへの昇格が第一だったが、工藤は父親にそう返答し、鹿実への入学を別の選択肢として見据えていた。
2004年5月。ナイキプレミアカップジャパンにおいて、柏ジュニアユースは決勝戦でサンフレッチェ広島ジュニアユースを1-0で下し、優勝を成し遂げた。だがこの時、工藤はほとんど試合に出場していない。さらにこの優勝によって、ジュニアユースは世界大会であるマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップへの出場権を手にしたが、工藤はこの遠征メンバーから漏れた。
「本当に悔しかったです。帰国してきたメンバーから『あのチームがすごかった』という話しも悔しくて聞けなかったぐらいでした」
しかし、この"メンバー外"は工藤にとって大きなターニングポイントになった。国内に残ったメンバーは、石川健太郎コーチ(現・強化本部ダイレクター)が指導に当たったが、工藤は悔しさを噛みしめながら、それまで以上に練習に取り組み、走り抜いた。
その工藤の変化を、帰国後のチームメイトも感じていた。仙石廉は当時を次のように語る。
「僕らがナイキカップから戻ってきた後ぐらいです。工藤が試合に出て活躍し始めて、それからチームの中心選手になったんです」
悔しさが工藤自身を変えたこともあるが、もうひとつ工藤にとって大きかったのは、当時ジュニアユースのコーチを務めていた吉田達磨(現アカデミーダイレクター)との出会いだった。
「工藤はいじめっ子ですから、相手の嫌がるところを見つけるのが上手い(笑)。気持ちも強くて、ひょっとしたらストライカーにすれば点を取るんじゃないかと思いました」
吉田がそう解説するように、工藤は中学2年の途中からFWへコンバートされた。システムもそれまでの4-4-2から4-1-4-1へ変わり、その移行によって1トップを担うことになった。
「1トップになってからは、毎回来たチャンスをモノにして、どうすればユースへ上がれるかを考えていました」
当時を振り返る工藤。ポジションを手にした時は、とにかく必死だったという。比嘉厚平はドリブルとスピード、仙石はパス、指宿洋史(現・レアル・サラゴサB)には高さと柔らかさ、チームメイトたちは皆、武器があった。だからこそ「自分も何かずば抜けたものがないと生き残れない」と感じていた。
走り込むタイミングやポストプレーなど、FWに必要とされるプレーについて吉田から指導を仰ぎ、「すごい努力をしていた」と吉田が太鼓判を押すほど、それらをどんどん吸収していった。工藤は「どうすれば相手の背後を突けるか」「どうすればギャップが生まれるか」を考え始め、DFにとって嫌なところへ入り込む"ゴールへの嗅覚"を、努力を積み上げながら培っていった。模索し続けてきた自分自身のポジションをようやく見出し、ストライカーとして生き残るべく、工藤は己を磨き続けた。
工藤のFWへのコンバートは大成功だった。リーグ戦でゴールを量産し始め、2005年の中学3年時には、レイソルジュニアユース(U-15)の"エースストライカー"の称号を手中にし、一時は諦めかけたユース(U-18)への昇格も無事に果たすことができた。
「FWになってからの工藤は頼れる存在という感じでした。特に大事な試合でゴールを決めていたイメージがあります」
ジュニア時代からのチームメイト、比嘉厚平は工藤のストライカーとして存在感を認めている。
2006年、関東クラブユース選手権2次予選のことである。前年の日本クラブユース選手権と高円宮杯を制し、2冠に輝いた難敵・東京Vユースとの対戦で、工藤は後半35分過ぎに交代でピッチへ登場した。そして試合終了間際にハーフウェイライン近辺から放ったロングシュートが無回転気味に不規則な変化を起こし、GKの手元で大きく落ちたシュートがネットを揺らした。勝てば全国大会出場、負ければ順位決定のプレーオフに回る大事な一戦の、非常に価値のあるゴールだった。この劇的決勝弾を決めた後、工藤はベンチにいる吉田達磨コーチの元へ駆け寄り、抱きついて喜びを表現した。
「スタメンで試合に出るようになっても気の抜いたプレーは絶対にできませんでした。実際にダメな時はイブ(指宿洋史/現・レアル・サラゴサB)に代えられた時もありましたし」
ジュニア時代からのチームメイト、指宿との存在は工藤にとっては大きかったようだ。ライバル同士互いに切磋琢磨し、ポジションを競いながら能力を高め合った。後に指宿がサイドハーフに回ることで2人は共存し、試合ではお互いの良さを引き出し合った。
2007年12月。レイソルはJユースカップで浦和ユース、東京Vユース、G大阪ユースを下し、決勝戦へ駒を進めた。工藤もコンスタントにゴールを量産して得点ランキング上位に名を連ねた。
1つ上の学年である輪湖直樹(現・徳島)、堀田秀平(現・札幌)、太田徹郎(現・山形)とプレーできる最後の大会。工藤は「優勝してみんなを送り出す」と強い決意を持って決勝戦へ臨んだ。
12月24日、長居スタジアムで対峙したのはFC東京U-18。レイソルは2失点を喫し、苦しい戦いを強いられた。後半、工藤がヘディングを決めて1点を返し、反撃の狼煙を上げたものの、1対1の強い相手DF椋原健太(現FC東京)に工藤は抑え込まれた。結局、1-2でレイソルは敗れた。長年ともにプレーしてきた仲間を勝って送り出せず、悔しさがこみ上げた。工藤は誰よりも涙を流した。
ただし、準優勝に終わったが、このJユースカップを通じた戦いぶりは、レイソルユースが標榜するパスサッカーが完成系へと近づいたため、悔しさの反面、工藤もチームも自信と手応えをつかんだ大会でもあった。
2008年が始まると、比嘉と酒井宏樹の2種登録が決まった。2009年からのトップチーム昇格内定を手にした2人に続くべく、工藤はさらにモチベーションを高めた。「トップチームへ上がるために、結果を残さなければいけない」。そう思い、チームの優勝だけでなく、「得点王」という個人タイトルにも狙いを定めた。
「7月のクラブユース選手権は自分がトップ昇格に関係してくる大会。そこの得点王へのこだわりは強かったです。結果を出してトップを勝ち取ろうという気持ちがありました」
7月26日、日本クラブユース選手権が開幕した。初戦で福岡U-18と対戦したレイソルは、工藤と指宿がそれぞれ2ゴールずつを挙げ4-2と快勝。第2戦で山形ユース、第3戦で清水ユースを下し、3連勝を飾るとともに、工藤は3試合連続の5ゴールを叩き出す活躍でチームをけん引した。
準々決勝、畑田真輝(現・甲府)のゴールでC大阪U-18に競り勝ち、ベスト4へ駒を進めたレイソルは、準決勝で宇佐美貴史(現G大阪)を擁するG大阪ユースと対戦した。ここでレイソルは「あれ以上の良い出来の試合はない」と、後に多くのメンバーが振り返るほど、完璧な試合運びを見せた。相手に付け入る隙を与えず、ほぼ90分に渡りボールを支配し続けると、0-0で迎えた59分、CKのボールをニアで指宿がヘッドで後方へすらし、ファーに飛び込んだ工藤がゴールへと押し込んだ。1-0で勝利したレイソルは決勝戦へ進んだ。
その翌日、工藤に2009年からの「トップチーム昇格」の報が伝えられた。大事な試合、ここぞという時に決められる"勝負強さ"を強化部から評価されての昇格内定だったという。
通算6得点で工藤はクラブユース選手権得点王の個人タイトルを獲得。しかし、8月3日の決勝戦、レイソルはFC東京U-18に0-1で敗れてしまう。前年のJユースカップ決勝、6月の関東クラブユース選手権決勝に続き、いずれもFC東京U-18に阻まれての3大会連続の準優勝だった。
「(FC東京への)苦手意識があったわけではないんですけど、相性が悪いというのはこんなもんなのかなと感じました」
日本クラブユース選手権を終えたレイソルU-18は、ビジャレアルで開催された国際親善大会に出場するため、8月にスペインへ遠征した。
そして、レアル・マドリードやリバプールといった世界の強豪ユースチームが集うこの大会でレイソルは3位に輝き、彼らのパスサッカーはスペインの地で高い評価を得た。「やっていて楽しかった」と、工藤も充実の日々を振り返っている。仙石廉はMVPに輝き、工藤を含めた全選手がプロへの入団を間近に控え、自分たちのやってきたサッカーに自信を深めた。
またこの後、秋の高円宮杯、冬のJユースカップでは、主力選手の怪我やコンディション不良の影響もあり、レイソルの成績はいまひとつ振るわなかった。そういった意味でも、ベストメンバーで戦うことができたクラブユース選手権とビジャレアル国際大会が、彼らの真の力を物語っている。
2009年。いよいよトップチームでの生活が始まった。だが、意気揚々とプロの世界へ飛び込んだ工藤の気持ちとは裏腹に、チームは開幕当初から下位に低迷。若手に出番はほとんど回ってこなかった。
工藤に出場機会が与えられたのは、ネルシーニョ監督が就任した後半戦だった。10月11日、天皇杯2回戦のジェフリザーブズ戦でデビューを飾り、それ以降はリーグ戦も含めて5試合連続出場を果たした。
「ただ試合に出ただけです。FWなのに点を決められずに、チームの危機を救えませんでした」
勝利に貢献できず、悔しさだけが募った。しかし新シーズンを迎えると、工藤はさらなる試練に直面した。
レイソルはフランサ、澤昌克、北嶋秀朗という申し分のない実績を持つ3人のFWに加え、シーズンオフには東京ヴェルディから林陵平を獲得していた。そのため、1月下旬から始まったグアムキャンプでの練習試合では、工藤は出番を与えられないことも多く、別メニューをこなす時もあった。
だが工藤は、その悔しさを原動力として練習へぶつけたのだ。彼の個人練習に、付きっきりで指導に当たったのが、布部陽功コーチである。布部はこう語る。
「メンタル的にはかなり落ち込んでいました。でも本人にそれを跳ね返す力があった。それを僕にぶつけてきました」
布部は工藤の長所と短所を伝え、ボールを持った時のプレー、ファーストタッチ、いかにすれば点が取れるのかなど、様々なプレーを整理させた。
若いから試合に出られなくて当然という考えではなく、工藤は試合に出場するために、全体練習終了後は、布部との個人練習に明け暮れた。
練習で全選手をしっかりと見ているネルシーニョ監督は、そんな工藤の努力を見逃さなかった。2010年のJ2が開幕すると、第3節のアビスパ福岡戦で工藤を途中出場でピッチへと送った。そして81分、相手DFの一瞬のミスを見逃さず、チームを勝利に導く決勝ゴールを挙げた。公約通り、工藤はゴール裏へ飛び込み、日立台のスタンドからこのゴールを見ていた布部も、思わず拳を突き上げた。
この決勝弾は工藤にとってだけでなく、チームにとっても本当に大きな1点だったと思われる。昨シーズンまでの課題である、"勝ち切れないレイソル"を救っただけでなく、この勝利をキッカケに、チームは「無敗」へ、向けての上昇カーブを描いたのだから。
今やJ2得点ランキングで上位につけ、1位の大黒将志がFC東京へ移籍したことで、現時点でもっともJ2得点王に近い存在となった。だが工藤は苦笑いを見せる。
「大黒さんがJ2にいて、本当に抜いて得点王を取ってこそ、価値のあるものだと思うし周囲の評価も変わってきたと思う。だから大黒さんの移籍は残念です」
さらにこの取材が行われた日は、南アフリカ・ワールドカップ、あの日本対デンマークが行われた翌日だった。帰り際、この取材の席を提供してくれたダイニングバー『CHERRY』の石井太一店長から「ぜひ4年後はブラジルで!」という言葉が投げ掛けられると、工藤は笑顔で「はい、頑張ります」と答えた。
工藤はまだ20歳と非常に若い。今後も、様々な困難や壁に直面することになるだろう。だがそれでも、工藤は努力を貫き、それを継続して、レイソルの勝利と、4年後と8年後のワールドカップ、近いところでは2年後のロンドン五輪へ向けて、能力を大きく伸ばしていくに違いない。
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