TOP > ファンゾーン > ファンコンテンツ > on the way > 兵働昭弘

ファンゾーン

on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

兵働昭弘

朗らかな性格と心優しい気配りで仲間を惹きつけ
その周りにはいつも賑やかな輪ができる
人柄を表すような周りを活かすパスでチームを動かすプレーメーカーだ
キャプテンとして愛された清水から
故郷千葉のクラブへの新しいチャレンジを選んだ生き様を語る

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 16

Chapter01:名門・筑波大からJへ

 大学サッカー界屈指の名門・筑波大学は、関東大学リーグと全日本大学サッカー選手権(インカレ)において、ともに早稲田大学に次ぐ歴代2位の優勝回数を誇る。近年では、2002年と2003年でインカレ連覇を成し遂げ、2004年に通算14度目となる関東大学リーグ制覇を果たした。兵働昭弘は、そんな筑波大の黄金時代を支えた1人である。
「メンバーが素晴らしかったんです。先輩には羽生(直剛/FC東京)さんがいて、石川(竜也/山形)さん、平川(忠亮/浦和)さん、千代反田(充/名古屋)さん、僕の代に(鈴木)達也(FC東京)、下には(藤本)淳吾、阿部翔平(ともに名古屋)がいましたから」
 八千代高校時代には「無理だと思った」というプロサッカー選手への思いも、一緒にプレーしていた大学の先輩たちがプロへ進む姿や、頻繁にJクラブとの練習試合を行うことで、次第に「行けるんじゃないか」と身近な目標へと移り変わっていった。

Chapter02:レイソルとの初対戦

 その練習試合のひとつ。筑波大は03年にレイソルと顔を合わせている。当時ルーキーとして、その試合でフル出場した大谷秀和は、兵働の展開力を見て「上手い選手がいるなぁ」という印象を持った。そのことを兵働に伝えると、彼はこう切り返す。
「マジすか?じゃあ、俺もタニのこと覚えています(笑)」
 トップチームで試合に臨む筑波大とは異なり、レイソルは大谷以下、宇野沢祐次(現AC長野パルセイロ)、菅沼実(現磐田)、谷澤達也(現FC東京)といった若手中心で構成されたメンバーだった。中にはユース所属の選手もプレーしていた。
 一方で03年当時の兵働は、単に筑波大の中核を担うだけでなく、その年の夏に韓国・テグで開催されたユニバーシアードで優勝を成し遂げるメンバーの1人。すでにJクラブのスカウトたちも注目を集める存在で、精度の高いミドルレンジパスで攻撃を組み立てるプレースタイルは、すでに確立されていた。
「自分が左利きなので、左利きの選手のプレーは参考にしていましたよ。レコバとか、レドンドとか。でもやっぱり一番見ていたのは名波(浩)さんですね」
 確かに日本代表のレジェンドを彷彿とさせる。こちらがそう言うと「畏れ多いです」と首を横に振って謙遜するものの、兵働の光るプレーを目の当たりにしたからこそ、大谷も8年も前になる対戦を記憶していたのだろう。そして、この時に中盤で相まみえた2人は、8年後には同じユニフォームの背番号7と13を背負い、レイソルのリーグ初優勝に貢献することになるのである。
 04年、大学4年の兵働は、プロサッカー選手の道を歩むため、複数のオファーの中からひとつのクラブに絞った。名乗りを上げたクラブは全て練習に参加したが、その中で最も「感覚的に合った」と話すチーム、それこそが清水エスパルスだった。清水は熱心に兵働を誘った。監督の石崎信弘(現札幌監督)も兵働を高く評価していた。
「千葉県もサッカーどころと言われていますけど、静岡もサッカーどころですよね。そこで自分が認められれば、サッカー選手として成長できると思いました」
 05年、兵働のプロサッカー選手としてのキャリアが始まった。

Chapter03:ホームタウン白井出身

 実家のある白井から、一番近いJリーグのクラブがレイソルだった。電車を乗り継ぎ、何度も柏まで足を運んだ少年時代を兵働は思い起こす。
「中学生の時ですから15年ぐらい前ですね。エジウソン、加藤望さん、シモさん(下平隆宏)がプレーしていた頃です。やっぱりうちから一番近かったので、日立台には何度も通いました」
 地元のクラブチーム、七次台FCでサッカーを始めたのが小学1年の時。今ではJリーグ屈指のレフティーとして名を馳せる兵働だが、"左利き"のルーツを語るのに彼の兄の存在は避けて通れない。
 幼少の頃に兄の影響でサッカーを始め、生粋の左利きである兄のプレーを真似ているうちに、いつの間にか兵働は右足よりも左足でのプレーが得意になっていった。
「利き手は右なんです。もしかしたら足は後天的な左利きかもしれません」
 小中学時代、チームとしてはこれといって目立った成績を収めてはいなかったが、七次台FC、そしてその後進んだ七次台中学でプレーしていた頃から兵働は印旛郡トレセンの常連メンバーだった。中学の印旛郡選抜では県内の名門校と練習試合をすることも珍しくはなく、それが縁で中学3年時にはいくつかの高校から誘いの声を受けた。
「何校か練習に参加させてもらったんです。その中で僕の中では八千代高校が一番合うなという感じがしたんです」

Chapter04:名門・八千代から全国へ

 兵働は高校時代から頭角を現していく。1999年、高校2年時に岩手で開催されたインターハイでは八千代高校史上初の全国制覇を成し遂げ、兵働個人としても国体の千葉県選抜に選出されている。
 また、後にレイソルでチームメイトとなる選手らとの邂逅の多い時期でもあった。中央学院高校には澤昌克、習志野高校には栗澤僚一、八千代では1学年下に中島崇典がいたのである。
「澤とは選抜のセレクションでも一緒だったので、その頃からよく知っています。クリとはあまり試合をしなかったんですが、当時から話はしていました。ナカジは高校の後輩なんですけど、高校時代は上下関係が厳しかったので、あいつにとっては近寄りがたい先輩だったと思います。今はそんなこと関係なく、絡んできますけど(笑)」
 夏の王者として臨んだ高校選手権の千葉県予選では、永井俊太(現レイソルスクールコーチ)、中澤聡太(現G大阪)を擁する市立船橋高校に決勝戦で延長戦の末に敗れ、涙を飲んだ。その市立船橋が全国大会で優勝したため、翌年の選手権は予選免除の前回優勝校枠での出場となり、八千代には千葉県代表として全国大会に出場する大きなチャンスが訪れていた。
 しかも八千代は2000年のインターハイでは連覇こそ逃したものの全国で3位に輝いている。県内では栗澤の習志野、澤の中央学院以上に兵働、中島、鈴木規郎(現大宮)など好選手を揃える八千代が本命視されていた。
「でも決勝トーナメントに行く前の予選リーグで敗退してしまったんです。東海大浦安と野田北に負けて。だから僕が高校サッカーを引退したのは土のグラウンドでした」
 3位を勝ち取った夏のインターハイでは大会前に骨折し、全国大会でのプレーは叶わなかった。その怪我の影響で秋の国体選抜ではプレーすることなくサポートメンバーとして帯同するのみに終わった。冬の選手権は前述のとおり予選で敗れており、Jクラブのスカウトらが目を凝らす高校3年の大事な時期に兵働は檜舞台に立つことはできなかった。
「これはプロに行くのは無理だな」
 そう感じ取った兵働は、Jリーグのクラブではなく、大学進学を視野に入れた。当時八千代を指揮していた今泉守正監督にも相談した結果、筑波大学への進学を決めるのである。

Chapter05:選んだクラブ

 90年代後半から2000年代初頭。兵働が高校・大学時代を過ごした数年間は、日本を代表するレフティーで、当時ジュビロ磐田やヴェネツィアでプレーしていた名波浩の全盛期でもあった。同じ左利きとして、兵働は独特の感性と長短のパスを織り交ぜた名波のプレーから多大なる影響を受けた。
ミドルレンジのパスをベースにした兵働のプレースタイルは大学時代に確立され、そして花開いた。大学サッカー界で猛威を振るった筑波大で中核を担い、2003年のユニバーシアードの優勝メンバーである兵働にプロのスカウトが注目するのはごく自然の成り行きだろう。いくつのJクラブが獲得に動いた中から、兵働がプロの道を歩むために選んだのが清水エスパルスだった。
 2004年当時の清水は過渡期を迎えており、チームはリーグの下位に沈んでいた。日本平スタジアム(現アウトソーシングスタジアム日本平)で行われたセカンドステージ第13節のレイソル戦で2-1と勝利を収め、辛くもJ1残留を決めた。兵働の話によれば、優勝争いを繰り広げていたクラブも獲得レースに名乗りを上げていたというが、そのオファーを断り、清水を選択した理由をこう話している。
「僕が大学4年の時、エスパルスは苦しい状況でギリギリ残留という感じでしたけど、いつも大学にプレーを見に来てくれたり、熱心に誘っていただきました。それに練習参加した中で自分の中で感覚的に合うと感じたのがエスパルスだったんです」
シーズン途中にヘッドコーチから監督に昇格した石崎信弘監督(現札幌監督)は、クレバーでハードワークを怠らず、左足の長短のパスでゲームを組み立てられる兵働を高く評価していた。
実は、06年の北嶋秀朗、07年の太田圭輔(現徳島ヴォルティス)、08年の杉山浩太(現清水)と、清水からレイソルへの移籍が相次いだ際に、レイソルを指揮していた石崎監督は「来年は兵働じゃよ」と冗談を交えて話していたことがあった。そんな言葉も兵働に対する高評価の表れだと考えていいだろう。石崎監督は04年限りで清水の監督の座を退いているため、兵働を指導した経験は清水に練習参加した数日間だけとなった。

Chapter06:コンバートから主力へ

 新たに長谷川健太が清水の監督に就任した。長谷川監督は、いきなりルーキーのコンバートに踏み切った。
「最初のキャンプから、僕は左サイドバックで起用されていたんです」
 兵働のプロデビューは05年6月11日、ナビスコカップ予選リーグ第6節である。この試合で、兵働は上記した言葉通り左サイドバックでフル出場を果たした。もちろん「中盤で勝負したい」という気持ちは多分にあり、彼なりに葛藤もあった。
「なんで中盤じゃないんだろうという気持ちもありましたけど、大卒の選手は即戦力と見られています。だから1日も早くチームに馴染まなければいけない。サイドバックでも前向きにやって、認められれば試合に出られると思ってやっていました」
 普段の練習でも、サテライトの試合でも、新たに与えられたポジションをこなそうと努力し続けていた。
そんな兵働に本職のMFとしてプレーする機会が訪れたのは夏場。7月から勝てない時期が続き、長谷川監督も悪い流れを変える必要に迫られたと思われる。
分岐点は第20節の東京ヴェルディ戦だった。0-1のビハインドの状況から、後半29分に澤登正朗との交代でピッチへ投入された。MFで出場したこのリーグデビュー戦で、兵働は持ち味をいかんなく発揮、好プレーを見せた。
すると、次節の大宮アルディージャ戦では中盤でのスタメン起用を受けた。「ここで結果を出せば、ずっと中盤で使われるはず」。そう強い意気込みで臨んだ試合。その思いをピッチ上で体現した兵働は、前半43分、プロ入り初ゴールという形でキャリアに刻んだ。
「2-0で勝っていて、後半に3点ぶち込まれて逆転負けをした衝撃の初スタメンでしたね(苦笑)」
 敗れはしたがサイドバックの経験も生かされた。2-3で逆転された後、兵働は交代を命じられず、むしろ兵働がサイドバックへ降りることで、攻撃布陣へのシフトチェンジも可能にした。
「プレーの幅も広がったし、守備力も少しは上がったんじゃないかなと思います」
 さらに6年後、このサイドバックの経験をクラブワールドカップという大舞台でも生かすことになる。

Chapter07:確固たる地位へ

 同期入団の岡崎慎司(現シュトゥットガルト)、青山直晃(現横浜F・マリノス)、大学時代の後輩である藤本淳吾(現名古屋グランパス)の台頭もあり、チーム力を一気に伸ばした清水は、それまでの残留争いから一転して、翌シーズン以降は優勝戦線へと食い込む強豪チームに変貌を遂げた。兵働は、06年と08年には甲状腺機能障害が原因で二度戦列を離れたが、それでも復帰すると、必ず中盤のポジションを奪い返した。
 09年、兵働、藤本、枝村匠馬、本田拓也(現鹿島アントラーズ)が形成する中盤と、岡崎とヨンセンの組む2トップの破壊力は強力だった。また、このシーズンから兵働は新キャプテンを任された。清水は開幕から安定した成績を収め、上位につけていた。第28節のサンフレッチェ広島に引き分けて13試合無敗を継続すると、鹿島を抜いて首位に立った。優勝のチャンスが訪れた。
「でも次の大分戦でした。エスパルスが勝てば大分の降格が決まると言われていた試合だったんですけど、1-2で負けてしまったんです。そこから5連敗で失速。俺はなんて勝負弱いんだろうと思いました(苦笑)」
 翌10年も清水は開幕から10戦無敗を記録。アルビレックス新潟に敗れはしたものの、そこから6戦無敗で夏までは首位快走を続け、兵働も「優勝できると思っていた」と好調のチームに自信を抱いていた。しかし8月、横浜FM戦、新潟戦、磐田戦の3連敗から順位を大きく下降させた。結局、その後は名古屋の逃げ切りを許し、終わってみれば6位。最終的な目標だったACL出場権の獲得すら叶わなかった。
 昨年のシーズン途中でのこと。レイソルが優勝を成し遂げるために問われるものは一体何か。それを兵働に訊ねたことがある。その時彼は迷わずにこう答えた。
「連敗しないことです。やっぱり連敗すると、上位から離されてしまう。苦しい時に連敗せずに踏みとどまれるかは優勝するためには大事なことです」
"連敗"は優勝の足枷となる。それを二度も味わったからこそ、出た言葉だった。

Chapter08:決断

 兵働にとって、清水は居心地の良いチームだった。ただ、プロで6年を過ごし、新たなチャンレジを求めて「そろそろ環境を変えて、もっと選手として成長したい」という気持ちが芽生えていたのも事実だった。
そして2010年12月、兵働の元にレイソルから正式オファーが届くと、彼の心中にあった移籍への思いは大きく膨らみ始めた。
「年齢的にも一番動ける時。移籍には良いタイミングなんじゃないか」
 そう前向きに移籍を視野に入れつつも、重大な決断だけに即決とはいかなかった。そこにはもちろん、自分を成長させてくれた清水への恩義も愛着もある。清水が天皇杯を勝ち上がり、タイトルを獲れる位置にいたことや、ともにプレーしている主力メンバーの多くが移籍を志願し、チームを離れる者が出てきたことが、より決断を鈍らせた。
 多くの人からアドバイスをもらい、悩んだ結果、兵働が導き出した答えはレイソルからのオファーを受けることだった。だからこそ、サッカー選手としてリスタートを切るため、天皇杯のタイトルを置き土産に清水を去る。高揚するその思いを抱き、12月29日、天皇杯準決勝・ガンバ大阪戦のピッチに立った。
兵働は、その思いを体現するかのような躍動したプレーを見せた。1-0で迎えた前半29分には、左サイドからのグラウンダークロスに対し、豪快な左足シュートを叩き込んで追加点を挙げた。難敵・G大阪相手に終始主導権を握り、最終的に3-0で勝利を手にした。
ところが、試合終了間際に左足第5中足骨を骨折した兵働は、国立行きのチケット獲得に貢献はしたものの、その元日のピッチに立つことは叶わなかったのだ。決勝戦は、負傷でスタンド観戦を余儀なくされたうえに、試合も鹿島アントラーズに1-2で敗れた。清水に天皇杯のタイトルももたらせず、最後のピッチにも立てなかった。スタンドからピッチを眺めながら、「これも人生なのかな」と哀愁の念に駆られた。

Chapter09:地元のレイソルへ

 それから11日後の2011年1月12日。兵働は正式にレイソルの一員となった。加入当時のレイソルの印象について訊ねると、兵働はこう答えた。
「強化部から明確なビジョンを聞いていましたし、J2を圧倒的な力で優勝して昇格してきた。明るい未来を感じさせるチームだなという印象でした」
 年末の怪我の影響で開幕からは出遅れ、レイソルでのデビューは5月、第9節のモンテディオ山形戦で後半開始から途中出場だった。最終的に1-2で試合には敗れたが、レアンドロ・ドミンゲス、大谷、水野と奏でる攻撃は多彩かつ魅力的であり、客観的に見れば怪我明け復帰戦という点も考慮に入れて、及第点のレイソルでのデビュー戦だった。
「エスパルスでプロデビューのヴェルディ戦も負け。プロ初ゴールの大宮戦も負け。移籍初出場も負け......。持ってないですね(苦笑)」
 黒星の続く自身のメモリアルゲームを顧みた兵働は、自虐的にそう振り返る。その後、出場機会を徐々に増やし、第16節のアビスパ福岡戦ではロスタイムに移籍後初ゴールでダメを押し、2-0で勝利。移籍後初スタメンの第18節ヴァンフォーレ甲府戦では、ストロングポイントである長短のパスを駆使した展開力が姿を現し始め、4-1の勝利に貢献したのである。いよいよ兵働の本領発揮かと思われた。
だが、痛手となったのは、加入前の怪我により、グアムキャンプでネルシーニョ監督の求める詳細に渡る戦術の理解度を、個人的に深くまで突き詰められなかったことにあったのではないか。それを問うと兵働は「そんなことはありません」と否定し、レギュラー獲得に至らなかった理由を怪我のせいにはせず、自分自身に矛先を向けた。
「チャンスは何度ももらっていました。そのチャンスを生かし切れなかったんですから、結局は僕自身の力不足ということですよね」
 終わってみればシーズンを通じ、リーグ戦16試合出場、1ゴール。スタメンは6試合のみ。兵働の出場試合数が20を切ったのはルーキーイヤー以来である。それだけ2011年は不本意な成績に終わったが、その分翌年に懸ける意気込みは強かった。このインタビューが行われた12月の時点では、「来年は怪我なく最初からスタートできる」、「ACLもあるので試合は増える。もっとチームに貢献しないといけない」など、来たる2012年シーズンへの抱負を語っていた。言葉に込める力の強さからも、並々ならぬモチベーションがヒシヒシと伝わってきていた。

Chapter10:恩師からの誘いに

 昨年末、ジェフユナイテッド千葉の新監督に、元筑波大サッカー部監督の木山隆之氏が就任した。千葉の立て直しを図る木山監督は、気心の知れた兵働に白羽の矢を立てた。移籍の打診を受けた兵働は、驚きを隠せなかったようだ。
「最初は2012年もレイソルでプレーするつもりでいました。J1優勝チームとして戦えますし、ACLにも出場できますから。でも木山さんから『力を貸してほしい』と言われたんです。木山さんには大学時代にお世話になったので、本当に悩みました」
 1年前と同様、残留か移籍か、即決とはいかなかった。レイソルでプレーしたいという気持ちも強いが、かつての師への恩義も心底感じている。その狭間で揺れ続けた思いがとうとう結論に達した。「やっぱり木山さんから声が掛かったのが大きかった」と語る通り、兵働は1年間の期限付き移籍で「木山さんを男にする」と、師への恩返しを誓った。清水時代はキャプテンを務め、責任感の強い兵働らしい理由だ。
もちろん、この移籍はレイソルにとっては重要な選手の1人を失うのだから、ともすれば痛手となり得るだろう。だが兵働自身がこの移籍をポジティブに捉え、今シーズンではなく"2013年以降"のレイソルでの活躍を見据えるからこその英断であることを明かしてくれた。
「2011年は活躍できなかったので、1年間レンタルに出て、多くの試合に出場して、今よりもパワーアップする。そして来年こそレイソルの力になれるように、今度こそ必要な選手になるために修行してくるつもりでいます」
 本来、今回の"Restart"というタイトルは、清水からレイソルへ新天地を求め、プロサッカー選手として第2の人生を歩み始めた兵働自身の置かれた立場と、来年への巻き返しを期待して用いたものであったが、2012年シーズンは違う形で再出発を切ることになった。
 ただ、上記したように、兵働は「スケールアップして戻ってくる」と話している。その再び勝負を賭ける彼の覚悟を称え、そして何よりレイソルへの復帰が実現するべく、1年間の健闘を祈りたいと思う。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:「チキンカレー」

photo_goodmeal

『cafe de canaria(カフェ ド カナリア)』

  • 柏市中央町4-25
  • TEL:04-7166-1916
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」南口徒歩5分
  • 営業時間:[ランチ&カフェ] 12:00~14:30 [カフェ] 14:30~22:00
  • 定休日:火・第2・第4日曜日
  • For SUPPORTER:アソシエイツ会員証提示でテイクアウトカフェラテ50%OFF
  • COMENTS:私自身がコーヒーが大好きなもので、うちのお勧めはコーヒーになっています。機械もイタリア製を取り寄せ、そういう点にもこだわりを持っています。テイクアウトも請け負っていまして、個人店ですがそういう店もあっていいのかなと思ってやっております。
    レイソルの試合はいつも店内で流していますので、ご来店いただくお客様はコーヒー好きな方からレイソル好きな方まで幅広くいらっしゃいます。 レイソルがJ1で優勝して本当に嬉しいです。ウチの店はレイソル次第ですので、Jリーグの試合を流す他にも、天皇杯やクラブワールドカップの試合がある度に店を開けています。いつかは世界一のクラブになれることを期待しております。

≪ 一覧へ戻る

All Rights Reserved, Copyright (C) KASHIWA REYSOL