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サッカー観、生い立ち―。
プロへの歩み、これからの未来を選手が語る
PLAYER'S BIOGRAPHY
パク ドンヒョク
韓国の厳しい競争社会を勝ち抜き、代表まで上り詰めるまで...。 父親の背中を追い続け、その意志は揺らぐことはなかった。 憧れの大学に入学、潔いディフェンダー転身の決断が道を拓いた。 Kリーグ、オリンピック、Jリーグ、そしてACLで培った経験。 誰よりも厚いキャリア、熱い闘志でレイソルを牽引し続ける
TEXT:鈴木 潤、PHOTO:飯村 健司
ガンバ大阪から韓国人ディフェンダーがやって来る。チームにそんな話が伝えられたのは、日差しも強くなり、いよいよ盛夏を迎えようとする頃だった。
7月9日、大阪から柏に到着すると、真新しい練習着に着替え、フィジカル中心の練習をこなした。
「ずいぶんデカイ選手だな......」
大谷秀和は公式発表の『185cm』よりも大きいという印象を持った。
「ちょっと怖そう」
長身に加え、見てからに屈強な体格。橋本和は話し掛けるのを少々ためらった。
だが来日から半年にもかかわらず、簡単な会話ならば通訳を介さずとも日本語でコミュニケーションを取れた。南雄太(現熊本)、小林慶行(現新潟)といった同年代の選手とは真っ先に打ち解け、ほどなくしてチームに溶け込み、年下の選手たちからは韓国語で「兄」を意味する"ヒョン"との愛称で呼ばれるようになった。
パク・ドンヒョクにとって、『柏レイソル』というクラブの情報は無いも同然だった。あるとすれば、かつて韓国人の名選手たちがプレーしていたということ、そして5月10日の万博記念競技場で大勝を挙げたイメージしかなかった。
初めてクラブ事務所に足を運んだ時、まず目に入ったのは、入口に燦然と飾られている偉大なる大先輩たち、ホン・ミョンボ、ユ・サンチョル、ファン・ソンホンのユニフォームだった。中でもユ・サンチョルは、代表でもクラブでもお世話になった尊敬する存在である。その彼がレイソルで背負った背番号6を自分が受け継ぐことになり、ユ・サンチョルとの、そしてレイソルとの縁を強く感じた。
レイソルは残留争いの渦中にあった。G大阪在籍時の対戦では4-0の大勝を収めていたが、実際にチームに加わってみると、パクが当初抱いていた印象とレイソルの戦力は合致しなかった。
「力のある選手が何人もいる。レイソルはこんな順位にいるチームじゃない」
それがチームに加わった時の第一印象だった。DFにも近藤直也、小林祐三、古賀正紘(現磐田)といった実力者を揃えている。移籍のオファーを受けたといっても、レギュラーの座が保障されていないことは容易に判断できた。むしろ自分は新加入選手である。アピールして出場機会を掴まなければ移籍してきた意味がない。
パクのレイソルでのデビュー戦は、7月25日、第19節の鹿島アントラーズ戦。古賀、近藤とともに3バックを形成した。実は試合前日に負傷を負い、本来ならばとても試合に出場できる状態ではなかったという。
だが、「まだ来たばかりだったから、気持ちを見せないといけないと思った」
そんな思いから、痛みを堪えて強行出場を決意した。
初めて組む最終ラインのメンバー、レイソルにとってもシーズン初の3バック。にもかかわらず、守備が破綻するどころか、パクは鹿島のマルキーニョスを地上戦でも空中戦でも完全に封じていた。前半の途中からは、マルキーニョスがパクのマーキングを嫌ったのか、中央でのプレーを避けるかのようにサイドに開いた。相手ストライカーがゴールから遠退いたことによって、王者・鹿島の攻撃力が半減した。
村上佑介のゴールで1-0とリードし、前半を終えた。ハーフタイムには緊張が解けたせいか、前日の負傷箇所が激しく痛んだ。パクはロッカールームに戻り、あまりの痛みにうずくまった。就任したばかりで、この日はスタンドからの指揮となったネルシーニョ監督がロッカールームへ降りてきた。そして苦しむパクに問い掛けた。
「後半は大丈夫か?」
Kリーグでも、負傷や激痛に耐えながらの出場は幾度となくあった。蔚山現代在籍時の大邱FC戦では、イ・グノ(現G大阪)との激しいバトルの末、顔面を強打したこともあった。
「大丈夫です。後半も行きます」
Jリーグでもパクの強いメンタリティは変わらなかった。そう後半出場の意思をネルシーニョ監督に伝えた。
しかし、ここでドクターストップがかかった。パクは自らの意思とは関係なく交代を告げられ、試合もまた、マルキーニョスにゴールを献上し、1-1のドローに持ち込まれてしまった。
白星を飾ることができなかったとはいえ、パクの痛みを堪えながらのプレー、さらにハーフタイムに見せた勝利のために怪我でも強行出場しようとする精神力の強さに、周囲にいた選手たちは皆、度肝を抜かれた。
加入早々からチームに影響を与えた男、パク・ドンヒョク。彼のこれまでのキャリアで培ってきたものが、レイソルに変化をもたらそうとしていた。
1990年の春。10歳の少年は、自分の夢を叶えるために大きな決断を下した。ソウルでも屈指のサッカー名門校・スンシン小学校でサッカーを始めるにあたり、親元を離れることを決意したのだった。
韓国各地から集った大勢の子どもたちとともにコーチ宅で下宿生活を送った後、ソウルに住む叔母の家に移り住んだ。小学5年生にして親から離れ、厳しいトレーニングの日々にどっぷりと浸かった。あまりの辛さに、夜には人目を忍んで涙したこともあった。だが「サッカー選手になる」という夢のために人前では決して弱音を吐かず、課されたハードなトレーニングを全うし続けた。
そして彼は後に、このスンシン小学校出身のサッカー選手で、最も成功を収めるのである。
パク・ドンヒョクは1979年4月18日、韓国北西部の京畿道(キョンギド)、楊平(ヤンピョン)郡に生まれた。彼の父親も、かつてはアマチュアサッカーで慣らした選手だった。
「小さい頃から父親の姿を見ていたんです。だから僕も父親のようなサッカー選手になりたいと思っていました」
親譲りのサッカーセンスのおかげか、パクはサッカーを始めると飛躍的に能力を開花させていった。ストライカー、あるいはサイドアタッカーとしてチームになくてはならない攻撃の核となる。
漠然とではあったが、小学生当時のパクが目指していたのが高麗(コリョ)大学である。同校はホン・ミョンボをはじめ、韓国代表選手を数多く輩出したサッカー強豪大学であり、さらには元韓国大統領イ・ミョンバクや、最近ではフィギュアスケートのキム・ヨナなど、各界へ著名人を送り出している韓国屈指の名門大学なのである。
中学に上がると、スンシン小学校のチームメイトが別々になってしまったこともあり、個人・チームともにタイトルには恵まれなかったが、その後進んだ高校時代での活躍によって、自ら望んでいた高麗大への道を切り開いていく。
高校入学以降、パクはストライカーの他にも、ボランチのポジションを任されるようになっていた。チームが得点を欲する状況ならばパクは前線へ上がり、そしてリードしているならば中盤へ降り、ゲームをコントロールしながら、攻撃よりも守備に比重を置きプレーをした。
「あまり信じてもらえないんですけど、高校3年の時は全国大会で得点王にもなりました。僕は得点王に4回なっているんです。小学校で2回、中学で1回、高校で1回です」
パクの驚くべき点は、得点王のタイトルを獲得しながら、状況次第で披露した中盤の底でのプレーも高い評価を得て、守備面でも『優秀賞』を2回ほど手中に収めているところにある。あらゆるポジションで高水準のプレーを見せ、全国大会決勝戦ではチョ・ジェジン(現G大阪)の母校である大新高校を下し、全国制覇の最大の原動力になった。この超高校級プレーヤーを、名門大学側が放っておくはずもなかった。
高麗大の他に、慶煕(キョンヒ)大学もパクに猛烈なるアプローチをかけた。幼稚園から大学までの付属校にして、韓国屈指の有名大学のラブコールには、パクも当然頭を悩ませた。ここで選択の決め手となったもの、それは子どもの頃から抱く高麗大への"憧れ"の念である。
「自分の望む大学へ行きなさい。後悔のないように」
父親からもそう助言をもらい、パクは慶煕大からの誘いを断った。そして1998年、高麗大に入学した。
もちろん高麗大への入学も高校時代の活躍が認められてのものである。だが韓国屈指の強豪・高麗大。各ポジションにハイレベルな選手を揃え、ストライカーで出場機会を掴むのは容易ではなかった。その時、パクの守備能力の高さに目を付けた監督からコンバートの相談が持ちかけられた。
「他のポジションは全て埋まっているが、センターバックだけが空いている。そこをやってみないか?」
試合に出場できるのならポジションはどこでも構わなかった。高校時代にも前線以外にボランチもこなし、ストライカーへのこだわりが特別に強いというわけではない。センターバックへのコンバートを快諾し、分厚い選手層を誇る高麗大で、1年生にしてレギュラーポジションを手にしたのだった。
「高麗大で1年から試合に出るということは特殊なことなんです。ただ、そうやって試合に出られる選手が、年代別の代表に選ばれていきます」
このコンバートはパクにとって間違いなく大きな転機となった。自身の言葉にもあるように、"特殊"な選手の1人になった彼は、この年にU-19韓国代表の招集を受けたのである。
パクは12年前の記憶を辿り、語り始めた。
「U-19韓国代表はメンバーが良かったんです。イ・ドングク、ソル・ギヒョン、ソン・ジョングッ、イ・ジョンス.........パク・ドンヒョク(笑)」
1998年、AFCU-19選手権(以下アジアユース)への出場権を懸けた7月の予選を3戦全勝で突破したU-19韓国代表は、10月にタイで開催される本大会へ駒を進めた。現在のレギュレーションとは異なり、当時は10カ国を2つの組に分け、グループリーグを行っていた。組み合わせの結果、韓国は中国、イラク、カタール、そして日本と同居したのである。
「日本の2トップは高原直泰(現水原三星)と播戸竜仁(現C大阪)。小野伸二(現清水)、遠藤(保仁/現G大阪)、中田浩二(鹿島)、小笠原(満男/鹿島)、市川(大祐/清水)、稲本(潤一/現川崎)......」
日本が誇る『ゴールデンエイジ』のメンバーを、あたかも自分のチームメイトでもあるかのようにスラスラと挙げた後、こう付け加えた。
「僕らは日本と2度対戦して、2回とも勝ちました」
グループステージの3試合を終了した時点で、韓国、日本とも2勝1分。ただ、得失点差で日本が韓国を上回っていた。両チームともグループリーグ突破が濃厚で、ワールドユースへの出場権はほぼ手中に収めている状況で、一度目の対戦が行われた。
センターバックで出場したパクは、3試合で12ゴールを叩き出している日本の攻撃陣を封じ込んだ。韓国は早々に2点を先制し、日本の追撃を小野伸二の1点に抑え、2-1で勝利。グループリーグ1位を勝ち取った。
準決勝ではカザフスタンを相手に苦戦を強いられたものの、2-2の同点からPK4-3で辛くも勝利を収め決勝戦へ進出。ここで日本との2度目の対戦が実現した。
10月31日、アジアユース決勝。日本の2トップは前回と同様、高原と播戸だった。準決勝のサウジアラビア戦でハットトリックを達成した高原を、この試合でもパクは抑えた。
前半に韓国が先制点を奪い、後半に日本が播戸の一発で追いつくという拮抗した展開になったが、試合終盤にイ・ドングクが勝ち越しゴールを決めて韓国がU-19年代のアジア王者に輝いた。
翌年のナイジェリアで開催されたワールドユース(現U-20ワールドカップ)はグループリーグ敗退となったが、アジアユースの働きによって、この時の代表メンバー数名はシドニー五輪のU-23韓国代表とA代表に選出されることになった。その数名の選手の1人がパクである。
幼少の頃は「高麗大でサッカー選手になりたい」との夢を思い描いていた。その夢を実現したどころか、大学3年時にはそれを遥かに超え在学中に韓国代表にまで登り詰めた。となれば"プロサッカー選手"というものがパクの視界に映るはず。しかしプロへ進むという感覚は、もはや「夢」や「憧れ」の念ではなかった。
「プロサッカー選手には『なりたい』とか『ならなくちゃいけない』という感じではなくて、『当然なるものだ』という感覚でした」
厳密に言えば、パクはKリーグではなく、すでに海外進出を見据えていた。大学3年時にはドイツのクラブに練習参加し、大学4年時にはJリーグを視野に入れ、実際に数クラブのスカウトがパクに興味を示していた。
パクが大学4年の2001年は、ちょうどレイソルにホン・ミョンボ、ユ・サンチョル、ファン・ソンホンの韓国トリオがいた時代である。また、パク・チソン(現マンチェスターU)も京都パープルサンガ(現京都サンガFC)でプレーするなど、多くの韓国人選手がJリーグで躍動していた。
「当時、日本に来ていたのはほとんどが韓国代表でした。だから僕も日本でプレーしたいという思いがあったんです」
ところが、韓国大学選抜に選ばれたデンソーカップ。Jリーグのスカウトが目を凝らした大事な試合で、パクは本職のセンターバックではなく、以前に務めていたFWに起用されてしまったのだ。それによってパクはスカウトの目に留まらず、Jリーグからのオファーを受けるには至らなかった。
それでも韓国国内からのオファーは殺到した。数クラブが獲得に乗り出した中から、パクが選択したのは全北現代モータース。前線にマグノ・アウベス(現セアラーSC)、ボッティ(現神戸)を置いた攻撃的なチームだった。
2003年に韓国FAカップを優勝した全北現代は翌年、AFCチャンピオンズリーグへの出場権を得た。
「ACL(AFCチャンピオンズリーグ)は特に移動が大変でしたけど、いろいろ経験できたのは大きかったと思います」
パクは2004年に全北現代、2006年には蔚山現代、2009年にもG大阪と、計3度のACL出場経験を持つ。
ACLでは、日本のような近隣の東アジア諸国だけでなく、中東への遠征も日常的に行った。
全北在籍時には、レバノンで韓国代表の試合をこなした後、ACLのアル・イテハド戦に出場するためドバイ経由でサウジアラビアへ移動し、チームに合流した。
しかもラマダンの時期と重なり、食事の時間にも気を使わねばならなかった。そして試合を終えると約10時間のフライトで仁川国際空港へ戻った。
長距離移動や文化の違いだけでなく、当然中東諸国とはサッカーのスタイルも異なる。さらには代表戦とは一味違う国際試合のピリピリとした雰囲気の中で神経をすり減らしながら戦い、04年はアル・イテハドに、蔚山移籍初年度の06年は古巣の全北に敗れたが、2度ACLのベスト4まで勝ち進んだ経験は、何にも代え難い貴重なものだった。
現在は、レイソルで唯一のACL経験者として、その重要性を知るからこそ誰よりも思い入れが強く、「レイソルでACLに出場したい」と切に願う。
06年、パクは全北から蔚山へ新天地を求め、ユ・サンチョルと再会を果たした。周知のとおり、ユ・サンチョルはボランチを主戦場としながらも、状況次第では最終ラインでも前線でもプレーをした偉大なるユーティリティプレーヤーである。そしてパクも同様に、様々なポジションをこなしてきたことにより、周囲から「君のプレーはユ・サンチョルのようだ」との讃辞を受けていた。
パクの韓国代表初選出時、ユ・サンチョルはすでに代表の中核として確固たる地位を築いていた。遠征、合宿の際は彼と同室になり、プレーの他にも、プロ意識など、当時まだ学生だったパクは多くを学んだ。
蔚山への移籍によって、その尊敬する大先輩とのプレーがクラブでも実現するかに思われたが、ユ・サンチョルは膝の故障の影響で現役引退を表明していた。
「サンチョルさんの引退セレモニーには大勢の人が集まりました。サンチョルさんは泣いていたので、その時には言葉を交わしていませんが、そこで僕は背番号6を託されました」
全北では『23』を背負っていたため、当初は蔚山でも同じ『23』を希望するつもりだった。「サンチョルさんの背番号を継ぐプレッシャーはありました」と振り返るが、この時から『6』に対する愛着を持ち、その後移籍したG大阪でも、レイソルでも『6』を背負った。
そして『2008年Kリーグベスト11』という肩書を手土産に、かねてから見据えていた海外進出がようやく実現したのは2009年。まずはG大阪へ移籍し、出場機会を求めて同年7月にレイソルを選んだ。
J1第33節・大宮戦。パクはこの試合を前に、レイソルへの完全移籍を表明していた。この時も戦前に足を負傷しており、足を踏みしめるだけで全身を貫く様な激痛が走った。だが「残留の懸かった試合だから」と痛み止めの注射を打ち、強行出場を敢行した。
「ドンヒョクのこういう姿勢はチームに影響していますよ。他の選手たちも少々のことでは『痛い』とは言わずにプレーするようになりましたから」
パクが加入するずっと前からレイソルを知り、現在は韓国語通訳を務めるチェ・ファンは、彼が感じ取ったチームの変化をそう述べている。かつて"韓国トリオ"と呼ばれた選手たちがレイソルを変貌させたように、今ではパクが偉大な選手たちと同様、レイソルに多大な影響をもたらしている。
レイソルへの移籍も、キッカケは出場機会を求めてのものだったが、今では「本当にレイソルに来て良かった」と満悦の情を示し、軽快な口調で言葉を紡いだ。
「まだ数年はレイソルでプレーしたい。その先は......監督をやりたいと思っています。僕は今までに多くの指導者と出会ってきた。学んだことは全部覚えている。もしかしたら、レイソルには監督としても戻ってくるかもしれません(笑)。そしていつかは韓国代表監督をやってみたい。そんな夢を持っています」
そう思い描く未来を語る一方で、来シーズンへ向け、すでに昂る気持ちを抑えられないのか、J1の戦いについても憚ることなく言及する。
「僕個人的にはJ1の方がやりやすいと思う。今年、チームとしてやってきたことに自信を持ってやれれば、きっとJ1でも結果はついてくると思う」
また、強いチームの必須条件に、パクはオフ・ザ・ピッチでの交流も大事だと考える。したがって時には仲間を食事に誘い、自分の誕生日にはチームメイトを自宅に招き、母親の手料理を振舞った。
「若い選手たちは遠慮しているのかもしれないけど、彼らの方からも僕に『ご飯に連れていってください』と言ってくれて構わないんです。韓国にいた時もそうしてきました」
その言葉からは気さくな人柄を感じさせた。
代表やACLを通じて多くの経験を積んできたとあって、この先レイソルがまだまだ強くなる余地があることを、パクは様々な角度から感じているのだろう。若い選手が多いレイソルは、プレー、メンタル、オフ・ザ・ピッチ、あらゆる部分において、この男から学び取らなければならないものが多い。チームの飛躍に、パク・ドンヒョクという『唯一無二』の存在は、依然として欠かせない。
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