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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
村上佑介
2008年10月4日、NACK5スタジアム大宮
史上に残るデビュー戦ハットトリックの偉業
それまでの道程を振り返れば、信じられない出来事だった
何度もサッカーを諦めようともがき苦しんだとき
力になってくれた恩人に導かれ一歩ずつ進んできた道
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
幼稚園バスが到着すると、井戸端会議のように世間話を続けていた母親たちが、それぞれ子どもの名を呼んだ。夢中でボールを蹴り続けていた園児たちは、自分の名が呼ばれたことでようやくバスの到着に気づく。ボールを拾い上げ、一目散にバスへ駆け寄る子どもたち。毎日、幼稚園バスの到着時間よりも早く集合場所に向かい、友達とサッカーをする。それが村上佑介の日課だった。
2歳から静岡県清水市(現・静岡市清水区)で育った村上にとって、サッカーは物心ついた時から身近な存在だった。仲の良い友達が集まると、決まってボールを蹴って遊んでいだ。知らず知らずのうちにサッカーに引き込まれていったが、小学校へ入学した時に両親がサッカー部への入部を許可しなかったのには、ある理由があったからだ。
「習い事が長続きしなかったんです。水泳、習字、ピアノと習いましたけど、どれも途中で辞めてしまったので...」
ピアノ教室は姉と一緒に通っていたため、村上が教室をサボると、必ず先生から姉に「佑介君が来ていない」と話があった。それが母親にも伝わる。だからこそ、「どうせ長続きしない」という理由で、親はサッカー部への入部を反対したのだ。
しかし、祖父譲りの高い身体能力を持っていた村上は、室内での習い事より、外で体を動かすサッカーには幼いながらも情熱を燃やした。その並々ならぬ意欲が、両親を説得の方向へ導いた。
小学4年の終わりとともに、清水から東京へ引っ越した村上家。母親が同窓会で再会した知人の中に、府ロクサッカークラブのコーチがいた。その縁もあり、小学5年生から同クラブでサッカーを続けた。
小学生にしては体も大きく、身体能力の高い村上は、府ロクではFWとして、5年生でありながら1つ上の学年のメンバーに起用されていた。全国少年サッカー大会でベスト4まで勝ち進み、6年時は都大会敗退も東京選抜に名を連ね、韓国への遠征を経験した。ただしそこは選抜チーム。府ロクでは主力の村上も、東京選抜ではそうそう出番を与えられない。
「悔しかったですよ。もっと上手くなりたいと思いましたね。だからレベルが高いところでやろうと思って、ヴェルディジュニアユース(当時・読売日本SCジュニアユース)を選んだんです」
セレクションというものは、本来自分をアピールしたくなるもの。セレクションに参加した少年たちがみな、自分をアピールしようと攻撃的なポジションをやりたがる中にあって、「いいよ、俺が後ろやるから。前に行きなよ」と村上は周囲に気を使い、自分はDFを務めた。これが村上のサッカー人生におけるDFへの転身となり、以降は守備的なポジションに就くのだった。
ただ、セレクションには合格したものの、練習中に膝を負傷し、練習場まで通うにも長時間での電車移動を強いられていた。4ヶ月を過ぎた頃には、"高いレベルのサッカー"から"楽しいサッカー"へと求めるものが変わった。そして、中学1年の途中で読売日本SCジュニアユースから、地元の杉並区立天沼中サッカー部へ籍を移した
「僕の人生、節目節目でいろんな人の手助けがあるんですよね」
府ロクでプレーした子どもたちの大半は小学校を卒業すると、中学からその受け皿であるFC府中でサッカーを続けた。「村上が中学の部活でサッカーをやっている」と聞いた府ロクのコーチが、「それならFC府中に入れ」と促した。府ロク時代の仲間と再びプレーできたことで、村上は求めていた"楽しいサッカー"手にした。
FC府中で2年間を過ごした後は、都大会で上位に食い込める都立高校への進学を考えていた。そこで村上の背中を別の道筋へと導いたのは、FC府中監督の思いがけぬ一言である。
「友達が国士舘高校を受ける時、監督から『お前も受けろ』と言われたんです。そうしたら国士舘が僕を評価してくれて、特待生で取ってくれるという話をいただきました」
小学生の時から毎日練習場へ送迎してくれ、各地への遠征費用も惜しげもなく負担してくれた両親。村上は、そんな両親に少しでも「親孝行がしたい」という想いがあった。村上は国士舘へ入学した。
村上を待っていたのは、想像を絶する厳しい練習の日々だった。ハワイアンスタイル『HANAO CAFE』に時折吹き抜ける心地よい初夏の風を受けながら、村上は爽やかな店内の雰囲気とはあまりに似つかない苦しいエピソードを語り始めた。
それまで少年時代を溌剌と語っていた村上だったが、国士舘高校時代の話になった途端、彼の声のトーンが若干下がった。顔をややしかめて話す表情からも、当時のサッカー生活がいかに苦しいものだったか窺い知れる。
「1年の時はグラウンドの周りで声出しとか、ブラジル体操やフィジカル練習の日々でした」
通常、練習は授業終了後、午後3時から始まった。そして午後7時に全体練習が終わると、その後は各自の自主練習の時間に充てられた。しかも、上下関係が厳しく、先輩が練習を終えて帰るまで下級生は先に帰れないという暗黙の了解があった。毎日疲れ果てて、寮に帰ると泥のように眠った。幸い、朝練がなかったことは救いだったが、部の厳しい規律と練習内容は、極めて苦しいものだった。
それでも村上は、自主練習を自分の長所を伸ばすことに費やした。持ち味である身体能力や走力を鍛えるトレーニングは、本人も「苦じゃなかった」と語る。チームの中でも群を抜いた身体能力にはサッカー部監督も当然目をつけ、村上は1年生にして主力メンバーに抜擢された。
高校2年時、2001年12月30日、第80回全国高校サッカー選手権大会の開幕戦で村上は国立競技場のピッチに立った。対戦相手は名門・東福岡。スタメンで出場した村上はマッチアップした東福岡のストライカーに簡単にかわされ、先制点を献上した。決めたのは、村上と同じ2年生の池元友樹(現・北九州)だった。
「『ヒュン!』ってイケ(池元)が目の前を通っていきましたよ。僕のところから失点してしまい、東福岡に叩きのめされました」
終わってみれば0-3。国士舘はこの九州の雄に完敗し、早々と全国大会から姿を消した。
翌2002年、高校3年になった村上は東京選抜に選出され、高知で開催された国体に出場した。「選抜」と名のつくぐらいのチームだ、各チームの主力級が集うレベルの高さに刺激を受けたが、それ以上に国体3回戦で対戦した千葉選抜の強さに驚愕し、「もっともっと上手くならないといけない」と自戒した。
大谷秀和、小川佳純(現・名古屋)、原一樹(現・清水)、小宮山尊信(現・川崎)、近藤祐介(現・札幌)を擁し、圧倒的な破壊力を見せる千葉選抜の猛攻を、シュートを何本も浴びながら村上は最終ラインで耐え続けたが、東京選抜は1-0で敗れた。後に千葉選抜は、決勝戦で杉山浩太(現・清水)、谷澤達也(現・千葉)、矢野貴章(現・新潟)のいる静岡選抜をも下し、優勝を成し遂げた。
この頃、村上はある考えを抱いていた。高校卒業後の進路には、国士舘高校からそのまま国士舘大学へ進学してサッカーを続けるという選択肢があり、国士舘大学側からも誘いを受けていたが、「もっと上手くなりたい」という自分の欲求を満たしたいがために、別の大学でのプレーを望んでいたのだった。
しかし、日々の練習があるため他の大学へ自身を売り込む余裕はなく、刻々と時間だけが過ぎていく。気づけば、高校生活最後の選手権がやってきた。都大会を勝ち進み、2年連続で東京都の代表権を得たものの、1回戦で那覇西の前に3-6と敗れ、村上の高校サッカーは終わりを告げた。
果たして、他の大学も国士舘大学も、プレーの場を見つけだせなかった村上は、あるひとつの結論に達した。
「もうサッカーは辞めよう」
しかし村上のサッカー人生には、必ず誰かの手助けがあり、彼を新たな道へと導いていく。村上が子どもの頃に所属していた府ロクには、『府ロクファミリー』という東京都社会人リーグに属するクラブがある。村上は「暇しているなら、遊びがてら来いよ」と同クラブから誘いを受けたのである。
「府ロクファミリーからの誘いがなかったら、本当にサッカーを辞めていました」
府ロクファミリーで復帰した報せが、国体東京選抜時代のGKコーチに伝わり、同コーチが東京選抜成人チームのセレクションに村上を誘った。何気なくセレクションを受けた村上。高校時代には東京選抜に選ばれ、選手権にも2年連続で出場している実績から、そのセレクションには絶対に合格できるという自信があった。
だが村上は、そのセレクションに落ちた。唇を噛みしめた。体の奥底から悔しさがこみ上げた。一度は辞める決意をしたが、再び導火線に火がついた。
そんな時である。村上は順天堂大学サッカー部・吉村雅文監督から電話を受けた。
茨城県神栖市波崎には充実したサッカーの合宿施設がある。2003年某日、順天堂大学サッカー部がその波崎へ遠征した際、偶然にも国士舘高校サッカー部も同じ波崎を訪れていた。順大の監督、吉村雅文氏は、数ヶ月前に売り込みに来た村上が、その後どこの大学へ進学したのか、どこでプレーしているのかが気になり、国士舘高側に近況を訊ねたという。そこで「何もしていない」と聞いた吉村は、急遽村上に連絡を取った。
吉村から突然の電話を受け、受話器を握る村上が聞いた言葉、それは「もしやるつもりがあるのなら、来年、君をスポーツ推薦で取ろうと思っている」という、願ってもない申し入れだった。国体成人の部における東京選抜のセレクションに落選したことで、サッカーへの情熱が再燃したばかりの村上に、吉村からの申し入れを断る理由はなかった。
村上はその日から、順大サッカー部への入部を見据え、毎日走り込みを中心に自主トレを積んだ。一時はプレーの場を失い、それによってサッカーへの情熱も消えかけたが、府ロクファミリー、国体選抜コーチ、そして順大の吉村監督、様々な人たちの手助けを受けて、村上は1年間の回り道の末に順大サッカー部へ籍を置くことができた。
当時、順大は関東リーグ1部に属していたものの、残留争いの渦中にあった。村上が在学した4年間も順大が好成績を残したのは、2005年のインカレでの決勝進出のみ。しかも駒澤大学との決勝戦では、村上が原一樹(現・清水)にボールを奪われ、失点を献上し、優勝を逃している。
それでも大会を通じた村上のパフォーマンスは評価され、デンソーチャレンジカップで韓国大学選抜に挑む日本大学選抜に名を連ねた。大学選抜の試合には、Jリーグのスカウトも視察に訪れ、各スカウトが村上に接触したのもこの時。そして、村上に声を掛けた数名のスカウトの中に、レイソルの下平隆宏(現・U-18監督)の姿があった。
「身体能力が高く、攻守の切り替えも速くて、プロになれるベースは持っていると思ったけど、クロス精度に課題があった」
それが下平の抱いた村上の第一印象だった。そこで「クロス精度を高めればプロになれる」とアドバイスを送り、FC東京時代のチームメイト、佐藤由紀彦(現・V・ファーレン長崎)が毎日全体練習終了後には、必ず30分から1時間のクロス練習を欠かさず続けたエピソードを話した。
また、大学リーグの試合を録画し、村上のプレーの長所と課題を明確に編集したDVDも手渡した。こうした下平の熱意は、村上には確実に伝わり、それまでは大学卒業後は体育教師になることを考えていた村上も「もう少し夢を見てもいいのかな」と、レイソルのユニフォームに心を引き寄せられていった。
「シモさん(下平)には本当によくしていただきました。他のクラブからも誘いは受けていたんですけど、一番熱心に誘ってくれたレイソルに行こうと思いました」
2007年、正式入団の前に特別指定選手として加入。出場はなかったが、ナビスコカップ予選リーグ第6節の横浜F・マリノス戦ではベンチ入りを果たした。同年8月、バンコクで開催されたユニバーシアードでは、人生で初となる日の丸を背負い、グループリーグでマレーシア、ウルグアイに連勝した後、迎えたキルギス戦ではCKのこぼれ球を村上が押し込み、このゴールが決勝弾となってチームをベスト8に導いた。
翌2008年、高卒ルーキーの大津祐樹、同じ大学サッカー出身の鎌田次郎(現・仙台)とともに新入団を果たした村上。しかし、大津と鎌田が開幕当初からプレーの場を与えられたのとは対照的に、村上は出場機会を得られずにいた。開幕から怪我なくフル出場を続ける藏川洋平が大車輪の働きをしていたこともその理由に挙げられるが、村上はそれとは異なる別の理由も語る。
「プロサッカー選手になるという夢が叶って、それで自分が限界まで来ちゃったような気がして、なかなか最初は貪欲になれなかったんです」
石崎信弘監督(現・札幌監督)から守備面について手厳しい指摘を繰り返し受け、その課題を克服しない限り、試合では使われないことも悟った。チームは夏場から不調に陥り、勝てない日々が続く。チームの窮状に力になれないもどかしさを感じながらも、気持ちを奮い立たせ、課題の克服に努めた。
2008年10月1日のガンバ大阪戦。開幕から26試合連続フル出場の藏川が、累積4枚目の警告を受けて、次節の大宮戦が出場停止となった。その時は、「まさか自分に出番が回ってくるとは思っていなかった」と言うが、翌日の練習で石崎監督から告知があった。
「次、使おうと思っているから」
村上の表情は緊張で強張っていた。チームのメンバーたちからは「緊張が伝わってくるんだけど」と絡まれ、笑い飛ばされたが、本人にとっては気が気じゃなった。
唯一の救いは、前節のガンバ大阪戦から中2日と試合間隔が短かったことだった。試合前日は緊張のあまり眠れなかったというぐらいだ、もし試合まで1週間開いていたなら「プレッシャーで押しつぶされていたかも...」と当時の不安を語った。だが村上は、そんな緊張など微塵も感じさせないパフォーマンスを見せ、Jリーグの歴史にその名を刻んだ。
2008年10月4日、NACK5スタジアム大宮で行われた大宮戦。前半10分、アレックス(現・千葉)のCKをフランサが折り返し、右から飛び込んできた村上はヘッドでゴール左上に突き刺した。14分にも同じくアレックスのCKを頭で合わせて2点目。さらに44分には、カウンターから抜け出し、技ありのロングループでゴールネットを揺らし、勝負を決めた。
デビュー戦でのハットトリックはJリーグでは日本人史上初の快挙だった。レイソルにとっても、10試合続いた未勝利を食い止め、苦しい状況にあったチームを救った。
試合後、ミックスゾーンに現れた古賀正紘が「僕の話はいいでしょ。ムラにたっぷり聞いてください」と笑顔でバスに乗り込んでいったが、その後に登場した村上は、新聞やテレビなど、各メディアの取材攻勢を受け、額に大汗をかきながら報道陣の囲み取材を受けていた。村上が歩んできたサッカー人生の中でも、おそらく最高の日となったことだろう。
昨年のオフには、学生時代から交際を続けてきた紗希を妻に迎え、今年5月13日には待望の第一子が誕生、父親になった。息子には「やさしさ」と「強さ」を合わせ持つことを願い、『悠剛(とおご)』と名付けた。
今や悠剛は村上にとって最高の癒しとなっている。練習で疲れ果てて帰宅しても「悠剛の顔を見れば疲れていることなんて忘れちゃいますね」と表情を緩ませた。
だがその一方で、昨年までの自分自身を「甘えがあった」と顧みた。守るべきものができた今、村上が抱く責任感は以前とはまるで比べ物にならない。
「命を授かり、大人になるまで育てなければいけない。僕次第で悠剛のこれからが決まりかねないですからね」
悠剛の存在は責任感が増したことに加え、サッカーへのモチベーションにも大きく影響を及ぼしている。今季は負傷によって、チームの好調に乗り遅れたが「このまま指をくわえているわけにはいかない」と後半戦への巻き返しを宣言。さらに数年後には、成長した我が子に、「デビュー戦のような活躍を見せたいから、この世界で生き残らないといけない」と意気を高めている。
また、村上にはサッカー選手や父親の他、もうひとつの顔がある。それは『選手会長』としての村上佑介だ。
来る7月10日はレイソルのファン感謝デーが開催される。村上は、北嶋秀朗、桐畑和繁とともに入念な話し合いを持ち、選手側の意見をしっかりと取りまとめ、「こういう企画なら選手も楽しめるし、サポーターも喜んでくれるのではないか」と事業部に意見を出すなど、イベントを盛り上げるべく尽力中だ。
「選手が率先してやらないといけない」。それが"選手会長"村上のポリシーである。ファン感謝デーのイベント以外に、2008年からクラブと後援会が取り組む『エコキャップ運動』もしかり。クラブや後援会だけでなく、選手が率先して活動を行うからこそ、多くの人たちの興味や注目を集め、もっと活動を知らしめることができる。
「例えば選手が『1日店長』とか『1日署長』のようなホームタウンのイベントをやってもいいと思います。選手もサッカーでは得られない経験を積めるし、自分たちがそういったイベントに参加していろんな人と交流できれば、レイソルのファンも増えると思いますから」
"選手会長"村上の野望は壮大だ。なにしろジェフユナイテッド千葉のホームタウンである千葉市を除き、あとは千葉県全土をレイソルのホームタウンにしてしまいたいというのだから。
村上は、おそらく多くの人たちの手助けがなければプロサッカー選手になってはいなかった。子どもの頃からの夢だった職業に就いた今、周囲からの手助けが必要だった以前とは異なり、家庭を持つ一人の男として、小さな命を育てる父親として、そしてチームのために尽力する選手会長として、力を与える側へ立場を変えた。今年26歳になったばかりの村上は、これからもまだまだ成長を遂げるに違いない。
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