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on the way

サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る

PLAYER'S BIOGRAPHY

林 陵平

両親から受け継いだ体格と身体能力に恵まれ
ヴェルディジュニアに異例の入団を果たすも
伸び悩み、もがき続けたユース年代
トップに上がれずとも、大学時代は決して回り道ではなかった
目標を公言する気の強さと、やり遂げる力を備えた生粋の点獲り屋

TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司

ROUTE 10

Chapter01:九州での就活行脚

 2008年2月。明治大学3年の林陵平は、せわしなく九州中を動き回っていた。
 2007年の関東大学リーグで、林は14ゴールを挙げ、明冶大の5年ぶり3度目の優勝に大きく貢献した。同年の天皇杯でもゴールを量産し、Jクラブを撃破する原動力となった。この大学屈指のストライカーに、Jリーグのスカウトたちが興味を示すのは当然だった。
 2月は、そういった境遇の大学生が、Jクラブの練習参加を目的とし、キャンプ中のクラブを渡り歩くという、移動と練習を繰り返す慌ただしい日々を過ごさなければならない。林もその1人だった。
 林は東京ヴェルディの宮崎キャンプに参加した後、今度は鹿児島県霧島市へ移動し、レイソルのキャンプを訪れた。
 その頃、レイソルは故障者が多発しており、主力を中心にかなりの人数の選手が別メニューをこなしていた。人数不足は紅白戦や練習試合に影響を及ぼす。そのため、急きょ工藤壮人、山崎正登、畑田真輝(現甲府)らU-18のメンバーをキャンプに呼び寄せ、どうにか他クラブとの練習試合ができるといった状態にあった。
 FC東京との練習試合で誰を1トップに起用するのか。石崎信弘監督(現札幌)は頭を悩ませていた。FW陣は、フランサも北嶋秀朗も負傷中。李忠成(現広島)はU-23日本代表に招集され、キャンプ途中でレイソルを離れ、アメリカ遠征へ向かってしまった。前線の駒不足は深刻だった。

Chapter02:いきなりの先発

 そこで石崎監督が目を付けたのが練習生の林だ。 「林、1トップに入ってくれ」  石崎監督は林にそう告げた。 「え、マジで?周りの選手のプレースタイルも全然わからないのに......。フランサの代わり?」
 口には出さなかったが、焦りは尋常じゃなかった。まだ練習参加初日で緊張すら抜けていない。にもかかわらず、いきなりスタメン出場で1トップを務めることになった。
 ぶっつけ本番のこの起用、機能する方が稀である。パスの出どころ、受けるポイント、動き出しのタイミングがまったく掴めず、背番号40の練習用ユニフォームを着た林と周囲との連携は、当然のごとく噛み合わなかった。
 3日間の練習参加を終えると、その次は横浜FCのキャンプへ向かった。だが今でも林が「忘れませんよ。あれはすごく緊張しましたからね」と苦笑いを見せながら振り返るほど、レイソルのキャンプ参加は印象深い出来事だったようだ。
 そして、これが林とレイソルとの最初の接点だった。

Chapter03:運命の黄色い糸

 

Chapter04:

 それから2年。ルーキーイヤーの1年間を東京ヴェルディで過ごした後、運命の糸が再び林とレイソルを引き寄せた。
 2010年1月23日。新体制発表会見で檀上に立った林は、訪れた1500人のサポーターの目の前で力強い言葉を言い放った。
「僕はゴールを決めるためにここに来たので、ゴールを決めます」
 その言葉を聞いたサポーターからは拍手が起こった。考え方によっては、この言葉でハードルを上げてしまい、後々自分自身を苦しめることにもなりかねないのだが、数ヵ月後、林はそれが大言壮語ではないことを証明するのである。

Chapter05:憧れの場所へ

 林陵平は、いつ、いかなる理由で、自分がサッカーと出会ったかを、まったく記憶していない。断片的に残る最も古い記憶の中には、すでにボールを蹴っている幼い自分がいた。
4つ年上の兄の影響だったのか、それとも近所の子どもたちと遊んでいるうちに自然とのめり込んでいったのか、定かではない。確かなことは、物心ついた時には、すでに自分はサッカーとともに歩んできていたということだった。
「幼稚園の頃だったかな。『清水北』というチームに入りました。静岡っぽい名前なんですけど、東京のチームです」
 現在は、身長186cmと「長身ストライカー」のイメージが強い林も、幼少の頃は比較的小柄な体格だった。ただ、ローラーゲームチーム「東京ボンバーズ」のメンバーだった母親の能力を受け継いだのであろう。生まれつき身体能力が高く、「今まで大きな怪我はしたことがない。それは母親似」と言うほど、先天的に強い体を持ち合わせていた。
小柄な子は足元のテクニックを磨くことに傾倒していく。林もその例に漏れなかった。ポジションは主にトップ下を務め、ドリブルとパス得意とする10番タイプの"エース格"だった。
 小学2年になった林は、学校の遠足でよみうりランドを訪れた。無邪気に、様々な遊戯施設で遊び、楽しいひと時を過ごしていた時である。ふと、隣接するヴェルディグラウンドが目に入った。
 時は1994年、その前年にJリーグが誕生したばかりである。普段、テレビで目にするプロサッカー選手が練習をしているそのグラウンドは、サッカー少年にとってひと際輝いて見えた。
「いつかはあそこでやれたらいいね」
 ゴーカートに乗りながら、林は同伴した母親にそう話したのを記憶している。

Chapter06:異例の勧誘

 その「ヴェルディグラウンドでやりたい」という夢は、思いのほか早く叶うことになる。翌年、林は清水北に所属しながらヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のスクールに通い始めたのだ。そして、その下部組織のコーチや読売西友ベレーザ(現日テレベレーザ)の選手たちから指導を受けた。
スクール活動を重ねていくと、林のセンスの高さや飲み込みの早さは、周囲の子どもたちよりもズバ抜けていたため、次第に指導者から注目を集めるようになった。事実、現在スカパーでレイソルのピッチレポーターを務める元ベレーザの小野寺志保も、当時の林を記憶しているのである。そしてヴェルディのコーチらは、小学3年生の林を「素質あり」と判断し、異例とも言うべき勧誘を行った。
「『スクールじゃなくてジュニアに入らないか』と言われました。本当はセレクションを受けて入るんですけど、僕はセレクションなしで入れたんです」
 Jクラブの下部組織へセレクションなしで入団する者は稀である。いるとすれば、それは優れた才能を持つ一握りの者だけが許される特別待遇なのだが、林はその1人だった。
 前身の読売SC時代から育成には力を注いできたヴェルディ。当然、当時もジュニアのレベルは高く、林の同級生には上田康太(現磐田)がいた。林は、そんな実力派のメンバーたちとサッカーに明け暮れる日々が楽しくて仕方なかった。レギュラーの座を勝ち取り、試合にも頻繁に出場した。タイトルこそ勝ち取るには至らなかったが、小学6年時には順調にジュニアユースの昇格も決めた。
だが林は淡々とした口ぶりでこう話した。
「でも、その後は挫折の連続でした」
 セレクション免除でヴェルディジュニアに入団し、エリート集団の中でもレギュラーとして試合に出続けた。一見、順風満帆に思えた歩みだが、中学に上がった途端に大きな壁が立ちはだかることになる。

Chapter07:小さな身体に泣いた日々

 中学に上がると、チームメイトたちの体格が変わっていった。身長が伸び、骨格が太くなる。小学生時代にはなかった"体格差"が生じ、たとえ技術的に上回っていても、試合や練習ではフィジカルコンタクトに圧倒されて何もできない。小柄だった林は、その差に苦しんだ。
「まだ中1の時は試合に出ていたんですけど、体が小さかったので、僕はずっとBチームでした」
 中学2年時には、通常のフルコートの大会ではなく、エントリー落ちした選手たちが出場するフットサルの大会メンバーに回された。林はそのメンバー漏れがあまりにも悔しく、フットサルの試合では監督のスタメン起用に対し「出たくないです」と泣きながら出場を拒否したという。
 林はメンバー外を何度味わっても、練習には真摯に、直向きに取り組んだ。しかし、それでもスタメンはおろか、サブにすら入れなかった。とうとう林は進学先を決めるにあたり、都内の私立高校を中心にサッカー強豪校を受験するつもりでいた。
 かつて"天才"と謳われ、読売クラブやヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)で活躍した菊原志郎は、現役引退後、ヴェルディの下部組織のコーチを務めていた。林はジュニア時代に菊原から指導を受けており、今でも彼を「師」と仰ぐ。
 ユースへの昇格を見送られるはずだった林を後押したのが菊原だ。「林は良いものを持っているから、ぜひユースに上げてほしい」と菊原は強化部に訴えた。そんな菊原の熱意と、林の父親は182cm、母親も165cmと、両親とも長身であることから、「今は小柄だがいずれは伸びる」という期待を込められ、林は異例のユース昇格を果たした。

Chapter08:有益だった回り道へ

 そして高校入学後、体内に眠っていた『長身のDNA』が目覚めた。身長がグングンと伸び始めると180cm台を超し、一転して大柄な体格を持つストライカーになった。
「でも、それで道が開けたかと言われたら、実はそうでもないんです(笑)」
 2004年の高円宮杯全日本ユース選手権。林はヴェルディユースのストライカーとして出場した。しかしヴェルディユースは主役にはなれなかった。決勝トーナメントに進出したものの、グループリーグで対戦した星稜には、"怪物"と呼ばれた本田圭佑(現CSKAモスクワ)がすでに注目を集め、規格外のプレーを繰り出していた。
さらに、続く決勝トーナメント1回戦、サンフレッチェ広島ユース戦は、"天才"と誉れ高き前田俊介(現FC東京)にハットトリックを演じられ、0-6というまさかの大敗を喫した。本田は名古屋グランパスへの入団が内定しており、前田はすでに2種登録でトップの試合に出場していた。プロへ進む同年代の2人、その力量の差を見せつけられた思いがした。
 トップ昇格のなかった林は、大学進学を選択した。
 2004年から就任した神川明彦監督指揮の下、明治大学サッカー部は低迷期から抜け出そうとしていた。関東大学リーグ2部で3位となり、翌年からの1部昇格を手にした。同大学はさらなるチーム強化の方針を強め、ヴェルディユースの西ヶ谷隆之コーチを翌2005年から新コーチとして招聘することを決定した。
 この西ヶ谷の明大コーチ就任は、林にとって運命の岐路だったのかもしれない。というのも、その西ヶ谷が林に明大への入学を勧めたのである。これまでクラブチームで育ってきた林にとって部活動は未知の世界だったが、着々と強化を進める同大学のビジョンに好感を持てた。
「俺、大学に進んだことは遠回りじゃなかったと思ってます」
 自信に満ちた表情で語るように、林は明大で大きく飛躍を遂げる。

Chapter09:多くを得た学び舎

 明治大学では、レギュラーはおろかAチームにすら入れず、1年の時はBチームで過ごしていた。思っていた以上に高い大学サッカーのレベルに洗礼を浴びた気分だったが、それ以上に林を驚かせたことがサッカー部の環境面だ。
「寮は1部屋8人で2段ベッドが4つあるだけなんですけど、自分のスペースがそのベッドのスペースしかないんです。仕切りがカーテンだけなんですよ。だからベッドの上でずっと生活していたんです。衝撃でしたね(笑)」
 しかも、クラブでは年上の選手でも友人に近い感覚で接してきたが、上下関係がしっかりしている大学では、1つでも学年が上の者は"先輩"だった。挨拶を徹底され、1年は練習の準備を強いられた。朝6時の練習開始に間に合わせるため、毎日5時起床でグラウンドへ駆けつけ、ライン引きや用具の準備を行う日課をこなした。クラブとは、環境が何もかも違っていた。
「でも大事なことですよ。礼儀がしっかりしていないとプレーにも出ると感じました。そういうことを大学の4年間で学びました」
 そんな林が大学で出番を掴んだのは2年の後期リーグからだった。1年時をともにBチームで過ごし、「頑張って一緒に試合に出よう」と切磋琢磨し合ってきた長友佑都(現チェゼーナ)と同じ試合でスタメンデビューを飾ったのである。先輩にも小川佳純(現名古屋)、石井秀典(現山形)などタレントを揃えていた明大は、関東大学リーグ1部後期で10勝1分という好成績を収め、総合3位に食い込んだ。
「プロを意識し始めたのは、2年の後期に試合に出始めてからです」
長友のオーバーラップからのクロスを林が決める。得点パターンが確立された明大は、翌2007年には前年以上の快進撃を続けた。さらにはチームの優勝争いだけでなく、林自身も早稲田大学の渡邉千真(現横浜FM)と激しい得点王争いを繰り広げた。
この年、明大は1962年以来43年ぶりの関東大学リーグ優勝を成し遂げた。林は惜しくも得点王のタイトルこそ逃したものの、それでも14ゴールは立派な数字だった。明大優勝の原動力となった林と長友は、大学ベスト11に選出された。

Chapter10:下克上の天皇杯

 明大の快進撃はここでは終わらなかった。社会人、大学、クラブユース、高校が出場する東京都サッカートーナメントでも優勝し、その年の天皇杯出場権を手に入れた。
2007年第87回天皇杯。2回戦から登場した明大はJFLのソニー仙台と対戦した。前半は0-2とビハインドを背負いながら、林の2ゴールで逆転勝利を収めると、続く3回戦ではJ2の京都サンガFCを相手に、後半ロスタイムに林が振り向きざまのシュートを決めて1-0の大金星を挙げた。当時、センセーショナルなJクラブ撃破に、明大は数々のメディアから取り上げられた。
4回戦、清水エスパルス戦には日本平に大観衆が詰めかけた。この試合は林にとって、おそらくそれまでに味わったことのない経験だったのではないだろうか。林は2ゴールを叩き込んでオレンジ色に染まったスタンドを驚愕させ、最終的には3-3からPK戦の末、明大は敗れたのだが、清水サポーターからは健闘を称える大拍手と『林コール』が沸き起こったのである。
「あの観衆の中でサッカーができる幸せを感じた試合でした」
 林は彼らしいはっきりとした口調でそう言った。
 林にとって2007年は、プロへの道を大きく手繰り寄せた1年となった。関東大学リーグと天皇杯の活躍によって、いよいよJクラブのスカウトが注目し始めた。

Chapter11:海外サッカーへの憧憬

 当時の関東大学リーグのプログラムを見ると、林の欄には『明治大のイブラヒモビッチ』との紹介がなされている。
それについて本人に問うと
「大学1年の頃から憧れていました。あの身長であの足元の柔らかさ。ああいう選手になりたいと思っています」
 と笑顔で返してきた。2010年のJ2第23節甲府戦では、ゴールパフォーマンスを真似たほどイブラヒモビッチに陶酔している。
 プロサッカー選手の中には「プレーするのは好きだけど試合はそれほど観ない」と話す者も珍しくない。だが林はプレーも観戦も好む筋金入りのサッカー好きである。CS中継であらゆる国のリーグ戦を観戦できる環境を整え、欧州各国のリーグやチャンピオンズリーグを楽しむ。普段、林との会話の中で欧州サッカーに話題が及ぶと、評論家顔負けの視点で各チームの戦力を分析し、勝敗まで予想するほどだ。
「本当にサッカーが好きなんで、セカンドキャリアは絶対にサッカーに関わった仕事がしたいです。指導者もいいけど、解説者もやりたい。実はスカパーのアフターゲームショーのノノさん(野々村芳和)のポジションとか狙ってます(笑)」
 そんな言葉もあながち冗談とは思えない。
2010年のシーズンを終え、オフにはセリエA観戦のためイタリアへ渡った。友人であり、チェゼーナで活躍する長友佑都に会いに行くのかと思いきや、「イブラを観に行きます。初めて生でイブラを観るんで楽しみですよ」と声を弾ませた。

Chapter12:古巣でプロ入り

 では話を再び大学時代に戻す。大学4年時は腰痛に苦しみ、「何試合かは出たんですけど、痛くて全然ダメでした」と、満足なプレーが出来なかった。とはいえ、それは林の評価を下げるものではなかった。
2008年7月1日。いくつかあったJクラブの誘いの中から、自分が育った東京ヴェルディを選び、翌2009年から待ち望んでいたプロの世界へ飛び込んだ。
「大学から行く選手は即戦力だと見られる。だから試合に出なければいけないと思う」
ルーキーという立場に甘んじることなく、貪欲に出場機会を欲した林は、その言葉どおり開幕早々の第4節水戸戦に早くもチャンスを掴んだ。
「初めてプロのピッチに立った時は感慨深いものがありました。多くの人たちに支えられてここまで来た。そういう人たちに感謝の気持ちでいっぱいでした」
味の素スタジアムで行われた第8節の鳥栖戦ではプロ初先発を飾り、ここでは結果も出した。この試合は菅原智が開始9秒で退場となったため、苦しい戦いを強いられてしまうも、数的不利のヴェルディは林の1トップにシステムを切り換え、その策が見事に奏功した。
前半12分に林は先制ゴールをアシストすると、後半29分には右サイドからのクロスボールをヘッドで合わせてプロ入り初ゴールを決め、チームも2-0で勝利した。
このシーズン、林は32試合に出場して6ゴールを決めた。ルーキーとしては上出来の数だった。だが「もっとやらなきゃいけない」と、そこに満足感はなかった。
そして、この1年目のルーキーに対し、5つのクラブから異例のオファーが届いた。
「1年目の活躍をいくつものチームに評価してもらえたのは嬉しかったです。その中で自分の中ではレイソルが一番しっくりくるチームだったし、J2に落ちたけど上を目指そうというのが感じられました」
 J1と日本代表。その大きな目標を見据え、レイソルへの移籍を決意した。

Chapter13:移籍の光と影

 「去年までホームだったスタジアムで、去年までいたチームから移籍初ゴールを決めるサッカー選手なんて、そんなにいないと思う。だから明日は絶対に決めます」
 2010年J2第4節東京ヴェルディ戦の前日、林はそう言い切った。屈託のない笑みとはあまりにも対照的すぎる大胆な発言だった。そして林は後半29分に浮き球を頭で押し込んで、有言実行のゴールを挙げた。
 だが、古巣相手にゴールを決めたのも束の間。その後、水戸戦以降はチャンスを生かせず、熾烈なポジション争いから脱落してしまう。チームの好調から取り残される形で林は出場機会を失った。
「試合に出られないのは何か原因があるはず」。出番を失い、メンタル的に厳しい時期もあったが、林はその状況に屈することなく布部陽功コーチに志願して、課題を克服する居残り練習を始めた。布部は言う。
「それまでの林は自分のタイミングで動き出していたんです。それを出し手が良い準備をできるように、いつ動くか、どのように動くかを考えてコツコツとやっていきました」
 林は布部の指導を受け、3ヶ月間黙々と練習に取り組んだ。すると「林自身が考えて、努力した結果です」と布部が太鼓判を押すように、チームが最も苦しんだ夏場に林は大きく成長して戻ってきた。
 8月15日の愛媛戦だった。前節のヴェルディ戦でシーズン初黒星を喫し、その愛媛戦でも前半にPK失敗が3本も続いた。この悪い流れを断ち切るべく、林は後半開始と同時にピッチに投入された。そして布部との練習の成果を体現するかのように、抜群の動き出しから後半5分と13分に、立て続けにゴールを叩き込んでチームを勝利に導いた。「あの3ヶ月間は、今までのサッカー人生でも一番成長できた時期」との彼の自負は、愛媛戦の2ゴールという結果が全てを物語っている。

Chapter14:確固たる地位を

 ここから林のゴールラッシュが始まる。その量産態勢を促した理由のひとつに、コンビを組む北嶋秀朗の存在が挙げられる。林と北嶋はグアムキャンプでの練習試合でコンビを組んでから互いに相性の良さを感じていた。
 北嶋は「2トップは恋愛に似ていて、初めてコンビを組んで直感的に『合うな』と思うこともあれば、長い時間をかけてお互いを理解してコンビネーションを深めていくこともある。林と俺の場合は前者だった」と言う。
 9月の北嶋の復活によって、林との2トップが公式戦で実現した。北嶋がニアに入れば林はファーへ、北嶋がクサビのパスを受けに降りれば、林は裏のスペースへ抜ける。そんな阿吽の呼吸でチームの攻撃は威力を増し、ジェフ千葉、アビスパ福岡との対戦でもレイソルは強さを誇示して上位対決を勝ち切った。
 第38節の草津戦でPKを決めてシーズン前の公約通り、林はゴール数を二桁に乗せた。夏以降の16試合で9ゴールという驚異的なペースは、甲府のハーフナー・マイクに次ぎ、栃木SCのリカルド・ロボと並ぶ。すなわち得点王争い並のハイアベレージだった。
 本来ならば、それだけの数字を残したのだから、多少の満足感に捉われても良いものだが、林は「こんなことで浮かれていられない」と表情を引き締める。
「僕の目標はJ1で活躍して、日本代表のストライカーになること。だから今度はJ1で結果を出さないといけないし、大学の時に一緒にやっていた長友は、セリエAでやっている。あいつには負けられない」
 これまでも目標を口にし、それをクリアしてきたからこそ、ここで林が語った「J1での活躍」や「日本代表」との目標もまた、いずれは達成させるのでは、という気にさせられる。
 レイソルの勝利と、ザッケローニへのアピール、そしてJ1での二桁ゴールを公言する林陵平の2011年に期待したい。

GOOD MEAL

TODAY'S MENU:「チキンカレー&サフランライス」

photo_goodmeal

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  • 柏市柏3-3-16
  • TEL:04-7164-7690
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