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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

高山 薫

川崎で生まれ、サッカーボールを追いかけた少年時代地元フロンターレのトップチームに昇格できなかった苦境を乗り越え専修大学で抜群のスピードと攻撃力に磨きをかけたかけがえのない恩師に導かれ、湘南でプロへの道を切り開く泥臭く献身的に。チームのために走りまくる個性派はこうして生まれた

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 23

Chapter01:湘南急行

 「実は大学2年の時に、レイソルに練習参加に来たことがあるんです。ヒロ君(渡部博文)が特別指定だったから、俺も一緒にということになって2、3日だけですけど。石崎(信弘)監督(現モンテディオ山形監督)の頃です。大津(祐樹/VVVフェンロ)と、酒井(宏樹/ハノーファー96)がいました」
 高山薫とレイソルの間には、過去にそんな縁があった。その後、高山は大学を卒業すると湘南ベルマーレへ加入。1度目は練習生として、迎えた2度目のレイソルとの邂逅は、"対戦相手"としてだった。
 2012年天皇杯3回戦、柏レイソル対湘南ベルマーレ。当時、レイソルの選手たちが警戒する相手選手として最も名を挙げていたのが「左サイドの金髪の奴」と形容されていた高山である。
 最も警戒されていながらも、高山は先制点に絡む。右サイドから出たサイドチェンジのロングパス。これを高山が落とし、永木亮太がミドルシュートを放った。そのこぼれ球を大槻周平が詰めて湘南が先制点を挙げた。
 さらに、先制後にも高山が切り返しから放ったシュートがポストを叩き、そのこぼれ球を再び大槻が押し込んだが、今度はオフサイドになってノーゴールになった。だが、明らかに前半の流れは湘南が掴んでいた。
「前半はイケイケだったんですよね。でもその後、(田中)順也君(現スポルティング)に決められて、最後にネット・バイアーノのゴールで逆転されました」

Chapter02:レイソルだけは

 翌2013年、今度はJ1の舞台で再戦した。湘南のホーム、Shonan BMWスタジアム平塚では、前年のWBでの出場ではなく、高山は2シャドーの一角としてレイソルと対峙した。そして、この対戦でも高山は得点に絡んだ。高山のパスを受けた中川寛斗がスルーパス。背後のスペースに抜け出した亀川諒史が決めて、湘南が先制した。
 ところが、ここでもリードを守り切れず、最後の最後でレイソルが2ゴールを連取して試合をひっくり返すという、2012年の天皇杯にも似た展開で湘南は敗れた。高山はレイソルがチームとして持つ、際立った"勝負強さ"を痛感したことを明かす。
「J1のチームは、どこも最後の精度が高いと思ったんですけど、レイソルはその中でも勝負強いと思いました。俺の中では特にその象徴でしたね。良いサッカーをしても結局はやられてしまう。レイソルは最後に勝ち切るチームだという印象でした」
 だからこそ、2013年シーズンの終盤にオファーを受けた時も、「移籍欲がなかったんですけど、レイソルだけは行ってみたいと思わせるチームでした。他のJ1チームからのオファーだったら、間違いなく湘南に残っていました」と高山は言う。また、監督がネルシーニョ監督だということも大きかった。毎年のようにチームにタイトルをもたらすブラジルの名将の下でプレーし、選手としてさらに成長したいと強く渇望した。
 湘南に残留するか、移籍するか、その狭間で大きく揺れた高山は、最終的に新天地への移籍を決意した。
 移籍1年目にして、早くも攻撃陣になくてはならない選手の1人となった高山。彼は、果たしてどのようなサッカー人生を歩んできたのか。そのルーツを探る。

Chapter03:生まれ育った川崎で

 幼児の頃から、高山は走ることが大の得意だった。ヤンチャですばしっこく、幼稚園では誰よりも足が速かった。その足の速さを見込まれたのか、幼稚園年中の時に、園内でサッカーを教えていた先生から「サッカー、やりなよ」と熱心な誘いを受けた。それがサッカーとの出会いだ。
 兄弟の影響でサッカーを始める選手が多い中にあって、高山は珍しくその例からは漏れる。2つ上の兄はサッカーではなく、バスケットをやっていたという。
 高山が最初に誘われたサッカーチームは、幼稚園のチームではあったが、ただ単にボールを蹴る"遊戯"といった程度ではなく、大会にも出場するなど、幼稚園児がサッカーをするには本格的のチームだった。その後、小学校入学と同時に、ゴールハンターユナイテッドに入団。そして、最初の大きな分岐点は小学3年の時に訪れた。
「小3か小4の時に、フロンターレのスクールが初めてできたんです。そのポスターを親と見て、入ろうかとなりました。ジュニアチームではなくスクールだったので、2つ掛け持ちで入っていました」
 当時の高山が応援するJクラブは、当然川崎フロンターレである。パブリックビューイングの最前列に座り、全力で応援した。1998年のJ1参入決定戦にて、アビスパ福岡にVゴールで敗れてJ1に上がれなかった時は、強烈な印象として残っている。
 1999年にその川崎のスクールに『スペシャルクラス』が誕生する。高山はそちらへも選ばれた。川崎のスクールでは「昔はうまかったんです(笑)」というようにトップ下を務め、一方の地元のゴールハンターユナイテッドでは意外にもセンターバックだった。
「昔を知っている人に言わせると、『プレースタイルがメッチャ変わったな』と言われます。もっとテクニカルでしたから」
 当時の好きな選手は、レアル・マドリードのFWラウール・ゴンザレス。確かに現在の高山のプレースタイルを考えると、鋭い突破が武器のアタッカーに憧れていたのではないかと思ってしまうが、ゴール前での感覚とシュートテクニックの高いラウールに憧れていたというあたりは、小学生時代の高山が"テクニカルな選手"に傾倒していたのも納得ができる。

Chapter04:同世代の怪物

 ただ、川崎スクールのスペシャルクラスの中に、高山よりもインパクトを放つ同い年の選手がいた。なでしこジャパン、2011年FIFA女子ワールドカップ優勝メンバー、宇津木瑠美(現モンペリエ)である。
「相当うまかったですよ!小学生なんで体格が関係ない時期ですから、男に混じってプレーしていたんですけど、ヤバかったです」
 そしてもう1人、なんといっても同い年のスーパースターと言えば森本貴幸(現ジェフユナイテッド千葉)だ。
「森本はヴェルディでしたけど、川崎出身で、ヴェルディに入る前は隣町のチームだったんです。その時から有名でした。すごかったですよ」
 後に海外で活躍する周囲のビッグネームに比べれば、当時の高山はまだ突出した存在ではなかった。だが、中学に上がるとそのまま川崎U-15に加入、そこで彼の人生に大きな影響を与える人物と運命的な出会いを果たし、全国的に頭角を現していく。
「ジュニアユースの監督が、チョウさん(チョウ キジェ/現湘南ベルマーレ監督)だったんです。チョウさんにはそこで3年間、お世話になりました」
 川崎U-15は、チームとして大きな功績は残せなかったが、チョウ監督の熱心な指導と、このジュニアユースの時期に中盤からFWへコンバートされたこともあって、高山は14歳の時に初めてナショナルトレセンの選出を受けた。
「個人的に一番輝いていた時代です(笑)」
 そのトレセンメンバーには、先にも紹介した同年代のスター選手・森本や、柏レイソルU-15からは大島嵩弘(現AC長野パルセイロ)がいた。

Chapter05:プロへの道

 川崎U-15で、チョウ監督に徹底的に鍛え上げられた高山は、着実に実力を伸ばしていった。サッカーの面の他、チョウ監督からは自分のプレーに責任を持つことを学んだ。後にプロの世界でストロングポイントの1つになる高山のハードワークは、この頃に身に付いたものだった。
 年代別日本代表の経験はなかったが、そういった点を含めて、実力を買われた高山は、高校へ上がる際、別のJクラブのユースから誘いを受けた。しかし、高山はあくまでも川崎にこだわり、そのまま川崎U-18へ進む。そしていつかは、川崎のトップチームに上がってプロ選手になることを思い描いていた。
「高2の時は調子が良くて、トップに上がれるかも...と思っていたんですけど、高3になって、『なんでこんなにダメなんだ』というぐらいダメになってしまって。それでトップには上がれないということになりました」
 トップチームに上がるつもりでいた高山は困惑した。プロサッカー選手になる道が断たれてしまい、しかも代案が思い浮かばない。ただし、この機会にサッカーを辞めるという選択肢がないことだけは確かだった。そこで、今後もサッカーを続けるために、高山は川崎U-18の監督やコーチに相談をした。話に挙がり、勧められたのは専修大学への進学だった。
「2003年までフロンターレのU-18で監督をやっていた岩渕(弘幹)さんが専修大学のコーチをやっていました。専修大学なら実家からも近いし、大学サッカーの知識は何もなかったんで(苦笑)、『それでお願いします』ということになりました」
 岩渕コーチだけなく、監督の源平貴久氏も富士通時代からJFLで活躍してきた元川崎のプレーヤーだった。高山の他にも、川崎U-18から専修大へ進学する選手は何人かおり、双方のつながりは以前から強かったという。

Chapter06:ギラギラした仲間と切磋

 専修大サッカー部というと、2011年から関東大学リーグを3連覇している大学サッカー界きっての強豪校だ。しかし高山が高校3年の時は、大学リーグの1部にはいたものの、なかなか結果が出ずに、最終的には2部へ降格してしまう。
 それでも高山は、専修大への進学に躊躇はなかった。川崎U-18として最後の大会を終えると、高山の家が大学から近いと知った源平監督から「練習に来い」と誘われ、入学する3ヵ月前の2007年1月のチーム始動時には、すでに専修大の練習に参加していた。
 大学に限らず、高校サッカーを含めて、日本の育成年代がまだロングボールを多用するフィジカル勝負のサッカーの色合いが濃かった時代に、専修大が志向していたパスをつなぎ、丁寧なビルドアップをするサッカーは高山にとって斬新かつ衝撃的だった。3学年上にはチームのエースストライカー、荒田智之(現ファジアーノ岡山)や、1学年上には渡部博文がいた。当時は2部リーグながら、徐々に有望な選手が集まり始め、これから強くなっていくという雰囲気の感じられるチームだった。
 高山はチームの雰囲気をこう話す。
「同い年の選手も結構レベルの高い選手が集まっていたんです。そいつらがみんなギラギラしていて、ポジション争いも熾烈でした。そいつらと、とても良い関係でサッカーができたのは大きかったと思います」
 高山もプロサッカー選手を目指していたが、同期の選手たちもプロへの想いが強く、チームメイトの誰かが選抜チームに呼ばれると、呼ばれなかった選手たちは心の底から悔しがり、「次は自分が選抜に行く」とより練習に熱を込めた。高山は、そういうチームの環境や雰囲気に引っ張られた。
 2007年の関東大学リーグ2部で荒田が得点王に輝き、専修大は2位で翌年の1部昇格を決めた。
 2008年の1部リーグで、高山は目覚ましい活躍を見せていく。

Chapter07:花開いた大学時代

2011年から今年まで、関東大学リーグを4連覇している専修大学。その最大の特徴は、後方からパスをつなぎながらビルドアップをしていくスタイルにある。今では完全にチームの確固たるスタイルになったそのパスサッカーの原型は、すでに高山が在学していた頃にはベースができつつあった。
「3トップのサイドをやっていたんですけど、『とりあえずお前は開いておけ』と言われました。パス回しには参加させてもらえなかったんです(笑)」
 しかし、当時を知る渡部が「薫が仕掛けて、それに中が合わせるような感じでした」と話していることから、自虐的な述懐とは裏腹に、高山が持つ縦へのスピードや突破力は、専修大のパスサッカーにおいて異なる攻撃のアクセントとして絶大なる効果をチームにもたらしていたと推測される。
 事実、高山は1部で戦った2008年の大学2年時に、初めて関東大学選抜に選ばれている。チームとしても昇格したシーズンに6位となり、高山、渡部、町田也真人(現ジェフユナイテッド千葉)といったタレントを擁した専修大は、周囲から一目置かれる存在になろうとしていた。
 大卒Jリーガーの数も増え、高山もまた大学からプロになることを意識していた。渡部とともにレイソルの練習に参加したのは、ちょうど大学サッカーで活躍していたこの頃の話である。
「俺らの代は、2年の時から結構試合に出ていたんです。それで1部で6位になって、翌年、俺らの代が3年になった時は優勝候補と言われました。その時は周りから初めて、『専修、なかなかやるじゃん』という感じにはなっていました。でも、それで降格しちゃうんですけど・・・」
 パスはつながるがゴールを決められず、その背後をカウンターで突かれて敗れる試合が多かった。2009年、専修大は11位と下位に沈み、2部降格の憂き目に遭う。

Chapter08:恩師との再会

 それでも、大学選抜の経験を持つ高山はプロから注目を集めていた。最初に声を掛けたJクラブは反町康治監督(現松本山雅FC監督)が率い、中学時代の恩師であるチョウ・キジェがコーチを務めていた湘南ベルマーレだった。
「大学4年の最初に練習参加した時はカスリもしなかったです(苦笑)。その後にもう1回練習に誘われて、甲府との練習試合で1日だけ参加したんです。その時にハチャメチャにやったら『来ていいよ』と言われました」
 甲府との練習試合。潰されても潰されても、高山は諦めることなく直向きにプレーし続けた。ボールを奪われたら、すぐに切り替えて相手を追い掛けて守備をする。必ずしもプレーの出来が特別良かったわけではなかったが、そういった「自分のプレーに責任を持つこと」が湘南のクラブスタッフから高く評価された。
「あれがなかったら、人生どうなっていたか分かりませんね。本当に全てはあの試合ですよ」
 それは高山の人生において、大きく岐路を分けた1日だった。そして2010年の秋、晴れて湘南へのプロ加入内定が決まる。他のJクラブからも誘いを受けていたが、その中で湘南を選んだ理由をこう語っている。
「やっぱりコーチのチョウさんがいたので。チョウさんから『人生でこんなことはなかなかない。これも出会いだから湘南でやれよ』と言っていただいたのが大きかったです。多分、チョウさんがソリさん(反町監督)に薦めてくれたからベルマーレに入れたというのはあったと思うんです」
 川崎U-15時代にチョウ監督から「責任を持ってプレーすること」を体の奥底まで叩き込まれ、それを湘南で練習参加をした際に、ピッチ上で体現したからこそ、プロの門戸が開かれた。そして、湘南でプロになる手助けをしてくれたのも他でもない、チョウ氏だ。高山がプロサッカー選手になる上で、絶対に欠かせない存在。
「チョウさんは、本当に恩人です」
 自分の人生に多大な影響を与えたチョウ氏に対し、高山の感謝の念は尽きることはない。

Chapter09:個性派ファッション

 高山と言えば、湘南時代から奇抜な髪型がことあるごとに取り上げられる。かつてJリーグアウォーズでは、MCからプレーについて質問されるのではなく、髪型に関する質問を受けたほどだ。
 髪型を含めた、ピッチ外でのファッション性については、高山薫という人物を語るうえでは避けては通れないだろう。もちろん、サッカー選手は基本的にお洒落な選手が多いが、学生時代はジャージやスウェットが主な普段着で、プロ選手になってからファッションに興味を持つというのが、サッカー選手の一般的な傾向である。
 ただ、大学時代の彼を知る渡部によれば、サッカー部の選手はジャージを着て学校に来る者も多かった中、高山すでにハットを被り、お洒落を人一倍意識していた。では、高山がファッションを意識するようになったのはいつか。
「ファッションに目覚めたのは中2ですね。俺の兄貴が洋服が好きだったので、完全にその影響ですね」
 さすがにハットを被るようになったのは大学時代からだというが、中学・高校時代には、早くもファッションにはこだわりを持っていた。「なんなんですかね...。なんか、ファッションが好きなんです」と笑って話す高山は、独特なファッション性を磨いていった思い当たる理由を語る。
「フロンターレのユースは寮がなく、みんな自宅から通っていましたし、選手たちが通っている高校もバラバラでした。地元の友達も服が好きな人が多くて、全寮制の高校のサッカー部だったら、ジャージで過ごす機会が多いんでしょうけど、俺は私服を着て、電車で練習に行っていたので、そういう環境も影響したと思うんですよね」
 専修大のチームメイトの中には、自宅通いでもジャージ姿で練習に来ていた者もいたが、高山はそこでも流されずに自分のファッションにおけるポリシーを貫き、むしろその独自性はさらにエスカレートしていく。
「サッカー部じゃない大学の友達も、洋服好きな奴ばかりで、それで拍車がかかったというのはあったと思います。さすがに大学では髪型を奇抜にすることはしませんでしたが、4年の時にプロ1年目風の髪型にしていました。湘南の練習参加に行った時も『純愛組』と呼ばれたんですけど、そのまま挑んでみました(笑)。多分、ただの金髪だったら印象が悪かったと思います。でも俺は古臭い髪型にしていたので、だから何も言われなかったんじゃないかと、今はそう思います(笑)」

Chapter10:でもプレーで目立ちたい

 その後、プロサッカー選手になり、「自己責任」の名の下で自由を得ると、髪型や洋服の独自性が増していった。しかし、湘南時代に挑戦したい髪型をやり尽くしてしまった感もあり、レイソルへの移籍後は髪型に関しては比較的おとなしいという印象だ。
「去年に1回、坊主にしたんです。そこからもう金髪じゃなくてもいいかなという感じです」
 プロスポーツのエンターテイメント性を考えれば、髪型や風貌を一目見ただけで、ファンにその選手だと分かってもらえることは、非常に大事な要素でもある。そんな考えを抱きつつも、高山はサッカー選手としての本質と責務を忘れていない。
「ファッションよりも、プレーで目立つことが一番良いことですよね」
 2012年の天皇杯での対戦時、レイソルの選手から「あの金髪が」と呼ばれていたのは、風貌だけが目立っていたからではなく、明らかにプレーで脅威を与えていたからだ。
 湘南に加入した2011年のシーズン始動時には、思うようにうまくいかない部分多かった。だが、タイでのキャンプで自分を発揮できるようになり、高山は開幕から出場機会を掴んだ。
 そして、翌年から師であるチョウ・キジェ監督が指揮を執ると、高山はFWからWBとシャドーのポジションへコンバートされ、そこでも彼らしい献身的でエネルギッシュなプレーを続けていく。

Chapter11:恩師の元を離れて

 2013年のシーズン後半戦、高山の元にレイソルからのオファーが届く。ただ、その頃の湘南は残留争いの真っ只中にあり、高山は移籍に関しては何も考えず、ひたすらプレーに集中しようとしていた。"移籍"を真剣に考えたのは、シーズンの全日程を終了した後だった。
「その時に、『俺はずっとチョウさんに頼っているなぁ』と感じたんです。降格した責任を感じていましたけど、チョウさんの元を離れなければいけないんじゃないかとか、それにレイソルはJ1の中でも意識の高い選手が多いイメージを持っていたので、そこでチャレンジをしたいという想いがありました」
 2014年シーズン始動前、高山を獲得した理由については、吉田達磨ダイレクターも「高山は湘南でチームのためにプレーすることを叩き込まれた」と、責務を全うする彼の姿勢を高く評価していた。
 高山自身、レイソルに加わり、自分が抱いていた"意識の高い選手が多い"というイメージは「間違いなかった」という。むしろ、"Vitoria"のスローガン通り、勝利を貪欲に追い求めて目の前の試合へ向けて全選手が準備を怠らずに、ピリッとした緊張感の中で練習をしていく雰囲気は、「想像以上でした」と苦笑いを見せる。
 加入当初はレイソルの戦術、戦い方を自分の中に消化し切れず、悩んだ時期もあった。それでも、ひたすら走り抜く高山は、ネルシーニョ監督にとっては重宝される存在だったのではないだろうか。
 湘南時代に慣らした左のWBではなく、まずは右のWBという新境地を切り開き、4バックにシステムを変えた時などは右SBに落ちてプレーもした。6月に田中順也のスポルティング移籍が決まり、7月に狩野健太が負傷すると、今度はシャドーの一角を務め、レアンドロ、工藤壮人とともに破壊力のある3トップを形成した。
「順也君と俺のプレースタイルは違うんですけど、周りの選手を生かすことは俺にもできることだと思ったし、自分の良さを出そうということを考えながらやれるようになりました」

Chapter12:タイトルを獲りたい

 また、高山がレイソル移籍を選んだ理由の1つに、「タイトルを取れるチーム」ということがある。Jリーグ、天皇杯、ナビスコカップでは、目標を達成できなかったが、8月のスルガ銀行チャンピオンシップでは、一発勝負ではあるもののタイトルを勝ち取った。
「小学生時代は選抜チームで地区のタイトルをたくさん取った経験があるぐらいだったので、サッカー選手として、人生初のタイトルでした。でも、ちょっと一発勝負すぎて、実感が...(苦笑)」
 初めて味わったカップリフトに喜びを感じながらも、一方では一発勝負ゆえ、「勝ち抜いた気がしない」と微妙な心理状況をも明かした。だが、高山はまだ26歳。選手としては中堅の域に入ったばかりだ。これから先、タイトルを勝ち取るチャンスは訪れるだろう。
「俺はあまり先のことを考えるタイプじゃないんですけど、今はサッカー選手としてタイトルを取ることが目標です。あとは家族を持って、自分のサッカーをしている姿を子どもに見せたい。『お父さんはサッカーをやっていた』ではなく、やっている姿を見せるためにも、長く現役を続けて、第一線でプレーしたいと思います。そんなサッカー人生を歩みたいですね」
 常にチームのために献身的に働き、与えられた責任を果たそうとする高山は、個人的な見解だが、息の長い選手になるのではないかとの予感がある。時には頭を悩ませ、壁にぶつかる時もある。ただそれは、高山がチームの戦い方をより理解し、さらにチームにとって欠かせない存在になろうとする意識を持つからこそ、発生する壁でもある。そして、専修大学でも、湘南ベルマーレでも、柏レイソルでも、それを乗り越えることで、高山は選手として成長してきた。
 持ち前の責務を全うする姿勢に、"Vitoria"の意識を植え付けられた高山は、2015年に向けてさらなる飛躍を期す。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:特別メニュー「仙台牛上赤身と比内地鶏白レバー彩り野菜のステーキ丼」(小鉢:うな玉、西京焼き、鮪山かけ、秋刀魚煮)

photo_goodmeal

『炭火焼 とり竹』

  • 松戸市小金原2-14-11
  • TEL:047-343-7846
  • アクセス:JR常磐線「北小金駅」から2km
  • 営業時間:17:00~23:00
  • 定休日:水曜
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  • COMENTS:焼き鳥、串専門で、鶏は秋田から取り寄せて、そこにはこだわりを持ってやっています。あと、冬はフグもあります。うちは定食物もできるので、レイソルの選手にも利用してもらっています。十数年前からレイソルの選手やスタッフにも使っていただいているので、レイソルには感謝しかありません。
    昔は降格も目の当たりにしましたが、最近は何度も優勝するようになり、選手たちを見ても雰囲気の良さを感じます。 やっぱり、レイソルに期待することといったら、勝ってもっと盛り上がってほしいということですね。勝てばサポーターも嬉しいから、うちに来てくれますし、そういうので、またつながりができますから。(2014年9月取材)

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