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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

増嶋竜也

身体を張って、泥臭くぶつかりながらゴールを守り抜く
スマートな外見からは想像しがたいファイタータイプのディフェンダー
小・中学校と地味なキャリアを歩んできたが一般受験をクリアして入学した市立船橋高校での華々しい飛躍
そして26歳ながら4つのJクラブを歩んできた足跡と経験が紡ぐ物語

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 14

Chapter01:覚悟を決めて

 「死ぬ気でやるつもりだった」
2011年5月7日、国立競技場。試合後のミックスゾーンで報道陣に囲まれた増嶋竜也は、発した言葉の重さとはとても似つかない涼しげな表情を見せた。いや、覚悟を決めて、それを全うしたからこそ見せる安堵と充実の表情だったのかもしれない。
 戦前はパク・ドンヒョクの欠場が心配されたが、試合が始まるとその穴を補って余りある圧巻のパフォーマンスで、エジミウソンとのマッチアップを終始凌駕した。増嶋の鬼気迫るプレーは、まるで魂でもほとばしるかのような様相だった。
 その約1ヶ月後、ナビスコカップの仙台戦では、パクに続き近藤直也が負傷で途中交代を余儀なくされた。その翌週に行われたJ1第14節横浜FM戦は、ネルシーニョ体制となって初めて、近藤とパクというレイソルの守備を支えてきたセンターバック2人を同時に欠く非常事態となった。
 しかし、ここでも増嶋は守備の柱として最終ラインをまとめ上げ、センターバックとして初出場の橋本和を鼓舞。守備に綻びが生じるどころか横浜FM相手に完勝を収め、2-0という完封に貢献している。
「増嶋の獲得は大正解だった」
 おそらく、多くの人がそんな印象を持ったのではないだろうか。増嶋は、間違いなくリーグ前半戦でのレイソルの快進撃を支えた1人だ。

Chapter02:いつかは故郷へ

 2010年12月末。1年でのJ1復帰を目指す京都は、翌年の主力選手の1人として増嶋に契約更新の意向を伝えた。だがその直後、増嶋は別のクラブからの移籍オファーを受ける。もちろん、それがレイソルである。その時の心境を増嶋はこう言葉にする。
「責任も感じていましたし、京都をJ1に挙げたい気持ちもあった。だからオファーをくれたのがレイソルじゃなかったら京都に残っていたと思います」
 千葉県出身の増嶋には「いつかは千葉県のクラブでプレーして、できればそこで引退したい」という思いがあった。
「だけどそんなタイミング、なかなかあるもんじゃないですからね」と言う通り、市立船橋高校卒業後はFC東京、甲府、京都と渡り歩き、千葉県のチームから一度たりとも声がかかることはなかった。
 プロ生活8年目を目前に、ようやく千葉でのプレーのチャンスが訪れた。地元への熱い思いを抱く増嶋にとって、オファーを受けた時点で気持ちは大きく黄色いユニフォームへと引き寄せられた。
 そんな増嶋がレイソルへの移籍を決断したのは、強化部との交渉を持った時だった。現有戦力と新戦力の名前が並ぶ2011年のレイソルの新布陣を見て率直に「すごい。昇格チームの戦力じゃない」と感じた。
「選手層は厚く、僕にとってやりがいがある。上を目指すという気持ちも感じられた。それに千葉県のチーム。レイソルには本当に魅力を感じました」
 望んでいた背番号5をもらい受け、レイソルのユニフォームに袖を通した。新天地だが、そこは自分が住み慣れた千葉県。増嶋竜也の新たな挑戦がスタートした。

Chapter03:野球ではなく

 父親、祖父とも野球をやっていたからだろう。千葉県千葉市にある実家にはグローブ、バット、ボールなど野球道具一式が揃っていた。野球一家のDNAが体内に受け継がれていると考えれば、あのロングスローで披露する並外れた強肩は納得ができる。
「多分、親は野球をやらせたかったと思うんです。でも俺、サッカーに行っちゃったんですよね」
 増嶋竜也が小学2年生の時だった。2歳年上の兄が「俺はサッカーをやる」と地元の生浜FCに入団したのを機に、増嶋も野球ではなくサッカーへ鞍替えするのである。
 増嶋がプレーしていた生浜FCは、当時は「サッカーの楽しさ」を子供たちに伝えるスタンスのクラブだったという。そのクラブで夢中になってサッカーに明け暮れた増嶋は、瞬く間にチームのエース格となった。
小学6年時にはジェフ千葉ジュニアユースのセレクションを受けるものの、1次テストで敢え無く不合格となった。したがって増嶋は地元の生浜中学へ進んだ。自身の生い立ちを改めて振り返りながら「なんで俺、プロサッカー選手になれたんだろう」と首を傾げる。
「生浜中は本当に普通の公立中学だったのでサッカー部も強くなかった。大会も1回戦負けでしたから。文化祭で練習が休みになったり、サッカー部なのにテニスをやったりしていました(笑)」

Chapter04:絶対に市船ヘ行く

 ただ、増嶋は子供の頃から体が大きく、肩の強さにも象徴される通り、運動能力が周囲の子供たちと比べてずば抜けていた。小中ともにチームでは目立った成績を収められなかったが、個人では小学生時代から中学を通じ、関東選抜、千葉市トレセン、県選抜からは常に声が掛かっていた。"楽しむサッカー"と"本気度の高いサッカー"。ギャップのある2つのチームを、増嶋は行き来していた。
そして選抜ではDFを務めることになるのだが、その理由は「ジャンケンで負けたから」。小中と攻撃的なポジションを担っていた増嶋のDFコンバートは、あまりにも安直すぎるものだった。
増嶋は子供の頃から正月の風物詩である高校サッカー選手権には釘づけになっており、小学5年の時に見た北嶋秀朗を擁する地元の強豪校・市立船橋の全国制覇以来、「絶対に市船に行く」と固く誓った。
中学3年の秋、市立船橋のセレクションを受けた。だが3年前のジェフ千葉の時と同様、ここでも不合格となった。このエピソードを話す増嶋も、さすがに「結構苦労してんすよ」と苦笑いを見せた。
「セレクションがダメだったので一般入試で市船に入ろうと思いました。でも勉強が苦手だったので大変でした(苦笑)。家庭教師までつけて勉強をしたんですよ」
 そんな努力の甲斐もあり、一般入試で合格を勝ち取った増嶋は、2001年4月、晴れて市立船橋の生徒となった。この全国屈指のサッカー名門校で、その才能を開花させることになる。

Chapter05:1年生ながら主力に

 市立船橋の練習は想像を絶するものだった。ボールを使う練習だけでなく、相当な量の走り込みを課された。サッカー部にはセレクションを通った者のほかに、増嶋のように一般入試をクリアして入学し、サッカー部へ加入した者も多かったという。ところがあまりの練習の厳しさに、1人、また1人と新入部員が辞めていく。
「必死でしたよ。必死で走り抜いて......。思い出したくもないです(苦笑)」
 増嶋は食らい付き、そして生き残った。だが、それでもセレクション組ではない増嶋はBチームからのスタートとなる。黙々と日々の練習に取り組んだ。
 2001年7月、転機が訪れる。BチームではFWとして身体能力の高さを見せていた増嶋が、布啓一郎監督(現JFA技術委員)の目に留まり、それを機に「DFをやってみろ」とコンバートされたのだ。
「布先生は本当によく見てくれているんです。Bチームでのプレーを見て俺をDFにコンバートして、それでインターハイ前にAチームに引き上げられました」
 しかも驚くべきことに、インターハイでは右サイドバックのレギュラーとして増嶋は起用されたのである。1年生のレギュラーは増嶋ただ1人。決勝では長谷部誠(現ヴォルフスブルグ)率いる藤枝東を3-0で下し、市立船橋はインターハイで優勝を成し遂げた。勝利に貢献した増嶋はレギュラーとして不動の地位を築いた。

Chapter06:センターバックの礎

 そして翌年、増嶋が高校2年の時。1学年上の大久保裕樹(現栃木)がU-19日本代表に呼ばれ、長期に渡ってチームを離れることになった。彼の穴を埋めるため、増嶋は一時的にセンターバックを務めた。
ところが、当初は"代役センターバック"に過ぎなかったのだが、持ち前の身体能力の高さと、空中戦の強さ、そして何より1対1に屈しないファイターぶりが存分に発揮され、瞬く間に堅守を支えるストッパーへと変貌を遂げた。
「選手権の前に大久保さんが帰ってきたんですけど、俺はセンターバックのままで大久保さんが右サイドバックになりました」
 2002年度の高校選手権では、2年生にして『大会屈指のセンターバック』と呼ばれた。増嶋はその名に相応しいプレーを披露し、国見と対戦した選手権決勝戦では、マッチアップした平山相太(現FC東京)を完封。市立船橋4度目となる選手権制覇の原動力となった。
「今考えるとすごいメンバーでしたよね。大久保さん、青木さん(良太/現千葉)、小宮山さん(尊信/現川崎)、鈴木修人(現栃木)、小川さん(佳純/現名古屋)、原さん(一樹/現浦和)、カレン(ロバート/現VVVフェンロ)...。みんなプロですからね」
 2003年、最上級生になると、キャプテンに任命され、市立船橋伝統の『背番号5』を継承した。秋の高円宮杯全日本ユース選手権では、決勝戦で小林祐三(現横浜FM)のいる静岡学園との雨中の激戦を制し、優勝を飾る。これでインターハイ、選手権、全日本ユースという高校年代3大タイトル全てを手中に収めた。
増嶋の周辺が俄かに騒がしくなる。複数のJクラブのスカウトから熱い視線を注がれ、いよいよプロサッカー選手への道が切り開かれようとしていた。

Chapter07:争奪戦からFC東京へ

 複数のJクラブが争奪戦を繰り広げた中から、増嶋は最終候補としてFC東京、鹿島、清水、この3クラブに絞る。そして当初は鹿島入りが濃厚かと思われた。
ところがFC東京の特別指定選手で、東京学芸大卒業後にはそのままFC東京へ加入すると見られていた岩政大樹(現鹿島)の鹿島入団が決まったのである。その影響もあり、FC東京からの猛アプローチを受けた増嶋は、最終的に青と赤のユニフォームを選んだ。
2004年、こうして『FC東京・増嶋竜也』が誕生した。また、同年には流通経済大4年の栗澤僚一も、特別指定選手としてFC東京に加入し、増嶋とともにプレーしている。
増嶋は高卒ルーキーながら背番号5を与えられた。3月13日、Jリーグ開幕戦の新潟戦では89分からの出場となったがデビューを飾った。クラブからの期待は高かった。だが当時を振り返る増嶋は「苦しかったですよ」と、ポツリ本音を漏らした。
「高3の時の天皇杯ではザスパに勝って、3回戦のマリノス戦はPKまで行きました。それでプロでも『通用する』という手応えはあったんです。でも入ってみたら思った以上に壁は大きかった」
 その後はチャンスを得られず、原博実監督(現JFA技術委員長)から「切り替えろ」と諭され、プロでも通用する身体を作るため、日々フィジカル強化に取り組んだ。

Chapter08:活躍の場を求めて

 その努力が実るのは3年目の2006年。春季キャンプ、プレシーズンマッチを経て、ガーロ新監督の信頼を勝ち取った増嶋は、開幕からスタメンに名を連ねた。しかも第6節の横浜FM戦ではプロ入り初ゴールも挙げた。ようやくレギュラーとしてポジションを確保しつつあった。
ところが、成績不振によりガーロが解任されると増嶋はまたしてもレギュラーの座を失う。後任の倉又寿雄監督には登用されず、翌年、増嶋は期限付き移籍で甲府へ新天地を求めた。
最終ラインからビルドアップできる増嶋は、パスサッカーを標榜する大木武監督(現京都監督)から重宝され、シーズンを通じてセンターバックのポジションを担った。第7節、レイソルと3-2で撃ち合ったあの好試合でもフル出場を果たしている。
「シーズンの終盤は怪我をしてしまったんですけど、甲府では25試合に出場して、ずっと出続けていたこともあって、FC東京からは『帰ってきてもいい』と言われたんです」
だが増嶋は迷い、東京への復帰を躊躇った。
そんな時、増嶋は1本の電話を受ける。その声の主は京都サンガFCの加藤久監督(当時)。加藤は増嶋と会う約束を取り交わすと、早速京都から東京まで赴いた。
 顔を合わせると、熱意と誠意の込められた口調で加藤は増嶋にこう言った。
「ぜひ京都に来てほしい」
J1復帰の2008年シーズンに向けて、守備陣を強化すべく補強に乗り出した京都。加藤は増嶋にその一角を委ねるつもりでいたのだろう。
加藤の熱意に打たれ、増嶋の胸中にあった靄がかった迷いは一気に晴れた。京都への加入を決意したのである。

Chapter09:京都での恩義

 「東京に戻るか悩んでいた時、(加藤)久さんから声をかけてもらって、必要とされていることがすごく嬉しかったんです。だから京都への移籍は即決でした」
 指揮官からの厚い信頼を受けた増嶋はその期待に応え、京都では主力としてほとんどの試合に出場した。センターバックにはシジクレイ、水本裕貴、郭泰輝、李正秀がいたため、本職ではない右サイドバックでのプレーを任されたが、「サイドバックを経験してプレーの幅が広がった」と振り返る。
今季からレイソルに加入した増嶋だが、小見幸隆強化本部統括ダイレクターによれば、ネルシーニョ監督から2011年の新戦力は「2つ以上のポジションをできる選手」との要望があったらしい。つまりこの時の京都でのサイドバック経験がなければ、増嶋のレイソル加入は実現に至らない可能性もあったということになる。
 さらに増嶋は、単にサッカー選手という観点でだけでなく、「人としても成長できた」と京都在籍時を語っている。指揮官の加藤久監督をはじめ、京都移籍後に出会った多くの人たちからピッチの外でも多くを学んだ。そして、その中でも増嶋が強い尊敬の念を抱くのが柳沢敦である。
「ヤナさん(柳沢)は私生活でも、サッカーをしている時でも、本当に模範的なんです。ピッチ外のちょっとした気配りとか、周囲に声をかけるタイミングとか絶妙で。ヤナさんのサッカーへの姿勢は真似していました。サッカー選手としても人間としても尊敬できる人です」
 今年26歳、増嶋より年下の選手も年々増えている。今、中堅選手という立場から若い選手たちとどう接するか、例えば声をかけることであったり、食事に誘うことであったり、一見何気ないことのように思えて、実はチーム内の結束を高めるために大きな意味を持つそういった配慮は、柳沢をお手本にしたものだという。

Chapter10:J1残留を懸けて

 京都は2008年には14位、2009年には12位と2年連続でJ1に残留した。しかし2010年は序盤からチームの調子が上がらず、降格圏へと沈んだ。加藤監督が解任され、ヘッドコーチの秋田豊が新監督に就いたものの、チームの成績は一向に伸びなかった。結局、第30節の浦和戦に敗れると、4試合を残してJ2降格が決まってしまう。
 試合に出続けていた増嶋は、当然降格の責任を強く感じていた。したがって当初は京都に残り、1年でJ1へ上げるつもりでいた。しかし、クラブが「若返り」との方針を打ち出すと、チーム編成は大掛かりな選手の入れ替えが行われ、尊敬する柳沢、角田誠ら、多くの主力選手が契約満了となり、京都を去ることになった。
「今まで築き上げてきたものが崩れていくようでショックでしたね。自分も京都に残る選択肢はあったんですけど......」
 2011年、レイソルから移籍のオファーを受け、増嶋も京都を離れることになるのだが、京都時代を回顧する増嶋は最後にこう付け加える。
「京都の3年間は一番試合に出て、一番成長できた。本当に良い経験だったと思います」

Chapter11:セカンドキャリア

 増嶋に「サッカー選手の先の人生」について問う。すると彼は躊躇うことなくこう答える。
「サッカーとは全く関係ない仕事をしたいんです。漠然とですけど......現役時代の貯金をつぎ込んでお店を持ちたいと思います。バーとか、カフェとか。それはそれで大変なんでしょうけど」
 日頃から目に見えない重圧と隣り合わせの生活を強いられ、勝利を手にするために節制し、自分の身体を徹底的に鍛え上げる。それらは"プロスポーツ選手"という職業とは切っても切り離すことができない。だからこそせめてセカンドキャリアでは、そういったストレスとは無縁の生活を送りたい。そんな思いがあるのだろう。増嶋はこう付け加える。
「奥さんと2人でお店をやっていくのが夢なんですよ.........まだ結婚していませんけどね(笑)」
 その店も千葉県内に開きたいというだから、増嶋の地元への愛情は相当なものである。

Chapter12:愛する故郷とともに

 そんなエピソードにも象徴されるように、千葉県には強い愛着を持ち、そこで育ったことに対する誇りを抱く。レイソル加入後、その思いはひと際強みを増したようだ。
優勝争いを繰り広げるチームで試合に出場し、幾度となく勝利に貢献している。単に試合における個人の力のみならず、ポジションを争う近藤直也、パク・ドンヒョク、酒井宏樹らも増嶋の加入によって多大な刺激を受け、おそらく彼らも負けじと日々の練習に励んでいることだろう。つまり増嶋の存在は、レイソルDF陣の活性化をも促しているのである。
「本当に充実していますね」
 今の心境を、まるで噛みしめるかのように言葉として発するのは、ピッチ内での充足をヒシヒシと感じているからだけではない。ピッチ外の出来事、例えば千葉市の実家に住む家族も観戦しやすい環境になった。地元の友人と顔を合わせる機会も増した。そして練習後のファンサービスの場においても、これまで所属していたクラブではなかったことがあるという。
「『市船時代から観ていました』と言われて、5番のユニフォームにサインを頼まれるのが増えました。それも男性サポーターの方が多いんです。FC東京や京都時代にはそういうのはなかったから嬉しいですよね。あらためて市船で頑張っていてよかったなと思いました」
 一方で、現在真っ只中にある優勝争いへ話題が変わると、増嶋の表情が引き締まった気がした。しかも、もちろん目下の目標が今季のリーグ優勝であることは言うまでもないが、キャリア初となる来季のACLでのプレーにまで言及するあたりは向上心の強い増嶋らしい。
「来年ACLに出場するとなったら、多分新戦力も加わると思う。そうしたら今よりももっとポジション争いが激しくなるけど、その方が上手くなれる」
 プレーヤーとして最も脂の乗る年齢に差し掛かった。その時期を自分の愛する千葉県のクラブでプレーし、数多くの勝利に貢献していることは、ひょっとしたら増嶋にとってもレイソルにとっても、定められた運命だったのかもしれない。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU: 「和風ナシゴレン温泉玉子のせ 」「あぶりマグロ」「馬刺し」など

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『Cafe&Dining 旬(SHUN)』

  • 柏市旭町1-5-4 プラザパスカ3F
  • TEL:04-7105-6672
  • アクセス:JR、東武野田線「柏駅」南口徒歩1分
  • 営業時間:11:00~16:00、18:00~24:00
  • 定休日:無休
  • COMENTS:店内は落ち着いたリゾート風の空間をイメージして、オリジナルの和風創作料理をお楽しみいただけます。ランチタイムでは、ゆで上げパスタがメインで、ドリンクがついた各種セットメニューをご提供しています。
    ディナーでは「茨城県産ローズ豚の岩塩黒胡椒焼」や「肉ジャガまんじゅう」、「ジャパニーズマルゲリータ 」などがお勧めとなっております。レイソルには柏の街を盛り上げる活躍を期待しています。 これからも頑張ってください。

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